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2021年4月18日 (日) 11:22時点における版

ごめんやす馬場章夫です(ごめんやすばんばふみおです)は、1972年10月6日から2003年9月26日までの31年間にわたって、毎週月曜日から金曜日までMBSラジオで放送された番組。放送終了時点では、日本の民放ラジオ局で最も長期にわたって放送された生ワイド番組であった[1]

探検家」という肩書で活動していた馬場章夫にとっては、テレビ・ラジオを通じて初めての冠番組1974年4月からMBSラジオで放送中の生ワイド番組『ありがとう浜村淳です』のルーツは、当番組の土曜版『ごめんやす浜村淳です』である。

放送時間の変遷

放送曜日はいずれも、毎週月曜日 - 金曜日。

当番組の前枠で『ありがとう浜村淳です』平日版の放送を始めたことを機に、放送枠を1時間繰り下げた。1977年2月からは、当番組の土曜版『ごめんやす浜村淳です』を、『ありがとう浜村淳です土曜日です』として独立させている。

概要

タイトルの「ごめんやす」は、「ごめんください」を意味する京都弁である(大阪弁の説もあり)。構成作家には、香住春吾、女性アイドルの応援・評論で知られた青木一郞、「ラッキョウマン」のニックネームを持つ岡田貞樹などがいた。

開始直後から、毎回の放送終了後に、馬場がスタッフなどとさまざまな場所で取材。翌日(週末に取材した場合には翌週の月曜日)の生放送で、馬場自ら取材の内容を報告するスタイルを取っていた。そのため、日帰りできる地域から取材先を選んだり、1つのテーマを数回に分けて取材したりすることが多かった。1993年には、日本民間放送連盟賞・ラジオ生ワイド部門の優秀賞を受賞した[2]

年に数回は、「出前放送」と称して、関西サイクルスポーツセンターなどで公開生放送を実施。毎日放送の本社・制作機能が千里丘大阪府吹田市)にあった時代には、阪急グランドビル大阪市北区)内にあった自社スタジオ(通称“ラジオポート”)から放送していたこともあった。ただし、MBSラジオで選抜高校野球の全試合を完全中継した期間中は、原則として当番組の放送を休止。馬場が海外での取材などを目的に、夏休みを取ることもあった。ちなみに、それ以外で馬場が当番組を休んだのは、実父の死去と自身が結石を患った時の2回だけである。

当番組は、2003年9月26日を最後に、31年間にわたる放送を終了。同年10月4日からは、出演者を変えないまま、毎週土曜日の午前11:30 - 13:30に『ごめんやす馬場章夫のボラボラわーるど』として放送した。

MBSラジオでは、馬場がメインパーソナリティを務める午前帯のワイド番組を、『ボラボラわーるど』を含めて通算32年半(8009回)放送してきた。1973年4月から半年間は、MBSテレビの関西ローカル帯番組『おはよう4チャンネル』(毎週月曜日 - 金曜日7:20 - 8:20)内でも、当番組と同名のコーナーを編成。馬場自身も出演していた[3]

タイムテーブル(最長時間時代)

「 」は放送上のコーナータイトル。CM明けには、馬場が当番組のタイトルを勢いよく絶叫していた。

10時台
日本気象協会所属のキャスターと馬場との掛け合い形式で進行する。担当キャスター毎にキャッチフレーズとテーマ曲が決められており、コーナーの冒頭でキャッチフレーズとキャスターの名前を紹介してから、テーマ曲が流れ、コーナーが開始された。
テーマ曲は、キャスターの希望により変更された事もある。なお11時台の「お天気のお知らせ」では、テーマ曲は流れず、短い時間で終了する様になっていた。
交通情報センターのキャスターと馬場との短い掛け合いの後、交通情報を伝えていた。
  • 取材報告・前編
前日の放送終了後にスタッフなどと実施した取材の成果を伝える。ただし、毎月23日(ふみの日)には、リスナーから届いたハガキのメッセージ紹介に充てられた(後述)。
11時の時報前には、馬場が必ず、ドライバーに向けて安全運転を訴えていた。
11時台
  • 「電話訪問 うちの人たち」
阪急百貨店提供のコーナー。毎回1人のリスナーが、電話を通じて、家族の身辺雑事などを語る。出演者には、同百貨店の商品券1万円分が贈呈された。
12時台
  • MBSニュース→お天気のお知らせ→交通情報
  • 「ネットでボラボラ」
番組終了までの1年間放送。鳥居やスタッフが興味を持ったホームページを、毎回1つ紹介する。紹介されたページには、放送終了後に、当番組の公式サイトからリンクが貼られた。
  • エンディング
「さあ、ラッキョウマンもピーマンもウーマンも、 今日も元気にぐぐっっとあくび体操!」 という馬場の掛け声で、リスナーやスタッフに「あくび体操」によるリラックスを促すことが約束事になっていた。 

番組の末期には、リスナーやスタッフと思われる声で「ごめんやす馬場章夫です。○○しながら1179(いちいちななきゅう、MBSラジオの周波数)、毎日放送ラジオ」と歌われたジングルを放送。また、ニュース・お天気のお知らせ・交通情報・CM・著作権に抵触する部分を除いた放送音源を、放送後に公式サイトからオンデマンド形式で配信していた。

なお、放送ライブラリー神奈川県横浜市)では、鳥居睦子がアシスタントを務めていた1997年9月17日(水曜日)放送分の音源を所蔵。館内の視聴ブースで聴取できる[4]

出演者

メインパーソナリティ

放送上の愛称は「ばん(バン)ちゃん」。1997年香港返還では、MBSラジオからの「特派記者」として、返還前後の香港の模様を当番組や報道特別番組(MBS・TBSCBCRKBの共同制作)で伝えていた[5]

アシスタント

結婚のため、番組を卒業。
放送上の愛称は「ノコ」で、神戸市議会議員選挙への出馬に伴い降板。同選挙での当選を経て、1999年まで議員を1期務めた後に、『歌はおまかせ小山乃里子です』(当番組と同じ時間帯にABCラジオで放送された冠番組)でメインパーソナリティを務めた。なおMBSラジオへの出演は、2016年9月4日放送の『おとなの駄菓子屋』まで遠ざかることとなった。
放送上の愛称は「むっちゃん」。小山の降板が急であったため、後任が鳥居に決まるまでは、MBSの女性アナウンサーが交代で出演。馬場が休暇や海外取材などで番組に登場しない場合には、MBSの男性アナウンサー(柏木宏之亀井希生河田直也など)が代役でパーソナリティを務めた。当番組の終了後も、MBSラジオの生ワイド番組でパーソナリティやアシスタントを担当。2013年10月からは、『ありがとう浜村淳です』火~木曜日(2015年10月からは水~金曜日)のアシスタントも務める。

テーマ曲

  • 初代:Manos Hadjidakis「The Magic Isle」
  • 二代目:「ごめんやすのテーマ」(作曲:上村茂三
    • 1992年3月16日放送分から番組終了まで使用(AMステレオ放送開始に伴い変更)

特集コーナーの主な内容

取材企画では、東京などの遠隔地まで日帰りで赴いてから、翌日に大阪での生放送で報告したことが頻繁にあった。一部の企画は、後継番組を経て、馬場一家が運営するインターネットラジオ「JOBBBラジオ ボラボラ大冒険!」に引き継がれている。

  • 会社、工場、注目現場などへの訪問取材
「(宗教問題など)マスコミタブーのない取材」[6] をモットーに、取材音源を交えながら馬場自身で報告。連絡ミスや手違いなどで取材できなかった場合にも、翌日(翌週)の放送で移動の模様の一部始終をありのままに伝えていた。予備知識のほとんどないモーニング娘。のコンサート取材で大阪城ホールに入ったり、素足で大阪の都心部を歩いた模様・感想を伝えたりする[7] など、取材範囲は多岐にわたった。
  • 旧街道をボラボラ
“ボラボラ”とは馬場の造語で、「好奇心を持ちながらブラブラする」というニュアンスを含む。当企画では、東海道などの各街道を、数回に分けて歩きながら付近をリポート。各回のゴール地点では、人目をはばからず万歳三唱を披露した[8]。また、当企画以外にも、多数の“ボラボラ”シリーズが放送された。
  • 日本全国の湧き水、名水探し
番組30周年を迎えた2002年9月時点で、環境省から「名水百選」の指定を受けた場所のうち、49ヶ所を取材。以降も、随時取材を続けた。ちなみに馬場は、取材で集めた名水を、ペットボトルなどの容器に入れたまま自宅資料室の専用冷蔵庫に保存している[9]
  • 美術館、博物館などの特別展取材
最終日やその間近に取材することが多く、リスナーが放送で内容を知っても、イベント自体を見に行けないことが多々あった。
  • 「ふみの日」お便り紹介
ふみの日に当たる毎月23日には、普段の取材報告や放送内容に対する感想・意見など、リスナーからのハガキに書かれたメッセージを、全編にわたって紹介していた。
  • ばんちゃん語録
月に1回放送。当該月に馬場が生放送で語った内容から、放送作家の香住が日本語としておかしな言葉・表現をピックアップ。当コーナーでまとめて紹介していた。
  • 代理参拝
年1回の恒例行事で、年明けに参拝の模様を放送。毎年末には、リスナーに対して、祈願したいことを往信面に記した往復ハガキを募集していた。その条件で届いたハガキを、馬場が年末年始に全国各地の由緒ある神社(毎年1ヶ所)へ持参。現地で祈祷やお祓いを受けた後に、返信面に御朱印を押した往復ハガキを、応募したリスナー全員へ送り返していた。参拝する神社が毎年異なることもあって、受験合格や家内安全の祈願を中心に、毎回数千通の応募があった。
  • 復興のつち音
1995年1月17日火曜日)に発生した阪神・淡路大震災をきっかけに、毎月17日の放送では、馬場が被災地の現状を報告した[10]

放送時のエピソード

  • 放送開始初日には、毎日新聞朝刊テレビ・ラジオ欄(大阪本社発行分)の最下段に、当番組の広告が掲載された。
  • 馬場は、当番組が始まるまでの2年間、MBSラジオの深夜番組『チャチャヤング』月曜日に出演。同番組の終了を機に探検生活へ戻ろうと考えていたため、最初は平日の朝に放送される当番組への出演依頼を断っていた。しかし、同局の関係者がかなり説得した甲斐もあって、結局は当番組でパーソナリティを務めることになった[11]
  • 開始当初の3週間は、文化人をゲストに迎えたうえで、馬場がそのゲストにインタビューするというスタイルで放送していた。しかし、馬場自身のポリシーで、放送中にはゲストに敬称(「~先生」「~師匠」など)を付けなかった。現に、通勤途中の社用車内で当番組を聴いていた毎日放送の幹部の一人が、馬場の話に激怒。局に到着するや、放送中のスタジオへ入ろうとして、プロデューサーと押し問答になった。馬場の口調や対応に不愉快な思いを抱いたゲストが、出演後に毎日放送へ抗議したり、馬場の降板を求めたりしたことも相次いだという[12]
  • 当番組が馬場自身の取材報告を主体にしてのスタイルが確立するようになったきっかけは、馬場とディレクターで取材へ出掛けた際に、乗っていたタクシーが事故に巻き込まれたことにある。幸いにもただ1人無傷で済んだ馬場は、とっさの判断によって、私物のテープレコーダーで事故の一部始終を収録。翌日の生放送で、収録した音源を交えながら事故を報告した。その内容が当時のプロデューサーに高く評価されたことから、番組開始3週間目にして、放送スタイルを大幅にリニューアル。「馬場が興味を持ったテーマを、前日(月曜日放送の場合には前週末、休止期間に入る場合にはその期間中)に取材したうえで、その一部始終を翌日(または休止期間明け)の生放送中に報告する」というスタイルが定着した。
  • 馬場が現在の妻(放送上の呼称は「よっちゃん」)と結婚した1976年には、2週間にわたって、放送中に3回の公開結婚式を挙行している。2回目までは、神社への取材を兼ねての結婚式。3回目には、放送作家の香住夫妻を仲人・当時のアシスタントだった小山を司会に立てたうえで、毎日放送千里丘放送センターで最も広い公開放送用スタジオからの生中継を実施した[13]
  • 阪神大震災では、馬場・小山とも、自宅で被災した。しかし、馬場は発生当日、当番組の放送枠の一部(10時台)に急遽編成した「報道特別番組 近畿地方大地震」 の途中からスタジオに登場。馬場が通勤に使っていた地下鉄が震災の影響で運休になったためにMBSラジオが用意したタクシーで移動中に目撃した被災地の模様を報告した。ちなみに、馬場は偶然にも、発生直前の放送で阿武山(大阪府高槻市)にある京都大学の地震研究所を取材。取材報告の中で、専門家のコメントを引用しながら、神戸市近辺に活断層断層が存在することを指摘していた[10]
  • 河内音頭家元の河内家菊水丸は、10代の頃に、当番組でメディア初出演を果たした。そして、当番組が終了した2005年4月から5年間にわたって、ラジオパーソナリティとして当番組の放送枠で『さてはトコトン菊水丸』を担当した。ちなみに、メロディアンの生コマーシャルは、同番組でも10時台の後半に放送されていた。
  • 馬場・小山コンビで放送していた時期には、リスナーとの交流を目的に「ばんのこクラブ」を運営。会報を発行していた。1989年には、この活動で日本民間放送連盟賞のラジオ放送活動部門に入選している[14]
  • 小山、鳥居の両アシスタントは、馬場に対して厳しいツッコミを連発[15]。メインパーソナリティーに対してイエスマン(ウーマン)になりがちなアシスタント像とは、一線を画していた。ただし、両者が決して険悪なムードになっていたわけではない。良くも悪くも馬場が世間離れした人物であることに加えて、彼の取材報告に単純な間違いやあいまいな説明が多かったためである。
  • 日替わりプレゼント当選者との電話のつながり具合などによっては、後枠のミニ番組である『ホットのしゃべって当てましょう』を内包する形で放送してから、エンディングで改めて電話することがあった。そのため、番組後期には、放送中に当選者へ電話をかけないようになった。
  • 1999年には、当番組とシキシマパンコラボレーション企画として、ばんちゃんのあんぱんを発売した。2種類のあんぱんで、定価はいずれも100円。当番組の特集コーナーでは、企画から完成までの様子を、数回にわたって取り上げた。
  • 2001年10月には、関西地方のサークルKサンクス加盟店において、当番組プロデュースによる2種類の弁当が期間限定で発売された。

書籍

  • 馬場章夫 『ごめんやす馬場章夫です』 大阪書籍、1986年、ISBN 978-4-754890223
当番組の放送15周年記念出版。馬場の書き下ろしエッセイ。
当番組の放送30周年記念出版。30年間の主な放送内容を、馬場自身の思い出話と写真を交えて紹介している。

脚注

  1. ^ 『ごめんやす30年』奥付での馬場の紹介文で、当番組について、「昭和四七年一〇月に始まり、(初版刊行の2002年10月時点で)国内のラジオワイド番組の最長記録を更新中」と明記。
  2. ^ 日本民間放送連盟賞/1993年(平成5年)入選・事績
  3. ^ テレビ欄研究会編・著『ザ・テレビ欄大阪版 1964 - 1973』(TOブックス2009年)pp.150 - 154に掲載の1973年4月9日(月曜日) - 同月13日(金曜日)の『報知新聞』大阪本社発行版テレビ番組表を参照
  4. ^ 放送ライブラリー所蔵音源『ごめんやす馬場章夫です』
  5. ^ 『ごめんやす30年』pp.96 - 99「平成9年(香港):香港返還と九龍城」
  6. ^ 『ごめんやす30年』pp.32 - 34「昭和48年(ポックリ寺):満員御礼 byポックリ寺」
  7. ^ 『ごめんやす30年』pp.102 - 105「平成11年(厚底靴&素足):『地球の歩き方』二題」
  8. ^ 『ごめんやす30年』pp.52 - 59「昭和62年(東海道五十三次):東海道五十三次を歩く旅」
  9. ^ 『ごめんやす30年』pp.60 - 67「平成3年(日本全国おいしい水を求めて):水は地球の血液だ!日本の水は大丈夫?」
  10. ^ a b 『ごめんやす30年』pp.88 - 93「平成7年(阪神・淡路大震災):今でも毎月一七日は『震災の日』」
  11. ^ 『ごめんやす30年』pp.18 - 20「ばんちゃん青春グラフィティ」
  12. ^ 書籍版『ごめんやす馬場章夫です』より
  13. ^ 『ごめんやす30年』pp.42 - 45「昭和51年(ラジオ結婚式・番外編): ばんちゃん結婚式オンエア」
  14. ^ 日本民間放送連盟賞/1989年(平成元年)入選・事績
  15. ^ 『ごめんやす30年』pp.122「ばんちゃんと番組スタッフ・ブレーン」に掲載されたの鳥居のメッセージを参照
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