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「寒河江広種」の版間の差分

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2021年5月29日 (土) 11:42時点における版

 
寒河江 広種
広種墓所(福泉寺)
時代 戦国時代
生誕 文亀元年(1501年[1]
死没 天文15年12月24日1547年1月21日
改名 法名:福泉寺殿陽巌春公大居士
別名 少将公法華院光栄、兵部大夫
墓所 福泉寺(山形県寒河江市本町)
幕府 室町幕府
氏族 大江氏親広流寒河江氏
父母 父:寒河江宗広
母:不明
兄弟 孝賢、祥真、男、男、広種孝広
高屋知政妻、山野辺直広妻、中野氏
正室:祐林寺殿竹隠林公大禅定尼、
楯岡義輔の娘(孝広の妻の妹)[2]
兼広
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寒河江 広種(さがえ ひろしげ、ひろたね、旧字体:廣種)は戦国時代武将寒河江氏16代。寒河江城主9代。

生涯

福泉寺(寒河江市)

寒河江宗広の側室の子(5男)として文亀元年(1501年)に生まれる。後継者争いを避けて仏門に入ったとみられ、法華院光栄を名乗る。永正元年(1504年)、父の死により後継者争いが発生、弟で正室の子であった孝広が永正2年(1505年)3歳にして寒河江氏を継いだ。しかし、大永7年(1527年)孝広が病を得て没すると、嗣子がなかったため法華院光栄が還俗して広種と改名し跡を継いだ。

享禄元年(1528年)福泉寺を開基し、開山は本寺である澄江寺2代の象外棟玄大和尚が務めた。広種直筆の三社宣託が残る。

寒河江城南北朝時代末期から室町時代初期にかけて築城されたが、当初は方形単郭の平城であった。その後城の拡大に合わせて二の堰の開削が行われると二の丸・三の丸が築造され、広種の代には三重の堀を持つ連郭式平城となった(天文3年(1534年)制作(天正4年(1576年)銘)『寒河江城古絵図』)。永正18年(1521年)に攻め寄せた伊達氏はその後陸奥国での勢力拡大に傾注したことと、天文11年(1542年)から6年間続いた天文の乱により勢力を減衰させ、伊達氏の支配下にあった最上氏も争いに介入していたことなどから、広種の時代は比較的穏やかな治世だった[3]

広種の姉妹は山野辺直広山野辺城主)・中野氏中野城主)に嫁いでおり[4]、兄孝広の正室は楯岡義輔楯岡城主)の娘であった。また、「永正本大江系図」によれば広種も「楯岡妹」を妻としたという。最上氏庶流と縁戚関係を軸とした同盟関係にあったと思われる。

天文15年12月24日(1547年)数え46歳で亡くなり、跡を兼広が継いだ。広種没後、天文の乱で独立を果たした最上氏が領土拡張政策を取るようになると、争いに巻き込まれていくことになる。

系譜

  • 父: 寒河江宗広 - 左京大夫、左近大夫将監、因幡守。
  • 母: 不詳
  • 正室:祐林寺殿竹隠林公大禅定尼[5] - 天文5年(1536年)没[6]。墓所祐林寺(山形県寒河江市)。
    • 兼広 - 嫡男。太郎四朗。寒河江城主10代。永禄3年(1560年)最上氏に寒河江城を攻められるが退ける。天正2年(1574年)周辺の諸族・寒河江氏の庶流により攻められ、寒河江城は本丸を残して攻め崩されてしまう。法名治天広心。

脚注

  1. ^ 工藤喜兵衛家「大江系図(天文二年奥書)」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.63
  2. ^ 最上院「永正本大江系図(永正十年奥書)」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.41
  3. ^ 『寒河江大江氏』p.102
  4. ^ 「安中坊系譜」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.104
  5. ^ 「寒河江町誌」によれば祐林寺は寛正5年(1464年)開基。はじめ島村三条(寒河江市)にあったが宝幢寺(寒河江元時菩提寺)跡地に移転した。(「寒河江市史編纂叢書第5・6集」)
  6. ^ 「安中坊系譜(寛永廿年奥書)」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.104-105

関連資料

  • 寒河江市史編纂委員長 阿部酉喜夫『寒河江大江氏』、1988
  • 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994
  • 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001

関連項目