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2021年5月29日 (土) 11:44時点における版
杉溪 言長(杉渓、すぎたに ときなが、1865年7月5日(慶応元年閏5月13日[1])- 1944年(昭和19年)10月30日[1][2])は、明治・大正期の神職、宮内官、政治家、日本画家(南画)、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・山科[1]、幼名・狟丸[3]。雅号・六橋[4]。
経歴
山城国京都で右近衛権中将・山科言縄の三男として生まれる[1][3][5][6]。慶応4年(1868年)興福寺妙徳院を相続し、同年、得度して住職に就任[1][3][5][7]。同年4月(1868年)復飾を命ぜられ[1][5][3]、春日社神勤・新神司となる[3][5]。明治2年3月(1869年4-5月)、堂上格に列した[1][3][5]。同年11月(12月)家号を杉溪に改名[1][5][7]。1875年3月28日、華族に列し[3][5]、1884年7月8日、男爵を叙爵した[1][8]。
1882年1月、京都宮殿勤番となる[3][6][7]。その後、殿掌を務めた[3][7]。1890年7月、貴族院男爵議員に選出され、1925年7月まで五期在任した[2][7]。この間、木曜会で活躍し、同会が分裂して清交会が結成されると主幹を務めた[4]。
1929年9月2日に隠居し[1][9]、同年10月1日、養嗣子・由言が男爵を襲爵した[10]。
人物
京都で画を重春塘に、禅を荻野独園に、詩を神田香巌に学んだ[4]。その後、鎌倉円覚寺で今北洪川に入門し約3年間参禅した[4]。早川千吉郎らの勧めで上京し、東京専門学校政治科で学んだ[4]。さらに南画を大倉雨村に、詩を森槐南について研鑽した[4]。
栄典
著作
- 画、佐藤渾編『深柳堂画冊』佐藤渾、1917年。
- 『深柳堂懐古詩』杉溪言長、1936年。
- 『美人百態』杉溪言長、1939年。
- 『平安襍詩』杉溪言長、1941年。
親族
注釈
- ^ a b c d e f g h i j k l 『平成新修旧華族家系大成』上巻、770頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』75頁。
- ^ a b c d e f g h i 『華族畫報』下、736頁。
- ^ a b c d e f 『現代名士人格と修養』168-170頁。
- ^ a b c d e f g h 『杉渓家譜』
- ^ a b 『大日本華族大鑑』274頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録』第8版、ス32頁。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第822号、昭和4年9月24日。届出は9月11日。
- ^ 『官報』第829号、昭和4年10月3日。
- ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、793頁。
参考文献
- 杉謙二編『華族畫報』下、吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上下巻、霞会館、1996年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 坂本箕山『現代名士人格と修養』帝国文学通信社、1920年。
- 人事興信所編『人事興信録』第8版、1933年。
- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 『杉渓家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 杉溪家初代 1884年 - 1929年 |
次代 杉溪由言 |