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杉溪言長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
杉溪言長
すぎたに ときなが
生年月日 1865年7月5日
出生地 日本の旗 日本 山城国京都
(現・京都府京都市
没年月日 (1944-10-30) 1944年10月30日(79歳没)
前職 神職
所属政党木曜会→)
清交会
称号 正三位
配偶者 杉溪茂子
子女 養子・杉溪由言

在任期間 1890年7月10日 - 1925年7月9日
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杉溪 言長(杉渓、すぎたに ときなが、1865年7月5日(慶応元年5月13日[1])- 1944年昭和19年)10月30日[1][2])は、明治から大正期の神職宮内官、政治家日本画家南画)、奈良華族貴族院男爵議員。旧姓・山科[1]、幼名は狟丸[3]。雅号は六橋[4]

経歴

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山城国京都右近衛権中将山科言縄の三男として生まれる[1][3][5][6]。慶応4年(1868年興福寺妙徳院を相続し、同年、得度して住職に就任[1][3][5][7]。同年4月1868年)復飾を命ぜられ[1][3][5]春日社神勤・新神司となる[3][5]明治2年3月1869年4-5月)、堂上格に列した[1][3][5]。同年11月12月)家号を杉溪に改名した[1][5][7]1875年(明治8年)3月28日、華族に列し[3][5]1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[1][8]

1882年(明治15年)1月、京都宮殿勤番となる[3][6][7]。その後、殿掌を務めた[3][7]1890年(明治23年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)7月9日まで5期在任した[2][7]。この間、木曜会で活躍し、同会が分裂して清交会が結成されると主幹を務めた[4]

1929年(昭和4年)9月2日に隠居し[1][9]、同年10月1日、養嗣子・由言が男爵を襲爵した[10]。墓所は多磨霊園(21-1-29)

人物

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京都で画を重春塘に、禅を荻野独園に、詩を神田香巌に学んだ[4]。その後、鎌倉円覚寺今北洪川に入門し約3年間参禅した[4]早川千吉郎らの勧めで上京し、東京専門学校政治科で学んだ[4]。さらに南画を大倉雨村に、詩を森槐南について研鑽した[4]

栄典

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著作

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  • 画、佐藤渾編『深柳堂画冊』佐藤渾、1917年。
  • 『深柳堂懐古詩』杉溪言長、1936年。
  • 『美人百態』杉溪言長、1939年。
  • 『平安襍詩』杉溪言長、1941年。

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 霞会館 1996a, p. 770.
  2. ^ a b 衆議院 & 参議院 1990, p. 75.
  3. ^ a b c d e f g h i 杉謙二 2011, p. 736.
  4. ^ a b c d e f 坂本箕山 1920, p. 168–170.
  5. ^ a b c d e f g h 杉溪言長差出 1875.
  6. ^ a b 筒井住蓮 1911, p. 274.
  7. ^ a b c d e 人事興信所 1933, p. ス32.
  8. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  9. ^ 『官報』第822号、昭和4年9月24日。届出は9月11日。
  10. ^ 『官報』第829号、昭和4年10月3日。
  11. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  12. ^ 霞会館 1996b, p. 793.

参考文献

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  • 杉溪言長差出『杉渓家譜』1875年。  - 東京大学史料編纂所所蔵。
  • 筒井住蓮 編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。 
  • 坂本箕山『現代名士人格と修養』帝国文学通信社、1920年。 
  • 人事興信所 編『人事興信録』(8版)人事興信所、1933年。 
  • 衆議院; 参議院 編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《上巻》吉川弘文館、1996年。 
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。 
  • 杉謙二 編『華族畫報』《下》吉川弘文館、2011年。  - 華族画報社大正2年刊の複製。


日本の爵位
先代
叙爵
男爵
杉溪家初代
1884年 - 1929年
次代
杉溪由言