「ピョートル2世 (ロシア皇帝)」の版間の差分
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1715年10月23日に生まれた後、間もなく母を失い、父も[[1718年]]に廃嫡され非業の死を遂げたため、当初は後継候補から除外されていた。隔離されて育ち、祖父の[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]も彼を系統的に無視した<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Peter II.}}</ref>。最初にピョートル2世の家庭教師を務めたのはオランダ人居留地に住む仕立屋とぶどう酒商人の妻であり、ノルマン({{lang|en|Norman}})という名前の海員がピョートル2世に航海の基礎を教えた<ref name="EB1911" />。その後はハンガリー人難民で元教師のヤノーシュ・ゼーカーニ({{lang|hu|János Zékány}})が家庭教師を務めた<ref name="EB1911" />。[[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]]の治世にも顧みられなかったが、1727年に彼女が崩御する直前、大貴族たちはもはやピョートル2世を帝位継承から排除できなくなったと考えた<ref name="EB1911" />。ピョートル2世は国民の大半と貴族の4分の3から支持を得たのであった<ref name="EB1911" />。母の姉が[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]の妻だったため、カール6世は一時{{仮リンク|ロシア駐在オーストリア大使の一覧|de|Liste der österreichischen Botschafter in Russland|label=ロシア駐在オーストリア大使}}{{仮リンク|アマデウス・ド・ビュッシー=ラビュタン|de|Amadeus de Bussy-Rabutin}}を通じてロシアの帝位継承を主張した<ref name="EB1911" />。ラビュタン、[[アンドレイ・オステルマン]]、[[アレクサンドル・メーンシコフ]]の交渉の結果、1727年5月18日、ピョートル2世は皇帝に即位した(ただし、公式にはエカチェリーナ1世の遺言に基づくとされた)<ref name="EB1911" />。その後、オステルマンがピョートル2世の教育係を務めたが、メーンシコフはピョートル2世を[[ワシリエフスキー島]]にある自身の宮殿に連れて、娘の{{仮リンク|マリヤ・メーンシコヴァ|en|Maria Menshikova}}と婚約させた<ref name="EB1911" />。1727年9月11日にメーンシコフが失脚するとマリヤとの婚約も取り消されたが、代わって[[ヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフ]]が実権を握った<ref name="EB1911" />。ドルゴルーコフはピョートル2世を[[サンクトペテルブルク]]から[[モスクワ]]に連れていき、次女の[[エカチェリーナ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコヴァ]]と婚約させた<ref name="EB1911" />。ピョートル2世は1728年2月25日にモスクワで戴冠した<ref name="EB1911" />。 |
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結婚式は1730年1月30日に行われる予定だったが、その日に[[天然痘]]のため崩じた<ref name="EB1911" />。ピョートル1世の姪[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]]が帝位を継いだが、ピョートル2世の崩御によってロマノフ家の男系男子の血統は絶えた。 |
結婚式は1730年1月30日に行われる予定だったが、その日に[[天然痘]]のため崩じた<ref name="EB1911" />。ピョートル1世の姪[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]]が帝位を継いだが、ピョートル2世の崩御によってロマノフ家の男系男子の血統は絶えた。 |
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2021年6月13日 (日) 05:14時点における版
ピョートル2世アレクセーエヴィチ Пётр II Алексеевич | |
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ロシア皇帝 | |
ヨハン・ハインリヒ・ヴェーデキントによる肖像画、1730年頃。 | |
在位 | 1727年5月17日 - 1730年1月30日 |
出生 |
1715年10月23日 サンクトペテルブルク |
死去 |
1730年1月30日 モスクワ |
埋葬 | クレムリン、聖天使首大聖堂 |
家名 | ロマノフ家 |
王朝 | ロマノフ朝 |
父親 | アレクセイ・ペトロヴィチ |
母親 | シャルロッテ・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル |
ピョートル2世アレクセーエヴィチ(Пётр II Алексеевич, 1715年10月12日(ユリウス暦)/10月23日(グレゴリオ暦) - 1730年1月19日/1月30日、在位:1727年 - 1730年)はロマノフ朝第7代の君主、第3代ロシア皇帝。ピョートル1世の孫。父はピョートル1世とその最初の妻エヴドキヤの息子アレクセイ・ペトロヴィチ大公[1]。母はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルドルフの次女シャルロッテ・クリスティーネ。マリア・テレジアは母方の従姉、ロシア皇帝イヴァン6世の父アントン・ウルリヒは母方の従弟に当たる。
生涯
1715年10月23日に生まれた後、間もなく母を失い、父も1718年に廃嫡され非業の死を遂げたため、当初は後継候補から除外されていた。隔離されて育ち、祖父のピョートル1世も彼を系統的に無視した[2]。最初にピョートル2世の家庭教師を務めたのはオランダ人居留地に住む仕立屋とぶどう酒商人の妻であり、ノルマン(Norman)という名前の海員がピョートル2世に航海の基礎を教えた[2]。その後はハンガリー人難民で元教師のヤノーシュ・ゼーカーニ(János Zékány)が家庭教師を務めた[2]。エカチェリーナ1世の治世にも顧みられなかったが、1727年に彼女が崩御する直前、大貴族たちはもはやピョートル2世を帝位継承から排除できなくなったと考えた[2]。ピョートル2世は国民の大半と貴族の4分の3から支持を得たのであった[2]。母の姉が神聖ローマ皇帝カール6世の妻だったため、カール6世は一時ロシア駐在オーストリア大使アマデウス・ド・ビュッシー=ラビュタンを通じてロシアの帝位継承を主張した[2]。ラビュタン、アンドレイ・オステルマン、アレクサンドル・メーンシコフの交渉の結果、1727年5月18日、ピョートル2世は皇帝に即位した(ただし、公式にはエカチェリーナ1世の遺言に基づくとされた)[2]。その後、オステルマンがピョートル2世の教育係を務めたが、メーンシコフはピョートル2世をワシリエフスキー島にある自身の宮殿に連れて、娘のマリヤ・メーンシコヴァと婚約させた[2]。1727年9月11日にメーンシコフが失脚するとマリヤとの婚約も取り消されたが、代わってヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフが実権を握った[2]。ドルゴルーコフはピョートル2世をサンクトペテルブルクからモスクワに連れていき、次女のエカチェリーナ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコヴァと婚約させた[2]。ピョートル2世は1728年2月25日にモスクワで戴冠した[2]。
結婚式は1730年1月30日に行われる予定だったが、その日に天然痘のため崩じた[2]。ピョートル1世の姪アンナが帝位を継いだが、ピョートル2世の崩御によってロマノフ家の男系男子の血統は絶えた。
系図
ミハイル・ロマノフ ① 1613–1645 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリヤ・ミロスラフスカヤ | アレクセイ ② 1645–1676 | ナタリヤ・ナルイシキナ (摂政 1682) (実質摂政 1689–1694) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ソフィア (摂政 1682–1689) | フョードル3世 ③ 1676–1682 | イヴァン5世 ④ 1682–1696 共同統治 | エヴドキヤ・ロプーヒナ | ピョートル1世 ④⑤ 1682–1696 共同統治 1696–1725 単独統治 | エカチェリーナ1世 ⑥ 1725–1727 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エカチェリーナ | アンナ ⑧ 1730–1740 | アレクセイ (廃太子) | アンナ | エリザヴェータ ⑩ 1741–1762 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンナ (摂政 1740–1741) | ピョートル2世 ⑦ 1727–1730 | ピョートル3世 ⑪ 1762 廃位 | エカチェリーナ2世 ⑫ 1762–1796 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イヴァン6世 ⑨ 1740–1741 廃位 | パーヴェル1世 ⑬ 1796–1801 殺害 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンドル1世 ⑭ 1801–1825 | ニコライ1世 ⑮ 1825–1855 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンドル2世 ⑯ 1855–1881 暗殺テロ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンドル3世 ⑰ 1881–1894 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニコライ2世 ⑱ 1894–1917 帝政廃止 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
外部リンク
- Zar Peter II Russland(ドイツ語)
爵位・家督 | ||
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先代 エカチェリーナ1世 |
ロシア皇帝 1727年5月18日 - 1730年1月29日 |
次代 アンナ |