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[[モスクワ]]に出生。父親は由緒ある家柄のロシアの地主[[貴族]]。母親の祖父[[アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバル]]は、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人であった。おじの{{仮リンク|ワシーリイ・プーシキン|en|Vasily Pushkin|label=ワシーリイ・リヴォーヴィチ}}は詩人であり、[[ニコライ・カラムジン|カラムジン]]や{{仮リンク|イワン・ドミートリエフ|en|Ivan Dmitriev|label=ドミートリエフ}}などの当時の詩人らがプーシキン家に出入りしていた。プーシキンは早くから文学に親しみ、また乳母はロシアの民話や民謡に詳しく、彼に影響を与えた。[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]郊外の[[ツァールスコエ・セロー]](現在はプーシキンと呼ばれる)にあったリツェイ(学習院)での公開試験で朗読した自作の詩『ツァールスコエ・セローの思い出』が、[[ガヴリーラ・デルジャーヴィン|デルジャーヴィン]]に認められる。これを機に、その才能はロシアの文学界に広く知られるところとなった。[[1820年]]、最初の長編詩『[[ルスラーンとリュドミーラ]]』を発表。 |
[[モスクワ]]に出生。父親は由緒ある家柄のロシアの地主[[貴族]]。母親の祖父[[アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバル]]は、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人であった。おじの{{仮リンク|ワシーリイ・プーシキン|en|Vasily Pushkin|label=ワシーリイ・リヴォーヴィチ}}は詩人であり、[[ニコライ・カラムジン|カラムジン]]や{{仮リンク|イワン・ドミートリエフ|en|Ivan Dmitriev|label=ドミートリエフ}}などの当時の詩人らがプーシキン家に出入りしていた。プーシキンは早くから文学に親しみ、また乳母はロシアの民話や民謡に詳しく、彼に影響を与えた。[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]郊外の[[ツァールスコエ・セロー]](現在はプーシキンと呼ばれる)にあったリツェイ(学習院)での公開試験で朗読した自作の詩『ツァールスコエ・セローの思い出』が、[[ガヴリーラ・デルジャーヴィン|デルジャーヴィン]]に認められる。これを機に、その才能はロシアの文学界に広く知られるところとなった。[[1820年]]、最初の長編詩『[[ルスラーンとリュドミーラ]]』を発表。 |
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次第に政治色を帯びた詩を発表するようになり、文学的急進派の代弁者となっていった。それを疎んだ政府は、1820年に彼を[[キシナウ|キシニョフ]]へ送る。1823年までキシニョフに留まった。その間、夏に[[カフカース]](コーカサス)と[[クリミア半島|クリミア]]に旅して長編詩『{{仮リンク|コーカサスの虜 (プーシキン)|ru|Кавказский пленник|label=コーカサスの虜}}』({{lang-ru-short|Кавказский пленник}}、{{lang-en-short|Prisoner of the Caucasus}})や『[[バフチサライの泉]]』を書き、高い評価を得た。[[1823年]]には[[オデッサ]]に移り住むが、再び政府と衝突し、[[1824年]]に両親の住む北ロシア、[[プスコフ県]][[:ru:Михайловское (Псковская область)|ミハイロフスコエ]]村に送られる。この時期にシェークスピアを愛読し、『{{仮リンク|ボリス・ゴドゥノフ (プーシキン)|en|Boris Godunov (play)|label=ボリス・ゴドゥノフ}}』などの戯曲を書いている。[[1826年]]、皇帝[[ニコライ1世]]への嘆願が認められてペテルブルクに戻る。しかし、1825年に起こった[[デカブリストの乱|デカブリストの蜂起]]の後の締め付けのために、デカブリスト(十二月党員)に友人をもつプーシキンは、北ロシアにいた時期に書いた『{{仮リンク|ボリス・ゴドゥノフ (プーシキン)|en|Boris Godunov (play)|label=ボリス・ゴドゥノフ}}』などの詩を発表することが許されず、政府の監視のもと、窮屈な生活を余儀なくされる。ニコライの創設した[[秘密警察]]である[[皇帝官房第三課]]は、長官[[アレクサンドル・ベンケンドルフ]]伯爵のもとでプーシキンへの監視を行った<ref>栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』 河出書房新社、2010年、p.89.</ref>。結婚の前年の[[1830年]]には、{{仮リンク|ボルジノ (ボルシェボルジンスキー)|ru|Большое Болдино|label=ボルジノ}}にてロシア初の短篇小説集『{{仮リンク|ベールキン物語|ru|Повести Белкина|en|The Belkin Tales}}』、叙事詩『{{仮リンク|コロムナの家|ru|Домик в Коломне}}』、『{{仮リンク|ヌーリン伯爵|ru|Граф Нулин}}』、韻文小説『[[エヴゲーニイ・オネーギン]]』を完成する。 |
次第に政治色を帯びた詩を発表するようになり、文学的急進派の代弁者となっていった。それを疎んだ政府は、1820年に彼を[[キシナウ|キシニョフ]]へ送る。1823年までキシニョフに留まった。その間、夏に[[カフカース]](コーカサス)と[[クリミア半島|クリミア]]に旅して長編詩『{{仮リンク|コーカサスの虜 (プーシキン)|ru|Кавказский пленник|label=コーカサスの虜}}』({{lang-ru-short|Кавказский пленник}}、{{lang-en-short|Prisoner of the Caucasus}})や『[[バフチサライの泉]]』を書き、高い評価を得た。[[1823年]]には[[オデッサ]]に移り住むが、再び政府と衝突し、[[1824年]]に両親の住む北ロシア、[[プスコフ県]][[:ru:Михайловское (Псковская область)|ミハイロフスコエ]]村に送られる。この時期にシェークスピアを愛読し、『{{仮リンク|ボリス・ゴドゥノフ (プーシキン)|en|Boris Godunov (play)|label=ボリス・ゴドゥノフ}}』などの戯曲を書いている。[[1826年]]、皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]への嘆願が認められてペテルブルクに戻る。しかし、1825年に起こった[[デカブリストの乱|デカブリストの蜂起]]の後の締め付けのために、デカブリスト(十二月党員)に友人をもつプーシキンは、北ロシアにいた時期に書いた『{{仮リンク|ボリス・ゴドゥノフ (プーシキン)|en|Boris Godunov (play)|label=ボリス・ゴドゥノフ}}』などの詩を発表することが許されず、政府の監視のもと、窮屈な生活を余儀なくされる。ニコライの創設した[[秘密警察]]である[[皇帝官房第三課]]は、長官[[アレクサンドル・ベンケンドルフ]]伯爵のもとでプーシキンへの監視を行った<ref>栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』 河出書房新社、2010年、p.89.</ref>。結婚の前年の[[1830年]]には、{{仮リンク|ボルジノ (ボルシェボルジンスキー)|ru|Большое Болдино|label=ボルジノ}}にてロシア初の短篇小説集『{{仮リンク|ベールキン物語|ru|Повести Белкина|en|The Belkin Tales}}』、叙事詩『{{仮リンク|コロムナの家|ru|Домик в Коломне}}』、『{{仮リンク|ヌーリン伯爵|ru|Граф Нулин}}』、韻文小説『[[エヴゲーニイ・オネーギン]]』を完成する。 |
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[[1831年]]、[[ナターリア・プーシキナ|ナターリア・ゴンチャロワ]]と結婚。プーシキンとナターリアの間には、1832年に小説『[[アンナ・カレーニナ]]』のモデルとして知られる長女{{仮リンク|マリア・アレクサンドロヴナ・ハルツング|ru|Гартунг, Мария Александровна|label=マリア}}、1833年に長男アレクサンドル、1835年に次男グリゴリー、1836年に次女ナターリア(孫は[[ゾフィー・フォン・メーレンベルク]])の、計2男2女が生まれた。 |
[[1831年]]、[[ナターリア・プーシキナ|ナターリア・ゴンチャロワ]]と結婚。プーシキンとナターリアの間には、1832年に小説『[[アンナ・カレーニナ]]』のモデルとして知られる長女{{仮リンク|マリア・アレクサンドロヴナ・ハルツング|ru|Гартунг, Мария Александровна|label=マリア}}、1833年に長男アレクサンドル、1835年に次男グリゴリー、1836年に次女ナターリア(孫は[[ゾフィー・フォン・メーレンベルク]])の、計2男2女が生まれた。 |
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[[1836年]]、雑誌『[[同時代人]]』を創刊。[[ニコライ1世]]の強権的な[[専制政治]]の圧政下、検閲や発禁処分など言論への弾圧に反発した。同年11月、『[[大尉の娘]]』を第4号に発表。その後、低位の階級を与えられ帝室への出入りを許されるが、この申し出を、名うての美人で、密かに慕う者が多かったと言われる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして、屈辱と受け取った。プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族達は、フランス人の[[ジョルジュ・ダンテス]]をたきつけ、ナターリアに言い寄らせる。やがて、プーシキンは妻に執拗に言い寄るダンテスに[[決闘]]を挑み、[[1837年]][[1月27日]]、[[サンクトペテルブルク]]北郊のチョールナヤ・レチカで決闘を行った<ref>小町文雄 『サンクト・ペテルブルグ よみがえった幻想都市』 中央公論新社、2006年、p.51.</ref>。この決闘で受けた傷がもとで、その2日後に息を引き取った。政治的な騒動を恐れた政府は、親しい者だけを集めて密かに葬儀を執り行った。遺体はミハイロフスコエ付近の[[生神女就寝大聖堂|ウスペンスキー大聖堂]]の墓地に埋葬された。 |
[[1836年]]、雑誌『[[同時代人]]』を創刊。[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の強権的な[[専制政治]]の圧政下、検閲や発禁処分など言論への弾圧に反発した。同年11月、『[[大尉の娘]]』を第4号に発表。その後、低位の階級を与えられ帝室への出入りを許されるが、この申し出を、名うての美人で、密かに慕う者が多かったと言われる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして、屈辱と受け取った。プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族達は、フランス人の[[ジョルジュ・ダンテス]]をたきつけ、ナターリアに言い寄らせる。やがて、プーシキンは妻に執拗に言い寄るダンテスに[[決闘]]を挑み、[[1837年]][[1月27日]]、[[サンクトペテルブルク]]北郊のチョールナヤ・レチカで決闘を行った<ref>小町文雄 『サンクト・ペテルブルグ よみがえった幻想都市』 中央公論新社、2006年、p.51.</ref>。この決闘で受けた傷がもとで、その2日後に息を引き取った。政治的な騒動を恐れた政府は、親しい者だけを集めて密かに葬儀を執り行った。遺体はミハイロフスコエ付近の[[生神女就寝大聖堂|ウスペンスキー大聖堂]]の墓地に埋葬された。 |
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== 評価と影響 == |
== 評価と影響 == |
2021年6月13日 (日) 08:16時点における版
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン Александр Сергеевич Пушкин | |
---|---|
誕生 |
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン (Александр Сергеевич Пушкин) 1799年6月6日 ロシア帝国 モスクワ |
死没 |
1837年2月10日 ロシア帝国 サンクトペテルブルク |
墓地 | ウスペンスキー大聖堂 |
職業 | 詩人、小説家、脚本家 |
言語 | ロシア語 |
国籍 | ロシア帝国 |
最終学歴 | ツァールスコエ・セロー学習院 |
活動期間 | 1820年 - 1836年 |
ジャンル | 詩、小説、戯曲 |
文学活動 | ロマン主義・プレリアリズム |
代表作 | 下記参照 |
デビュー作 | 『ルスラーンとリュドミーラ』 |
配偶者 | ナターリア・プーシキナ |
子供 | マリア、アレクサンドル、グリゴリー、ナターリア |
親族 | アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバル(祖父) |
署名 | |
ウィキポータル 文学 |
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン[1](ロシア語: Александр Сергеевич Пушкин、1799年6月6日(旧暦5月26日) - 1837年2月10日(旧暦1月29日))は、ロシアの詩人・作家。ロシア近代文学の嚆矢とされる。大詩人。
生涯
モスクワに出生。父親は由緒ある家柄のロシアの地主貴族。母親の祖父アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバルは、ピョートル1世に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人であった。おじのワシーリイ・リヴォーヴィチは詩人であり、カラムジンやドミートリエフなどの当時の詩人らがプーシキン家に出入りしていた。プーシキンは早くから文学に親しみ、また乳母はロシアの民話や民謡に詳しく、彼に影響を与えた。ペテルブルク郊外のツァールスコエ・セロー(現在はプーシキンと呼ばれる)にあったリツェイ(学習院)での公開試験で朗読した自作の詩『ツァールスコエ・セローの思い出』が、デルジャーヴィンに認められる。これを機に、その才能はロシアの文学界に広く知られるところとなった。1820年、最初の長編詩『ルスラーンとリュドミーラ』を発表。
次第に政治色を帯びた詩を発表するようになり、文学的急進派の代弁者となっていった。それを疎んだ政府は、1820年に彼をキシニョフへ送る。1823年までキシニョフに留まった。その間、夏にカフカース(コーカサス)とクリミアに旅して長編詩『コーカサスの虜』(露: Кавказский пленник、英: Prisoner of the Caucasus)や『バフチサライの泉』を書き、高い評価を得た。1823年にはオデッサに移り住むが、再び政府と衝突し、1824年に両親の住む北ロシア、プスコフ県ミハイロフスコエ村に送られる。この時期にシェークスピアを愛読し、『ボリス・ゴドゥノフ』などの戯曲を書いている。1826年、皇帝ニコライ1世への嘆願が認められてペテルブルクに戻る。しかし、1825年に起こったデカブリストの蜂起の後の締め付けのために、デカブリスト(十二月党員)に友人をもつプーシキンは、北ロシアにいた時期に書いた『ボリス・ゴドゥノフ』などの詩を発表することが許されず、政府の監視のもと、窮屈な生活を余儀なくされる。ニコライの創設した秘密警察である皇帝官房第三課は、長官アレクサンドル・ベンケンドルフ伯爵のもとでプーシキンへの監視を行った[2]。結婚の前年の1830年には、ボルジノにてロシア初の短篇小説集『ベールキン物語』、叙事詩『コロムナの家』、『ヌーリン伯爵』、韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』を完成する。
1831年、ナターリア・ゴンチャロワと結婚。プーシキンとナターリアの間には、1832年に小説『アンナ・カレーニナ』のモデルとして知られる長女マリア、1833年に長男アレクサンドル、1835年に次男グリゴリー、1836年に次女ナターリア(孫はゾフィー・フォン・メーレンベルク)の、計2男2女が生まれた。
1836年、雑誌『同時代人』を創刊。ニコライ1世の強権的な専制政治の圧政下、検閲や発禁処分など言論への弾圧に反発した。同年11月、『大尉の娘』を第4号に発表。その後、低位の階級を与えられ帝室への出入りを許されるが、この申し出を、名うての美人で、密かに慕う者が多かったと言われる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして、屈辱と受け取った。プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族達は、フランス人のジョルジュ・ダンテスをたきつけ、ナターリアに言い寄らせる。やがて、プーシキンは妻に執拗に言い寄るダンテスに決闘を挑み、1837年1月27日、サンクトペテルブルク北郊のチョールナヤ・レチカで決闘を行った[3]。この決闘で受けた傷がもとで、その2日後に息を引き取った。政治的な騒動を恐れた政府は、親しい者だけを集めて密かに葬儀を執り行った。遺体はミハイロフスコエ付近のウスペンスキー大聖堂の墓地に埋葬された。
評価と影響
プーシキンは、はじめて作品のなかに積極的に口語を取り入れて独自の語りの文体を作り上げて近代文章語を確立し、さらに新しい国民文学をも確立して後代のロシア文学に影響を与えた。ヴィッサリオン・ベリンスキーは、最初の国民詩人としてプーシキンを評価している。プーシキンの死を知った詩人ミハイル・レールモントフは、「詩人の死」という題名の詩を書き、殺害者としての上流社会を告発した。
『エヴゲーニイ・オネーギン』の主人公オネーギンは、ロシア社会になじめない青年の典型とされた。ヒロインのタチヤーナは情熱的な女性で、貴族の出身でありながら農民文化の理解者でもあり、その後のロシア文芸の女性像に影響を与えた。
逸話
決闘によって死ぬ以前、プーシキンは強運の持ち主として知られ、数多くの決闘で、自分は一切撃たず、相手に撃たせ、いずれも弾が外れ、当然の如く笑って済ませていたという逸話がいくつかある[4](死ぬこととなる決闘においても、出血して怒りの形相だったのが、最後の方では周囲に笑っていたとされる)。
- 逸話1:若い友人と詩の事から喧嘩となり、決闘に至ったが、平然と笑いながらプーシキンは彼が撃つのを待ち、弾はそれた。大声で笑いながら友人の身体を抱いて手を握った。侮辱されたと思った友はしきりに撃てというが、「僕のピストルはね、雪が詰まっちまったんだ」といって笑いながら撃たなかった[4]。
- 逸話2:南ロシア・キシニェフの事。ある参謀将校(『人間の死にかた』の逸話を原文ママ)とバカラ賭博の事で決闘に至った。プーシキンはピストルの代わりに一袋の桜桃を持って立っていた。相手が狙っている間、終始桜桃を頬張り続け、弾が外れると、「どうだ、得心がいったか?」といい、笑いながら立ったままだった[4]。
- 逸話3:有名なピストルの名手(『人間の死にかた』原文ママ)の軍人との決闘話。吹雪の中、夜会でも行くような気持ちで行ったプーシキンだが、この時は、双方とも2発撃った。しかし互いに2発とも外れたとされ、介添に促されて中止になった。水のような彼の冷静さは常に友人達を驚かせた[4]。
作品
南ロシアにいた時期にはバイロンの影響を受け、「コーカサスの虜」などの詩を作っている。プスコフに移された時期からはシェイクスピアの研究を行い、ボリス・ゴドゥノフなどに影響が見て取れる[5]。
- ルスラーンとリュドミーラ(詩、1820年)
- コーカサスの虜(詩、1822年)
- バフチサライの泉(詩、1824年)
- シベリアへ送る詩(1827年) - シベリアへ流された友人オドエーフスキイ公爵にあてた詩
- ジプシー(詩、1827年)
- ポルタヴァ(詩、1829年)- ポルタヴァの戦い
- 小悲劇(「けちな騎士」、「モーツァルトとサリエリ」、「石の客」、「黒死病の時代の饗宴」の4篇、1830年)
- ボリス・ゴドゥノフ(戯曲、1831年)
- ベールキン物語(短編集、散文、1831年)
- サルタン王の物語(1831年)
- 金の鶏の物語(1834年)
- 漁夫と魚の物語(1835年)
- エヴゲーニイ・オネーギン(韻文小説、1825年 - 1832年)
- 青銅の騎士(詩、1833年)
- スペードの女王(1833年)
- プガチョーフ叛乱史(散文、1834年)
- 大尉の娘(散文、1836年)
- ピョートル大帝のエチオピア人(1837年)- 主人公イブラヒムのモデルは、祖父アブラム・ガンニバル。
- エジプトの夜(1837年)
関連作品
オペラ
プーシキンの作品の幾つかは、ロシア・ソ連の作曲家たちによってオペラ化されている。
- グリンカ
- 『ルスランとリュドミラ』(1842年)
- ダルゴムイシスキー
- 『石の客』(1872年)
- キュイ
- 『カフカスの捕虜』(1857-8年)
- 『黒死病の時代の饗宴』(1900年)
- ムソルグスキー
- 『ボリス・ゴドゥノフ』(1874年)
- チャイコフスキー
- 『エヴゲーニイ・オネーギン』(1879年)
- 『スペードの女王』(1890年)
- リムスキー=コルサコフ
- 『モーツァルトとサリエリ』(1898年)
- 『皇帝サルタンの物語』(1900年)
- 『金鶏』(1909年)
- ラフマニノフ
- 『アレコ』(1892年)(原作・物語詩「ジプシー」)
- 『けちな騎士』(1903年)
- コルンドルフ
- 『黒死病の時代の饗宴』(1972年)
などがある。
管弦楽作品
その他
- 『オネーギンの恋文』 - 『エヴゲーニイ・オネーギン』を映画化。レイフ・ファインズ主演。
- 『ブロンズの天使』 - さいとうちほの漫画。プーシキンの妻ナターリアを主人公に、プーシキン、ダンテス、ナターリアの姉エカテリーナの四角関係を描く。コミックは小学館フラワーコミックスから。全7巻。
- 「漁夫と魚の物語」は脚色されて「きんいろのさかな」として紙芝居になっている。
脚注
出典・参考文献
関連項目
- プーシキン美術館
- フィラレート (モスクワ府主教) - プーシキンとの対話形式の作品を残したモスクワ府主教・詩人
- ボリス・トマシェフスキー
- シェレメーチエヴォ国際空港 - 2019年5月31日にロシアのウラジーミル・プーチン大統領が空港名にアレクサンドル・プーシキンの名前を冠する大統領令に署名[1]。
外部リンク
- ^ “ロシア各地の空港、大統領令で改名 サハリン島にチェーホフ空港誕生”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年6月1日) 2019年6月3日閲覧。