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日露戦争開戦前夜に日本側と交渉に当たっている。ローゼン自身は、戦争回避の立場に立っていたとされるが、皇帝[[ニコライ2世]]および本国政府の訓令に従い、対日交渉は強硬なものとあった。[[ポーツマス条約|ポーツマス講和会議]]では、ロシア側全権代表となった[[セルゲイ・ウィッテ]]を補佐し、日本側と交渉に当たった<ref name=inoki56>[[#猪木|猪木(1995)pp.56-62]]</ref>{{Refnest|group="注釈"|ローゼンは、ロシア皇帝[[ニコライ2世]]から疎まれていたウィッテが主席全権と決まったとき、これを歓迎し、「彼ウィッテは、本国政府の思惑をはばかったり、迎合する根性から、ロシアの真の利益を犠牲にするような男ではない。彼は、現下ロシアで、意見をもつただ一人の人物である」と述べたといわれている<ref name=handoh107>[[#半藤|半藤(1983)p.107]]</ref>。}}。その後、司法大臣として[[シベリア]]における司法制度を改革した。また、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]議員となった。 |
日露戦争開戦前夜に日本側と交渉に当たっている。ローゼン自身は、戦争回避の立場に立っていたとされるが、皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]および本国政府の訓令に従い、対日交渉は強硬なものとあった。[[ポーツマス条約|ポーツマス講和会議]]では、ロシア側全権代表となった[[セルゲイ・ウィッテ]]を補佐し、日本側と交渉に当たった<ref name=inoki56>[[#猪木|猪木(1995)pp.56-62]]</ref>{{Refnest|group="注釈"|ローゼンは、ロシア皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]から疎まれていたウィッテが主席全権と決まったとき、これを歓迎し、「彼ウィッテは、本国政府の思惑をはばかったり、迎合する根性から、ロシアの真の利益を犠牲にするような男ではない。彼は、現下ロシアで、意見をもつただ一人の人物である」と述べたといわれている<ref name=handoh107>[[#半藤|半藤(1983)p.107]]</ref>。}}。その後、司法大臣として[[シベリア]]における司法制度を改革した。また、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]議員となった。 |
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[[1917年]]の[[ロシア革命]]勃発後は[[スウェーデン]]を経て[[アメリカ合衆国]]に[[亡命]]し、ヨーロッパの外交と政治について、アメリカの[[サタデー・イブニング・ポスト]]紙に評論を載せ、これは後に[[1919年]]から[[1921年]]に『外交官生活40年』のタイトルで出版された。1921年に[[ニューヨーク]]で交通事故死した。 |
2021年6月13日 (日) 10:01時点における版
ロシア帝国の外交官、男爵 ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼン Роман Романович Розен Roman Romanovitch Rosen | |
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Baron Roman R. Rosen | |
ロシア帝国 駐日公使、駐米大使 | |
個人情報 | |
生誕 | 1847年2月24日 ロシア帝国・エストリャント県・レーヴェリ(現: エストニア タリン) |
死没 | 1921年12月31日 (74歳没) アメリカ合衆国・ニューヨーク |
国籍 | ロシア帝国 |
職業 | 外交官 |
ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼン男爵(ロシア語: Роман Романович Розен, ラテン文字転写: Roman Romanovitch Rosen, 1847年2月24日 - 1921年12月31日)は、帝政ロシアの外交官。日露戦争時の駐日ロシア公使、駐米大使。
人物・略歴
ローゼン家は、代々音楽家や軍人を輩出してきたバルト・ドイツ系ロシア貴族の家系で、1812年ボロジノの戦いでアストラハンスキー連隊を率いて戦ったことがバルクライ・ド・トーリ将軍配下のボロージン少将の公式報告書に記載されている。1905年7月5日付けのワシントンポスト紙はレポートの中でローゼン家が、スウェーデンに起源を持つことを紹介している。
ローゼンはロシア外務省に入省し、外交官として在外公館に赴任し、公使として日本およびアメリカ合衆国に赴任した。駐日公使としては、1897年から1898年、間をおいて1902年から1904年まで着任した。1898年4月には、東京で西徳二郎外相とのあいだで西・ローゼン協定をむすんだ[1]。
日露戦争開戦前夜に日本側と交渉に当たっている。ローゼン自身は、戦争回避の立場に立っていたとされるが、皇帝ニコライ2世および本国政府の訓令に従い、対日交渉は強硬なものとあった。ポーツマス講和会議では、ロシア側全権代表となったセルゲイ・ウィッテを補佐し、日本側と交渉に当たった[2][注釈 1]。その後、司法大臣としてシベリアにおける司法制度を改革した。また、国家評議会議員となった。
1917年のロシア革命勃発後はスウェーデンを経てアメリカ合衆国に亡命し、ヨーロッパの外交と政治について、アメリカのサタデー・イブニング・ポスト紙に評論を載せ、これは後に1919年から1921年に『外交官生活40年』のタイトルで出版された。1921年にニューヨークで交通事故死した。
彼の家系はフランスの元帥、オーストリアの陸軍元帥を輩出している。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 猪木正道『軍国日本の興亡:日清戦争から日中戦争へ』中央公論新社〈中公新書〉、1995年3月。ISBN 4121012321。
- 半藤一利「小村寿太郎-積極的な大陸外交の推進者-」『日本のリーダー4 日本外交の旗手』ティビーエス・ブリタニカ、1983年6月。ASIN B000J79BP4。
- 古屋哲夫『日露戦争』中央公論社〈中公新書〉、1966年8月。ISBN 4-12-100110-9。
関連項目
外部リンク
- ロマン・ローゼン対ルーズベルト大統領(ロシア語)
公職 | ||
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先代 アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエル アレクサンドル・イズヴォリスキー |
駐日公使 1897年 - 1899年 1902年 - 1904年 |
次代 アレクサンドル・イズヴォリスキー ユーリ・フメーチェフ |
先代 アルトゥール・カッシーニ |
駐米大使 1905年 - 1911年 |
次代 ゲオルギー・バフメテフ |