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2007年、[[福岡県]][[嘉麻市]]に[[たけし軍団]]の[[井手らっきょ]]が中心となって発足した誕生した硬式野球クラブ「[[嘉麻市バーニングヒーローズ]]」の応援団を務める。
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[[2010年]]、[[サントリー]]「[[BOSSコーヒー|ボス]] 贅沢微糖」テレビCM第8弾「贅沢銀行」篇でおニャン子クラブの限定復活に参加。同時期から在籍時には[[犬猿の仲]]といわれた[[国生さゆり]]ともテレビ番組で共演する機会が増え、[[7月9日]]、有楽町の[[ディスコ]]「クラブディアナ」で同じステージに立ち、新ユニット結成を約束した。
[[2010年]]、[[サントリー]]「[[ボス (コーヒー)|ボス]] 贅沢微糖」テレビCM第8弾「贅沢銀行」篇でおニャン子クラブの限定復活に参加。同時期から在籍時には[[犬猿の仲]]といわれた[[国生さゆり]]ともテレビ番組で共演する機会が増え、[[7月9日]]、有楽町の[[ディスコ]]「クラブディアナ」で同じステージに立ち、新ユニット結成を約束した。


同じく2010年より、手製のアクセサリーや[[テディベア]]などを販売するインターネットショップ「EriS」を展開。
同じく2010年より、手製のアクセサリーや[[テディベア]]などを販売するインターネットショップ「EriS」を展開。

2021年6月14日 (月) 13:59時点における版

にった えり
新田 恵利
本名 長山 恵利(ながやま えり)
生年月日 (1968-03-17) 1968年3月17日(56歳)
出生地 日本の旗 日本 埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市[1]
血液型 O型
ジャンル アイドル歌謡曲タレント
活動期間 1985年 - 1990年1993年 -
事務所 株式会社こよみ
公式サイト 公式ホームページによるプロフィール
主な作品
バラエティ番組
夕やけニャンニャン
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新田 恵利(にった えり、1968年3月17日 - )は、日本歌手タレント。80年代アイドル。オフィスウォーカー所属。1985年におニャン子クラブの会員番号4番としてデビューした。ソロデビューしたときに歌った「冬のオペラグラス」がヒットした[2]

上福岡市立第一中学校(現・ふじみ野市立福岡中学校)→埼玉県立福岡高等学校卒業。

来歴

1985年4月、おニャン子クラブ会員番号4番としてフジテレビ『夕やけニャンニャン』に出演[1]。すぐに自分は芸能界に向いていないと思い番組スタッフに辞めたいと申し出るが、「週刊文春喫煙事件」で5人のメンバー(1 - 3番、7番、10番)が脱退したために出演を継続する(この時点で会員番号のトップ、つまりグループ最古参[1]になる)ことになる。

7月、おニャン子クラブのデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」でフロントメンバーに選ばれ、以降おニャン子クラブの「顔」として人気を博す。高校卒業後(当時は高校三年生)もタレント活動を続けて行きたいとスタッフに意向を伝え、芸能事務所「ボンド企画」に所属。

1986年1月1日、シングル「冬のオペラグラス」でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録する(当時は公式に女性初のデビュー曲オリコン初登場1位と発表されたが、その後オリコンの規定が変更されグループからのソロの場合はデビュー曲とみなさないことになったため、現在のオリコンの公式記録では女性初のデビュー曲オリコン初登場1位は内田有紀となっている)[1]。目が「ヘ」の字になるような笑顔が「100万ドル」と評され、シングルのジャケットをあしらったノベルティ「新田トランプ」は破格の値段で取引された。以降も定期的にシングル、アルバムを発売する。

ソロデビュー直前の1985年12月24日、父親が急逝している。そのため、年内以降の「夕ニャン」を欠席した。ビデオ『臨海学校』の撮影には参加したが、撮影先のハワイで高熱で倒れ(肺炎寸前だった)入院した。

1986年9月、『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブを卒業[1]。1987年におニャン子クラブが解散した次の年以降、人気が下火になるなか、アルバム内で「絵梨」というペンネームで作詞をしていたこともあり、1990年3月に「作詞家になりたい」と芸能界を一時引退(休業中および復帰後も作詞家としての活動はいっさいしていない。ただし、『TVガイド』でエッセイを執筆していたことがある)[1]。ラストシングル(本人作詞)、ラストアルバムの発売、ラストコンサート(ビデオ化されている)、テレビ出演などさまざまなかたちでスタッフやファンに見送られる。

1993年6月にテレビドラマ『映画みたいな恋したい』出演、9月に写真集『吐息を奪って』を出版。芸能活動再開となる。

1996年(平成8年)8月8日、『フジテレビの日』(8が3つそろった日でお台場へフジテレビが移転する直前)に1日だけ『復活夕やけニャンニャン』として番組が復活し、そのイベント担当だったフジテレビ社員と同年結婚した。

2002年にはおニャン子クラブが一時的に再結成し、初期メンバーを中心に新曲「ショーミキゲン」をリリースしている[1]。また、同年12月5日放送の『2002FNS歌謡祭』では「ショーミキゲン」「セーラー服を脱がさないで」を後期メンバーを含み熱唱している。

ナインティナイン岡村隆史が新田の熱烈なファンだったことから、『とぶくすり』に「歌のお姉さん」として(事前に岡村に知らせず)出演した。また、後の『めちゃイケ』でセイン・カミュあさりどなど、かつて新田ファンだったタレントの他、夕やけニャンニャンの司会者の吉田照美と共に新田の自宅を訪ねる企画が放送され、当時(1999年)の同番組の最高視聴率を樹立した。

その後は女優、作家エッセイストとして文筆活動を行っているほか、東京のコミュニティFM局「Ginza'RADIOCITY」のパーソナリティーもしている。

2002年、期間限定で復活したおニャン子クラブに参加。このころから布川敏和堀ちえみなどのように「当時の裏話を語る80年代アイドル」としてテレビ出演する機会も増える。一度引退したことについて「作詞家になりたかったというのは本当だけど、ただ単に遊びたかったという気持ちもあったし、(当時交際していた男性と)結婚したかったという気持ちもあった」と発言している。同時期から夫婦で神奈川県逗子市に居住し、逗子や近隣の鎌倉市を案内するテレビ番組の企画にも出演するようになる。

2007年、福岡県嘉麻市たけし軍団井手らっきょが中心となって発足した誕生した硬式野球クラブ「嘉麻市バーニングヒーローズ」の応援団を務める。

2010年サントリーボス 贅沢微糖」テレビCM第8弾「贅沢銀行」篇でおニャン子クラブの限定復活に参加。同時期から在籍時には犬猿の仲といわれた国生さゆりともテレビ番組で共演する機会が増え、7月9日、有楽町のディスコ「クラブディアナ」で同じステージに立ち、新ユニット結成を約束した。

同じく2010年より、手製のアクセサリーやテディベアなどを販売するインターネットショップ「EriS」を展開。

2011年7月、初の小説『アイドルとつきあう方法』を出版。

2016年6月15日、2013年に出演したテレビ番組で発見した脳動脈瘤の手術を行い、6月18日に退院。翌日には仕事復帰[3]

2019年1月より、日刊ゲンダイ連載企画「夢と残酷の1980年代芸能史」でおニャン子及びアイドル時代の状況や、芸能界の実情を語っている[4]

2020年3月20日には35周年記念ライヴを渋谷egg-manにて行う予定だったが、コロナ禍の影響にて中止となった。引退ライヴからちょうど30年でもあった。(1990年3月21日中野サンプラザ)、3月21日渡辺美奈代と共に有吉反省会に出演。

2014年に当時85歳の母が骨折が原因で寝たきりになり介護生活が始まり、自身のブログでも介護に関するエピソードや思いを綴っていたが、2021年3月23日に母が永眠したことを報告した[5]

評価

初期のおニャン子クラブにおいては国生さゆり河合その子と共に人気を博した。絶頂期が1986年前半の数ヶ月間で、後にデビューした後輩メンバーの渡辺美奈代渡辺満里奈工藤静香などの魅力や活躍に追いやられたと述べている[6]。特に歌唱力不足は否めず、和田アキ子に「ベストテン見てて、新田恵利ちゃん? あたし本当にテレビ壊れたと思ったのよ」と言われたり[7]、アニメ『愛の若草物語』の主題歌『若草の招待状』が早期に差し替えになったこともある。

2013年連続テレビ小説あまちゃん』において、新田の歌唱力について言及するセリフがある。これを見た新田はショックを受けるとともに、同ドラマの脚本家・宮藤官九郎の評価と判断し、落胆する気持ちを自身のブログに綴っている[8][9]

岡村隆史のほか、よゐこ濱口優、同じ埼玉県上福岡市出身の爆笑問題太田光も新田のファンだったと告白したことがある。

エピソード

  • 芸能界には興味や執着がなく[1]、テレビに出たのも賞品のハワイ旅行目当て(ハワイは国生さゆりに持っていかれた)。
  • おニャン子クラブ入りも、当時時給380円の不二家のアルバイトより出演料5000円に目がくらんだため。さらに番組出演も週3日とスタッフにお願いするなど、まさにアルバイト感覚だったと本人は語る。
  • 人気が上がると一部ファンに実家の傘や植木鉢、表札などが盗まれる、ストーカー化したファンの車に母がひかれる、ファンに自分の部屋を荒らされるなどの被害に遭い、一時期人間不信になったこともあった[10]。いわゆる有名税
  • 特技はふんどしを洗うこと(大正元年生まれの父が、ふんどしを着用していたため[11]
  • 夕やけニャンニャン』のオープニングで「恋のチャプターA to Z 」の踊りの際、最後の決めのポーズで間違えることがあった。
  • 冬のオペラグラス」でのソロデビュー以前にも一度ソロデビューの話があり、その際にはソロデビューを辞退している。そのときに用意されていた楽曲は「真っ赤な自転車」[12]。同曲はおニャン子クラブのアルバム『KICK OFF』の収録曲となった。
  • 2000年代後半までは喫煙者であったが、禁煙に成功した。
  • カラーコーディーネート3級、ブリンクアーティスト1級、ジュエルDECOREインストラクター、スクラップブッキングインストラクター、日本茶アドバイザー、はちみつマイスター、日本の漬物マイスター、ネット検定1級、油圧ショベル(ユンボ)、おむつフィッター3級などの資格を所持している。
  • 容姿と名前がよく似ている声優の新田恵海がいるが、血縁関係はないそうである。

音楽

シングル

発売日 タイトル B面曲 オリコン最高位
1 1986年1月1日 冬のオペラグラス ロマンスは偶然のしわざ
(新田恵利 with おニャン子クラブ)
1位
2 1986年4月10日 恋のロープをほどかないで ピンクのリボン
3 1986年8月1日 不思議な手品のように 星の手紙
4 1986年11月14日 内緒で浪漫映画ラブ・ストーリー 銀色のスーベニール
5 1987年2月14日 若草の招待状 夕陽と風のメロディ 3位
6 1987年6月17日 サーカス・ロマンス パナマのシャポー 8位
7 1987年9月5日 Deja Vu -デジャ・ヴ- 茅ヶ崎に背を向けて[13] 15位
8 1988年1月21日 WHO? 彼をあきらめて 21位
9 1988年7月21日 ロックンロール・ラブレター 夏の恋風[14] 61位
10 1988年11月21日 さよならの風 メビウスの二人 72位
11 1990年2月21日 プロローグ -いいだせなくて- 真冬のペニーレーン 89位

アルバム

オリジナルアルバム

発売日 タイトル オリコン最高位
1 1986年5月2日 ERI 1位
2 1986年9月5日 E-AREA
2008年7月16日 E-AREA + シングルコレクション
3 1987年4月24日 ritardando
4 1987年11月21日 Image 〜イマージュ〜

ベストアルバム

発売日 タイトル 備考 オリコン最高位
1 1987年7月21日 新田恵利 ベスト
2 1989年6月21日 新田恵利 BEST 16
3 1990年3月21日 Last Message 引退記念盤
4 2002年7月17日 MYこれ!クション 新田恵利BEST
5 2003年7月16日 Myこれ!クション 新田恵利BEST2
6 2007年7月18日 新田恵利 SINGLES コンプリート
7 2010年5月19日 Myこれ!Lite 新田恵利

映像作品

発売日 タイトル 備考
1 2003年4月23日 新田恵利 ファーストコンサート「E-AREA」
2 2003年10月16日 新田恵利 秘蔵引退ラストコンサート

参加作品

発売日 タイトル 楽曲 オリコン最高位
2005年7月27日 30-35 VOL.3 「おニャン子クラブ」特集 「真夏のアルバイト」
(茂木淳一&新田恵利)

タイアップ曲

楽曲 タイアップ
冬のオペラグラス フジテレビ系『なるほど!ザ・ワールド』エンディングテーマ
若草の招待状 フジテレビ系放映アニメーション『愛の若草物語』オープニングテーマ
夕陽と風とメロディ フジテレビ系放映アニメーション『愛の若草物語』エンディングテーマ
サーカス・ロマンス 東宝映画『ラッコ物語』イメージソング

関西テレビ オープニングソング

出演

映画

オリジナルビデオ

テレビ

バラエティ

ドラマ

福祉

  • ハートネットTV リハビリ・介護を生きる「新田恵利・母から学ぶ介護と終活」(2018年8月9日、NHK教育) - 母親の介護を語る

CM

ラジオ

舞台

  • 劇団マツモトカズミ第四回公演「結婚の偏差値Ⅱ DEAD OR ALIVE」(2014年9月10日 - 23日、新宿村LIVE)

ゲーム

書籍

  • これじゃあ結婚できないわ…(1995年、ひかり出版)
  • アイドルとつき合う方法(2011年、宝島社
写真集
関連書籍

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.79.
  2. ^ “突然の母親介護生活…心の準備なく 家族と奮闘”. yomiDr. (読売新聞社). (2015年5月17日). http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=118471 2015年5月18日閲覧。 
  3. ^ “新田恵利 脳動脈瘤の手術を受けていた、既に退院「私は元気」”. スポニチアネックス. (2016年6月20日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/06/20/kiji/K20160620012817270.html 2016年6月20日閲覧。 
  4. ^ 夢と残酷の1980年代芸能史 日刊ゲンダイ
  5. ^ 新田恵利オフィシャルブログ
  6. ^ 週刊大衆』2011年4月4日号、本人インタビュー
  7. ^ ソロデビュー…愛川欣也さんからの花束に感情の糸が切れた 2/43/4 日刊ゲンダイ「夢と残酷の1980年代芸能史―新田恵利」
  8. ^ “「あまちゃん」放送内容に、元おニャン子クラブ・新田恵利が落胆”. ガジェット通信. (2013年6月28日). オリジナルの2013年6月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130628082907/http://getnews.jp/archives/369931 2013年8月19日閲覧。 
  9. ^ “じぇじぇじぇッ!(^^;;”. 新田恵利のE-AREA. (2013年6月27日). http://ameblo.jp/nittaeri/entry-11561970530.html 2013年8月19日閲覧。 
  10. ^ 疲労と人間不信…父の死も重なりハワイの病院で迎えた元日1/4 2/4 ソロデビュー…愛川欣也さんからの花束に感情の糸が切れた3/44/4 日刊ゲンダイ「夢と残酷の1980年代芸能史 新田恵利」
  11. ^ 2008年11月10日『なるとも』出演時本人弁
  12. ^ 2011年3月31日『くだまき八兵衛X』より。
  13. ^ サザンオールスターズ同名曲とは無関係。
  14. ^ 大場久美子の同名曲のカバー。
  15. ^ 【速報】『魔法少女大戦』のガラットが贈るアイドルコンテンツ企画『VENUS PROJECT』が発表!”. 電撃オンライン. 2015年3月5日閲覧。
  16. ^ 嘉麻市に硬式野球クラブ誕生 日刊スポーツ2007年3月2日

外部リンク