コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

鹿内春雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しかない はるお

鹿内 春雄
生誕 1945年昭和20年)5月15日
日本の旗 日本 北海道
死没 (1988-04-16) 1988年4月16日(42歳没)
日本の旗 日本 神奈川県横浜市
出身校 ボストン大学中退
職業 実業家
配偶者 頼近美津子(アナウンサー)
子供 4人
テンプレートを表示

鹿内 春雄(しかない はるお、1945年昭和20年〉5月15日 - 1988年〈昭和63年〉4月16日)は、日本実業家フジサンケイグループ会議第2代議長。

フジサンケイグループの創業者鹿内信隆初代議長の長男で、株式会社フジテレビジョン(現:フジ・メディア・ホールディングス)代表取締役会長、株式会社産業経済新聞社代表取締役会長、株式会社ニッポン放送代表取締役会長を務めた。当時の愛称は「議長」。

来歴・人物

[編集]

北海道夕張郡由仁町に父・信隆、母・英子の長男として生まれた。出生名は両親の名から一字ずつとった「信英(のぶひで)」で、幼少期はやや病弱だった。母・英子は祈祷師への強い信心を抱くようになり、依存する状態が長く続き、1960年12月には“春雄”と改名した。改名がどのような意図で行われたのか、信隆がどう対応したかはいまひとつ判然としない[1]。一部では父親の派手な女性関係で家庭が荒れて、父親に対する反感が強かったことと言われている[2]。 春雄は小学生の時分から母子ともども祈祷を受け、祈祷師に「病の原因を体内から吸い出してもらう」のを習いとするようになった[1]

慶應義塾幼稚舎普通部高校とエスカレーター式に進学したもののやがて学業成績は低迷の度を増し、1962年の2年時に落第が必至となることから中退。父親が早稲田出身、姉妹が慶應出身であるから慶應でない環境で育てたいとの親の意向があったとの証言がある[3]

1962年~1963年頃、アメリカ留学。この留学は名ばかりで放蕩三昧の暮らしぶりだったと言われている[2]。高校の授業も出席せず、何度も退学の危機があり、その節々に現地の高校の入学を斡旋した大学教授の経歴もある人物に頼んで退学を免れたと言われている[4]。現地の高校を卒業後は、ボストン大学に入学するも中退[5]。中退の理由は結核に罹患したと言われ、結核性関節炎のため車椅子で帰国したが、信隆は交通事故と対外的に説明していた[4]

帰国後、1970年1月に信隆が社長を務めていたニッポン放送に入社。現場を一通り経験するために職場を頻繁に異動。翌年1月には子会社のポニー(現:ポニーキャニオン)に出向。社長室次長として石田達郎に仕える[6]1974年1月、信隆の息子の人脈を広げ後継者としての足場を強固にしようとの思惑から経団連植村甲午郎会長の秘書となる[7]1977年6月にニッポン放送副社長、同年7月には産経新聞社取締役に就任。1980年6月にフジテレビ代表取締役副社長。

テレビ新広島出向していた村上七郎をフジテレビ専務として呼び戻し[8][9][10]、編成局長に当時42歳の日枝久を抜擢[9]、フジテレビ内の大改革を行う[8][11]。編成と制作を統合させ、編成(主)→制作(従)という編成主導体制(大編成局構想)を作り上げ、より世間の空気感や視聴率を意識した番組作りをスピーディーに行えるようにした[11]。この斬新な機構改革により、フジテレビは『オレたちひょうきん族』などの看板番組を次々打ち出し、視聴率三冠王を達成した[8][11]。これらの改革はフジテレビが嚆矢となり、他キー局も取り入れるまでになった[11]

1985年6月フジテレビ、産経新聞社、ニッポン放送の3社の会長になり、フジサンケイグループ議長に就任。1985年に「FCG構想」を発表し、フジサンケイグループの統一シンボル『目ん玉マーク』の制定[12]、テレビ放送の高品位(ハイビジョン)化、産経新聞の紙面カラー化とタイトル刷新などメディア改革を行った。

父が進めた「正論」路線は継承するものの「行革」キャンペーンは社会的に不人気と見るや路線変更し、代わって「夢工場」や映画『南極物語』『ビルマの竪琴』など大衆に夢を売るキャンペーンに奔走した。

これから遡る1970年には、信隆が番組制作部門を、日枝久などが旗揚げした労働組合を潰すため、フジテレビから丸ごと関連会社に移管して社外委託扱いにしていた。制作部門には組合員が多かったことから、彼らは地方や関連会社に左遷され、現場は活気が無くなり視聴率は落ち込み低迷した。このとき組合書記長だった日枝や横澤彪など、のちのフジテレビを支える実力者も例外なく左遷させられた。

そんな父の姿を見てきた春雄は、父の反対を押し切り著名な放送作家などをブレーンにして機構改革を断行し、外部委託扱いにしていた制作部門を、父が左遷させていた社員を復帰させるとともにフジテレビ編成局の下に戻し「編成主導」の番組制作を行った。当時編成と制作を融合させた機構改革は斬新的でその後、各局がその方法を取り入れるようになった。また組合員の復権も行い、実力があれば重用する人事も行った。その後の躍進に功績があった人物を後継者におき、日枝久も40代であったが役員に抜擢した。

こうした実力主義による改革は、フジサンケイグループ内では制作部門を中心に強力な支持を受け、フジサンケイグループは父・信隆による硬派路線を脱却して「軽チャー路線」とも呼ばれる黄金期を迎えることになる[5]。フジテレビ社内では「ジュニア」と呼ばれた二世経営者であったものの、後のメディア経営の手本ともなる優れた手腕は別の評価を得るに至った。

1988年4月9日、戸塚カントリー倶楽部でゴルフをプレーしている最中、悪心や足が引き攣るなどの症状を訴える。自宅静養の後、周囲の勧めで知人の医師がいた横浜市立市民病院に入院した。入院後は病床で業務報告を受けたり、産経新聞カラー版の見本紙をチェックするなど元気そうな様子を見せたが、その後間もなく急性肝不全の症状が見られ、容態が急激に悪化した。体調不良からわずか1週間後の4月16日に42歳の若さで急死する。前触れのない春雄の突然の死は鹿内一族のみならず、フジサンケイグループの関係者に大きな衝撃を与えた。妹の厚子による『厚子手記』によれば、「兄があんなに早く亡くなったのも、母の信仰がその理由の一つなのではないかと思っています。兄は亡くなる八年前にB型肝炎を患っていました。…ところが母は、西洋医学や病院を信じないので一切見せない。…N先生の作る漢方薬しか与えないのです。病院につれていって、しっかりした医療処置さえとっていれば、兄があんなに早く亡くなることはなかったのではないかと私には思えてならないのです」という[13]。墓所は小平霊園

死後、信隆は厚子の夫・鹿内宏明(当時は佐藤姓)と養子縁組し、産経新聞社・フジテレビ・ニッポン放送などグループの代表取締役会長職を引き継がせた。

フジテレビ副社長・会長時代に放送開始した番組としては、『オレたちひょうきん族』(1981年~1989年)、『なるほど!ザ・ワールド』(1981年~1996年)、『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1982年~2014年)、『おはよう!ナイスデイ』(1982年~1999年)、『FNNスーパータイム』(1984年~1997年)、『ライオンのいただきます』(1984年~1990年)、『夕やけニャンニャン』(1985年~1987年)、『所さんのただものではない!』(1985年~1991年)、『ワイドワイドフジ』(1982年~1985年)、『FNNモーニングコール』(1986年~1990年)、『FNN DATE LINE』(1987年~1990年)、『FNNスピーク』(1987年~2018年)、『タイム3』(1988年~1993年)などが挙げられる。

また、1987年からスタートした『FNS27時間テレビ』(『FNSスーパースペシャルテレビ夢列島』→『平成教育テレビ』を経て現在は『27時間テレビ』)の初代製作総指揮を務めた。

家族

[編集]

妻の美津子(頼近美津子)は、元NHKアナウンサーで、1984年8月に結婚。1985年4月に長男が誕生し、翌1986年4月に次男が誕生している。父・信隆の命名に倣い、自らの「雄」をそれぞれの子供の名前に充てて命名している[2]

美津子との結婚以前に2度結婚歴がある[14][15]。ニッポン放送時代の1970年に知人の紹介で結婚した1人目の妻との間には長女が生まれたが、妻は母・英子と折り合いが悪く破局。夫婦間で子供の奪い合いとなり、1976年には子供を奪い返しに来た妻を車で引きずるという傷害事件を起こしている[16]。5年半の調停を経て1981年4月に離婚。その直後の5月に再婚した2人目の妻は元平尾昌晃夫人・詮子[14](平尾とは短大時代に結婚・1児をもうけるも3年で離婚していた)。2人目の妻との間に1982年6月に長男が生まれたが、その1か月後の7月に妻がくも膜下出血を発症し死別している[17]

逸話

[編集]

ワンマンぶりが業界でも有名で、1984年3月にタモリが降板し打ち切られるといわれていた『笑っていいとも!』を春雄のツルのひと声で、タモリのギャラを大幅アップさせ継続を決めた[18]。また角川春樹と映画の試写会で同席したおり、角川を無視して角川映画を辛辣に批判し、声をかけた角川を「クン」付けで呼んで角川を激怒させた[18]。「映画界のドン」岡田茂東映社長でさえ「角川さん」と呼ぶのに、「さすがは鹿内副社長」と関係者を驚かせた[18]

岡田茂の後ろ盾には五島昇永野重雄今里広記瀬島龍三らがおり[19][20][21][22]、鹿内同様「財界四天王」に繋がる人で[21][22][23][24]財界フィクサーだった今里広記を囲む「今里会」を岡田が作って、これが「岡田学校」に発展し[25]、若手経営者を集めて彼らの兄貴分のようになった[21][23][25]。1978年10月22日に、国立競技場で7万人を集めて日本商工会議所創立100周年記念行事「全国郷土祭」が行われた際[26]、岡田がプロデューサーを務め[19][21]、当時ニッポン放送の副社長だった鹿内を通じて、フジテレビに協力を要請し付き合いが深まった[21]。1980年に映画監督の五社英雄銃刀法違反容疑で逮捕されてフジテレビを退職した時、「映画界で復帰させてやれないか」と鹿内が岡田に頼んだ[27][28]。1981年10月2日には岡田が発起人代表となって「鹿内春雄君を励ます会」が高輪プリンスホテルで開かれ[14][15][29][30]、来なかったのは政府要人と皇室関係というほどの政・財界、スポーツ界などから約2000人出席した[15][30][31]。岡田が発起人代表を買って出たのは、以前から東映はフジテレビから多くのテレビ番組を受注してはいたが[14][15]、さらにテレビ番組の制作量で稼ぐため、いずれフジサンケイグループの総帥となる人物だけに、太いパイプを築いていこうと計算があった[14][15]。当日は岡田の鹿内への過度の"ゴマすり"が話題を呼んだ[15]。「励ます会」は先述の春雄の再婚相手である平尾昌晃元夫人の御披露目と[14][15]、父・信雄も出席したことからフジの"王位継承宣言"説も出た[15]

フジテレビは1969年の映画『御用金』『人斬り』で、いち早く映画製作に参入したが[32][33]、その後は業績が良くなく映画製作から撤退していた[32][33]。再び映画製作に乗り出したのは鹿内が1980年6月にフジテレビ代表取締役副社長に就任して以降で[33]、岡田は映連会長としても門戸を開放した[32]。鹿内は自社の電波媒体を駆使した物量宣伝で[33]、アッという間に映画界に於ける"外部プロの雄"になった[33]。『南極物語』(1983年)『ビルマの竪琴』(1985年)『子猫物語』(1986年)は、当時の日本映画歴代配給記録の上位3位を独占した[33]。1987年にはヘラルド・エース簱興行と組んでシネスイッチ銀座を開業し、続いて大阪サンケイ会館の中に映画館を2館作り、初の自社配給に乗り出そうとしていた[33]。角川春樹が1985年から「自社配給をやりたい」と岡田茂の相談に来たとき[34]、岡田は「これからは鹿内さんの時代になるだろう」と予言していたが[35]、その矢先の急逝であった。

製作映画

[編集]

関連書籍

[編集]
  • 鹿内春雄記念アルバム編集委員会編『鹿内春雄記念アルバム』フジサンケイグループ会議、1989年。

脚注

[編集]
  1. ^ a b 『メディアの支配者(下)』63頁
  2. ^ a b c 『昭和虚人伝』205頁
  3. ^ 『昭和虚人伝』202頁
  4. ^ a b 『昭和虚人伝』203頁
  5. ^ a b 鹿内春雄とは - コトバンク
  6. ^ 『メディアの支配者(下)』73頁
  7. ^ 『メディアの支配者(下)』74頁
  8. ^ a b c “著者プロフィール 村上七郎”. 扶桑社. https://www.fusosha.co.jp/books/search_list/?author_id=1061 2023年3月19日閲覧。 
  9. ^ a b 木村政雄. “木村政雄の私的ヒストリー 第70話”. 木村政雄の事務所. オリジナルの2018年4月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180403112607/http://www.km-jimusho.com/history/061-070.html 2023年1月8日閲覧。 
  10. ^ 塚越孝. “つかちゃんコラム4月15日”. 塚越孝のおはよう有楽町. ニッポン放送. 2023年1月8日閲覧。
  11. ^ a b c d 我妻弘崇 (2021年3月1日). “「月9」黄金期支えたBSフジ亀山社長 転機になった『あすなろ白書』”. withnews (朝日新聞社). オリジナルの2021年2月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210228223009/https://withnews.jp/article/f0210301002qq000000000000000W0gd10501qq000022602A 2023年1月8日閲覧。 
  12. ^ 『メディアの支配者(下)』119頁
  13. ^ 『メディアの支配者(下)』148頁
  14. ^ a b c d e f 「うわさの真相 フジテレビ鹿内家の『近況』 ジュニアを励ます会を開催 狙いは再婚妻のお披露目?!」『噂の眞相』1981年10月号、噂の眞相、14–15頁。 
  15. ^ a b c d e f g h 「うわさの真相 フジテレビ息子を励ます会 再婚花嫁の御披露目が目的 フジの"王位継承宣言"説も」『噂の眞相』1981年12月号、噂の眞相、14–15頁。 
  16. ^ 『メディアの支配者(下)』75頁
  17. ^ 『メディアの支配者(下)』131頁
  18. ^ a b c 「Who's who スクランブル」『週刊文春』1984年3月1日号、56頁
  19. ^ a b 中島隆「(ニッポン人脈記)拝啓、渋沢栄一様:11 夜逃げが原点の財界人生」朝日新聞夕刊、2007年3月1日1頁、朝日新聞社
  20. ^ 針木康雄「財界巷談東急五島昇の助っ人に馳せ参じた東映岡田茂」『財界』1980年3月25日号、32–91頁、財界研究所「東映会長・岡田茂の『悔いなきわが映画人生』連載第三回 永野重雄・日商会頭との不思議な縁」『財界』2000年11月7日号、88–91頁、財界研究所、「東映・岡田茂さんを偲ぶ 本誌主幹・村田博文」『財界』2011年6月7日号、60–62頁、財界研究所、「五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終」『経済界』1983年3月21日号、18–21頁、経済界、岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』2004年、237頁、角川書店 ISBN 4-04-883871-7 脇田巧彦『特ダネ人脈 記者50年』2016年、138-139、252-253頁 、埼玉新聞社 ISBN 9784878894503 「映画・トピック・ジャーナル 外部から大物取締役を招き、内部的には三専務三常務体制を敷き、また新たに役員待遇を設け盤石の体制を取った東映。」『キネマ旬報』1987年1月下旬号、170-171頁、キネマ旬報社
  21. ^ a b c d e 岡田茂「対談 岡田茂と愉快な仲間たち ゲスト・本庄正則(伊藤園会長)」『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』2001年、216–224頁、財界研究所 ISBN 4-87932-016-1
  22. ^ a b 「核心レポート 財界の若き首領(ドン) 岡田茂東映社長の魅力」『経済界』1983年5月24日号、26–29頁、経済界
  23. ^ a b 「ZIG・ZAG 大接近 財界のドンをも目指す、東映・岡田茂社長の計略!?」『週刊宝石』1985年5月31日号、51頁、光文社
  24. ^ 「財界の"角栄" 今里廣記氏 書かれざる墓碑銘」『週刊宝石』1985年6月21日号、193–195頁、光文社
  25. ^ a b 脇田巧彦「海外で互角の映画外交を展開」埼玉新聞連載『最後の活動屋 岡田茂 映画こそ我が人生 実録!! 東映六十年(75)』2011年12月24日14頁、埼玉新聞社
  26. ^ 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』2012年、119頁、ヤマハミュージックメディア ISBN 978-4-636-88519-4
  27. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』2001年、185、286-301頁、財界研究所 ISBN 4-87932-016-1
  28. ^ 林真理子「マリコのここまで聞いていいのかな(225) ゲスト 岡田茂 東映相談役」『週刊朝日』2004年7月23日号、55頁、朝日新聞出版
  29. ^ 「タウン なぜか励まされたフジの鹿内副社長社長」『週刊新潮』1981年10月15日号、17頁、新潮社
  30. ^ a b 「社長就任、プロ球団経営"新指令室"設置 鹿内春雄フジTV副社長が描く大いなる野望!」『週刊宝石』1982年2月6日号、190–192頁、光文社
  31. ^ 「フジテレビ鹿内ジュニア、社長就任の披露のされ方1万人を招いて大パーティ!」『週刊宝石』1985年6月7日号、216–219頁、光文社
  32. ^ a b c 渡部明夫「『子猫物語』 民放の雄から外部プロの雄へ ―フジTV映画の映画界における今日までの歩み―」『キネマ旬報』1986年6月下旬号、52-53頁、キネマ旬報社
  33. ^ a b c d e f g 「映画・トピック・ジャーナル 映画界にも多大な功績を残したフジサンケイグループ議会議長の鹿内春雄氏が急逝。氏の足跡と今後について―。」『キネマ旬報』1988年6月上旬号、132-133頁、キネマ旬報社
  34. ^ 「インサイドレポート 映画配給変更をめぐる熾烈な東映vs角川の暗闘 ―角川は自主配給路線を打ち出し、東映は協力できぬと決裂寸前―」『実業界』1985年3月1日号、44-47頁、実業界
  35. ^ 「興行価値」『キネマ旬報』1985年3月下旬号、172頁、キネマ旬報社

参考文献

[編集]