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2021年7月4日 (日) 13:04時点における版
偰(せつ)は、漢姓の一つ。
中国の姓
偰 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 偰 |
簡体字: | 偰 |
拼音: | Xiè |
注音符号: | ㄒㄧㄝˋ |
ラテン字: | Hsieh |
広東語発音: | Sit3 |
上海語発音: | Sih4 |
台湾語白話字: | Sih |
英文: | Xie, Shieh, Sye, Hsieh[1] |
偰(せつ、Xiè)は、漢姓の一つである。
出自
中国においては、古くは、周の武王が薊(今の北京市付近)に封じた黄帝の末裔の子孫として文献に現われるが、これは𨜒〔契+阝(おおざと)〕氏・契氏・偰氏などと表記に揺れがある[1][2]。この姓は、阝(おおざと)が付くことから、封地あるいは封国の名に由来するものであると推測される[2](漢姓#中国の姓の分類も参照)。
また、堯の臣下で司徒となり、舜・禹の下でもその地位を歴任した上述の黄帝の末裔の子孫である契(商(殷)の祖先)が偰氏を伝えたが、後に契氏に改めたという[2][3]。なお、殷(契)の姓が子とされているので混乱するかもしれないが、この時代は姓と氏とは違う概念のものである。姓は母系血統、氏は父系血統を指すものであった(詳しくは、漢姓#中国の姓氏、同じく漢姓#中国の姓氏の起源参照)。
次に、後に朝鮮へ移住して偰(ソル)氏となった一族(後述)については、その出自について二つの説がある。
一つは、祖先が高車人であって唐代に回鶻(ウイグル)人となったものが、偰輦河に居住していたため、その頭文字を取って偰氏となったというものである[1]。
もう一つは、東突厥の毘伽可汗(ビルゲ・カガン)に重用された暾欲谷(トニュクク)を先祖とする元代の色目人である。彼らは突厥部に属していたが、突厥滅亡後、回鶻に仕えることとなり、代々相国の地位を継承していたものが、偰輦河に居住していたため、その頭文字を姓としたというものである[1]。
郡望
分布
江蘇省宜興と武進、江西省南昌と新建、上海等の地域に均しく分布している[1]。
著名な人物
- 偰文質 - 元の延祐年間の吉安路の達魯花赤、雲中郡侯に追封された。諡は忠襄[1]。(彼の孫の偰遜が、朝鮮の偰氏(後述)の始祖となる。)
- 偰列箎 - 偰文質の末子、至順元年(1330年)の進士、広州潮陽県の達魯花赤。紅巾の乱に遭い殺害される。忠臣とされる[2]。
- 偰惟賢 - 明の嘉靖年間の進士[1]。
朝鮮の姓
ソル | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 설 |
漢字: | 偰 |
発音: | ソル |
日本語読み: | せつ |
英語表記: | Seol, Sŏl, Sul, Seul, Sol, Sull |
氏族
本貫は慶州偰氏のみである。ウイグル族系の帰化氏族で、同じくウイグル系の帰化氏族には他に林川李氏がある。慶州偰氏の始祖はウイグル人で元の参知政事であった偰文質だが、朝鮮に帰化したのは彼の孫である偰遜である。遜は元の順帝の時、端本堂正字として名声が高かったが、紅巾の乱を避けて、1358年(恭愍王7年)高麗に帰化して高麗の代表的詩人の一人に数えられた。単州太守、富原侯にも任じられた。偰というのは彼の祖先が、偰輦河(中国・モンゴル国境地帯)で暮らしていたからだという。遜の息子5兄弟の中で長寿(1341年~1399年)が代表的人物である。長寿は恭譲王の時の門下判三司事などを歴任したが鄭夢周らに追われ、流浪し、朝鮮建国後また登用されて検校門下侍中となり、慶州に籍を賜わり、これが本貫となる。弟慶寿・眉寿も文科に合格し、眉寿は太宗の時判書・検校右参賛を歴任した。慶寿の息子循も太宗の時文科に及第、世宗の時文科重試に合格して同知中樞府事にのぼりつめた。
著名な人物
- 偰遜 - 始祖、順帝の時の太子師傅。
- 偰長寿 - 恭譲王の時の政堂文学。著書に『小学直解』(朱熹が編纂させた儒教の初等教科書『小学』を、当代の中国口語に訳したもの)があるが、今は伝わらない[4]。
- 偰眉寿 - 太宗の時の右参賛。
- 偰循 - 世宗の時の副提学。
人口と割合
氏族
氏族(地域) | 創始者 | 割合 (%) (2000年) |
---|---|---|
慶州偰氏 | ウイグル王国の財務大臣を祖先に持ち、高麗に帰化した偰遜 |
年度 | 人口 | 世帯数 | 順位 | 割合 |
---|---|---|---|---|
1930年 | - | 168世帯 | 250姓中143位 | |
1960年 | ||||
1985年 | 1952人 | 442世帯 | 274姓中145位 | |
2000年 | 3298人 | 1037世帯 | 286姓中142位 |
備考
偰と薛は同音のため、ウィキペディア韓国語版では、偰と薛はko:설 (성씨)に、慶州偰氏と慶州薛氏はko:경주 설씨にそれぞれ纏めて記述されている。
出典
- ^ a b c d e f g h i 袁義達・邱家儒(2010) 中国姓氏大辞典, 1080頁「偰 xiè」。
- ^ a b c d 日中民族科学研究所編(1983[1978]) 『中国姓氏事典』、138頁「511【偰】 セツ(ケイ) ch′i」:「上古、帝堯に仕えた司徒殷の先祖が、偰姓を伝えたが、後契と改めた。元朝末に忠臣偰列箎の名がある。偰は契に通ず。」〔原文の傍点丶は、太字に変えた〕
- ^ 上掲 中国姓氏大辞典, 691頁「契① xiè」にも、「契,相伝高辛氏之子,為舜司徒,商之祖先,其後有契氏,見《姓源》(契、高辛氏〔嚳〕の子、舜の司徒となり、商の祖先、その後裔に契氏がある、と伝えられる。『姓源』に見える)」との記述がある。
- ^ 金文京 『漢文と東アジア』 岩波書店〈岩波新書〉、2010年。ISBN 978-4-00-431262-8。160頁, 172頁
参考文献
- 袁義達; 邱家儒 (2010) (中国語). 中国姓氏大辞典 (1st ed.). 南昌市: 江西人民出版社. ISBN 978-7-210-04407-9
- 日中民族科学研究所 編『中国姓氏事典』(第2刷(1983年))国書刊行会、1978年。ISBN 978-4336013903。