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「義興郡」の版間の差分

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'''義興郡'''(ぎこう-ぐん)は、[[中国]]にかつて存在した[[郡]]。[[晋 (王朝)|晋代]]から[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]にかけて、現在の[[江蘇省]][[宜興市]]および[[リツ陽市|溧陽市]]にまたがる地域に設置された。
'''義興郡'''(ぎこう-ぐん)は、[[中国]]にかつて存在した[[郡]]。[[晋 (王朝)|晋代]]から[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]にかけて、現在の[[江蘇省]][[宜興市]]および[[溧陽市]]にまたがる地域に設置された。


== 概要 ==
== 概要 ==
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2021年7月4日 (日) 13:04時点における最新版

義興郡(ぎこう-ぐん)は、中国にかつて存在した晋代から南北朝時代にかけて、現在の江蘇省宜興市および溧陽市にまたがる地域に設置された。

概要[編集]

304年永興元年)、呉興郡の4県と丹陽郡の2県を分割して義興郡が立てられた。義興郡は揚州に属し、郡治は陽羡県に置かれた。晋の義興郡は陽羡・義郷国山臨津平陵永世の6県を管轄した[1]

468年泰始4年)、義興郡は揚州から南徐州に転属した[2]南朝宋のとき、義興郡は陽羡・臨津・義郷・国山・綏安の5県を管轄した[3]

南朝斉のとき、義興郡は陽羡・臨津・国山・義郷・綏安の5県を管轄した[4]

589年開皇9年)、南朝陳を滅ぼすと、義興郡は廃止されて、常州に編入された[5]

脚注[編集]

  1. ^ 晋書』地理志下
  2. ^ 宋書』明帝紀
  3. ^ 宋書』州郡志一
  4. ^ 南斉書』州郡志上
  5. ^ 隋書』地理志下