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2021年8月1日 (日) 08:17時点における版
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山田 和広(やまだ かずひろ、1966年10月16日 - )は日本中央競馬会 (JRA) 元騎手で、調教助手。千葉県出身。栗東トレーニングセンター所属。
来歴
1985年3月に競馬学校1期生として坪正直厩舎所属騎手としてデビュー。以後、引退まで同厩舎に所属。同期には柴田善臣、石橋守らがいる。同年5月6日に初勝利。
デビュー3年目の1987年、サファイヤステークス(マルブツロンリー)で重賞初勝利。以後、重賞を12勝(うち1勝は地方競馬交流重賞)するがすべて坪厩舎所属の馬であった。
減量苦などもあって2004年2月29日付で騎手を引退、調教助手に転向。引き続き坪厩舎に所属するが、翌2005年に坪が定年により調教師を引退したあとは鶴留明雄厩舎に移籍し、スイープトウショウなどの調教を担当した。2012年2月に鶴留が定年引退後は、競馬学校で同期だった須貝尚介厩舎に移籍した。
生涯成績
2458戦242勝(うち障害競走1戦0勝)
おもな騎乗馬
- ミスティックスター(マイラーズカップ、CBC賞)
- マンジュデンカブト(ブリーダーズゴールドカップ)
- ヤマニンフォックス(中日新聞杯)
- ブリリアントロード(新潟大賞典、新潟記念)
- テネシーガール(ファンタジーステークス、セントウルステークス)
- ジョービッグバン(中山金杯、小倉大賞典)
エピソード
坪正直厩舎の重賞初勝利もマルブツロンリーだが、坪厩舎の重賞勝利はすべて山田和広が記録したものではなく、ジョービッグバンの函館記念は田面木博公騎乗で記録している。このときのジョービッグバンの負担重量が50キログラムであったことも影響しているが、相当前からブリリアントロードの騎乗が決定していたためこの日は騎乗しなかった。なお、この日の新聞コメントで山田は「ジョービッグバンがとてもよい。できればこっちに乗りたい」とコメントしている。
坪との師弟関係は競馬界での美しい師弟関係の象徴として示されることが多いが、この厩舎は基本的に山田の選択いかんでそのほかを決めていた。ほかに乗っていた騎手は、野元昭嘉、太宰啓介、武幸四郎、福永祐一と二世騎手が多かった反面、小屋敷昭や田面木博公という、山田所属以前に積極的に使っていた騎手も多かった。