コンテンツにスキップ

「永田昌弘」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
{{BLP unsourced|date=2013年12月}}
{{存命人物の出典皆無|date=2013年12月}}
{{Infobox baseball player
{{Infobox baseball player
|選手名 = 永田 昌弘
|選手名 = 永田 昌弘

2021年8月4日 (水) 04:19時点における版

永田 昌弘
国士舘大学硬式野球部 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県豊橋市
生年月日 (1958-01-24) 1958年1月24日(66歳)
選手情報
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

永田 昌弘(ながた まさひろ、1958年1月24日 ‐ )は、日本の元社会人野球の選手(内野手)。現在は、学生野球監督

経歴・人物

豊橋市立栄小学校、豊橋市立南部中学校を経て、高校は中京高に進学[1]。1975年(昭和50年)の第47回選抜高等学校野球大会に同校内野手としてベンチ入りした。

高校卒業後は、国士舘大学に進学し硬式野球部に入部。東都大学野球連盟1部リーグで優勝を経験した。

大学卒後は、社会人野球東京ガスに入団し、都市対抗野球大会に3年連続で出場した。

1983年(昭和58年)に国士舘高等学校野球部監督に就任すると23年間で甲子園春夏出場8回(通算10勝8敗)、明治神宮野球大会高校の部出場4回(優勝1回)の強豪に育て上げた。

2006年(平成18年)春から国士舘大学硬式野球部の監督に就任し、1995年秋季リーグで2部へ降格以降、低迷期に喘いでいた野球部の再建に乗り出し、その結果3年後の2009年(平成21年)秋季リーグで優勝、1部との入替戦で青山学院大学を下して30季ぶりの1部復帰を果たす[2]。翌2010年(平成22年)は秋季リーグで最下位となり、入替戦でも日本大学に連敗して再び2部に降格した[3]

沿革

甲子園での成績

春:出場8回9勝8敗 夏:出場1回1勝1敗 通算:出場9回10勝9敗

エピソード

  • 甲子園初出場から2大会連続でベスト4を果たした時には高い攻撃力に『東の横綱』『打撃の国士舘』と呼ばれたが、「守りから入る野球」「足はうそをつかない」など守備力重視の指導方針であることを述べた。実際、他校に先駆けて「地下足袋ソックス」を導入するなど、堅実な指導に定評があった。
  • 高校監督就任以来、着々と実績を積み重ねる中、唯一夏の東京大会の頂点が獲れなかった。その間にも春の選抜には7回出場していることから、『春の国士舘』『秋の国士舘』と呼ばれた。
  • 藤枝明誠高等学校元野球部監督の永田弘光は実兄。

著名な教え子

太字は2013年現在現役選手。

参考文献

脚注

  1. ^ 硬式野球部監督に闘将 永田監督が就任[リンク切れ](アーカイブサイト) [スポーツ国士2005年12月13日] 2013年12月17日閲覧。
  2. ^ 大学野球~神宮への道~2009年11月8日[リンク切れ](アーカイブサイト)2013年12月18日閲覧。
  3. ^ 東都大学野球連盟
  4. ^ [1]

関連項目