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「名護市女子中学生拉致殺害事件」の版間の差分

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* {{ウィキ座標|26|36|56.938|N|128|00|9.745|E||拉致現場}} - [[名護市]][[伊差川]]の農道{{Efn2|name="拉致現場"|拉致現場は当時、国道58号から約200&nbsp;m入った小川沿いの砂利道(普段は近隣住民が通る程度の農道)で<ref name="読売新聞1996-06-27">『読売新聞』1996年6月27日西部朝刊第二社会面26頁「沖縄・名護の女子中学生拉致 有力情報なく1週間」(読売新聞西部本社)</ref>、その農道の長さは約400&nbsp;mだった<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。その川沿いの農道から、北方へ伸びる細い道が分岐する地点の、電柱の前付近が拉致現場である(南方には、川を挟んで目撃者が住んでいた名護市営団地がある){{Sfn|AERA|1996|p=15}}。周辺には当時、[[サトウキビ]]畑が広がっていたが<ref name="朝日新聞1998-01-09"/>、事件後、並行する[[河川改修|河川の改修]]工事に伴い、生い茂っていた雑草は刈り払われ、道も整備された<ref>『沖縄タイムス』1998年3月17日夕刊第2版第一社会面7頁「【名護】現場は様変わり 防犯意識高める区民」(沖縄タイムス社)</ref>。}}<ref name="沖縄タイムス1997-01-01">『[[沖縄タイムス]]』1997年1月1日号外1頁「女子中学生ら致事件 Aさんの遺体発見 国頭村奥の山中 容疑者一人の供述通り」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-03-17"/>
* {{ウィキ座標|26|36|57.3|N|128|00|13.6|E||拉致現場}} - [[名護市]][[伊差川]](農道)<ref group="注" name="拉致現場"/><ref name="琉球新報1998-03-17"/>
* {{ウィキ座標|26|49|10.1|N|128|17|48.2|E||殺害・死体遺棄現場}} - [[国頭郡]][[国頭村]]楚洲(林道)<ref group="" name="遺棄現場"/><ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/><ref name="琉球新報1998-03-17"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/><!--位置座標(国頭村楚洲)の奥2号沿い(カーブの内側)に、被害者Aを追悼する観音像と「少女の涙に虹がかかるまで」と書かれた木製のモニュメント(標柱)が建っている-->
* {{ウィキ座標|26|49|10.1|N|128|17|48.2|E||殺害・死体遺棄現場}} - [[国頭郡]][[国頭村]]楚洲の林道{{Efn2|name="遺棄現場"|死体遺棄現場国頭村楚洲の林道脇斜面<ref name="琉球新報1999-09-30"/>、[[沖縄県道70号国頭東線|県道70号]]から<ref>『琉球新報』1997年1月4日朝刊第2版第一社会面31頁「女子中学生ら致殺害事件 「無事で…」の願い届かず 捜査半年 無念の結末 怒り抑えきれない関係者」(琉球新報社)</ref>、細い林道を約4&nbsp;km登った地点<ref name="琉球新報1999-09-30"/>。殺害現場から約6&nbsp;m下の斜面である<ref name="琉球新報1997-01-26"/>。遺体発見直後の報道では「国頭村奥」とされていたが<ref name="沖縄タイムス1997-01-01"/><ref name="沖縄タイムス1997-01-04"/>、判決によれば国頭村楚洲である<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/><ref name="琉球新報1998-03-17"/><ref name="沖縄タイムス1999-09-30"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/>。}}<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/><ref name="琉球新報1998-03-17"/><ref name="沖縄タイムス1999-09-30"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/><!--位置座標(国頭村楚洲)の奥2号沿い(カーブの内側)に、被害者Aを追悼する観音像と「少女の涙に虹がかかるまで」と書かれた木製のモニュメント(標柱)が建っている-->
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|終了時刻=21時30分ごろ(殺害時刻)<ref name="琉球新報1998-03-17"/>
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|概要=男2人組(元同僚名護市で帰宅途中の女子中学生をワゴン車で拉致して[[強姦|乱暴]]し、絞殺し遺体を山中(国頭村)に遺棄した<ref name="読売聞1997-01-03"/>。
|概要=男2人組が白いワゴン車[[ワンボックスカー]]を用い、名護市の農道で帰宅途中の女子中学生を拉致した<ref name="琉球新報1997-01-04">『[[琉球新報]]』1997年1月4日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件 Aさん遺体で発見 容疑者1人を逮捕 国頭村奥の林道近く 絞殺し投げ捨る U容疑者を全国指名手配 元日、県民に衝撃走る」(琉球新報社)</ref>。2人は国頭村で少女を[[強姦|乱暴]]した上で林道上で絞殺し遺体を山中に遺棄した<ref name="琉球報1998-03-17"/>。
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|被害者=帰宅途中の女子中学生A(事件当時15歳[[名護市立羽地中学校]]3年生名護市我部祖河在住<ref name="中日新聞1997-01-03"/>
|被害者=帰宅途中の女子中学生A(事件当時15歳{{Efn2|name="少女A"}}:[[名護市立羽地中学校]]3年生) - 名護市我部祖河在住<ref name="沖縄タイムス1997-01-01"/>
|損害=約200円(加害者2人が被害者から奪った現金)<ref name="琉球新報1997-04-24"/>
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|犯人=元建設作業員の男2人(本文中YU)<ref name="読売新聞1997-01-03">『[[読売新聞]]』1997年1月3日東京朝刊第一社会面39頁「沖縄の拉致少女、遺体で発見 『仲間と殺して捨てた』 自供の元作業員を逮捕へ」([[読売新聞東京本社]])</ref>
|容疑=[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄罪]]・[[略取・誘拐罪|わいせつ目的誘拐罪]]・[[強制性交等罪|婦女暴行罪]]・[[窃盗罪]]<ref name="琉球新報1997-04-24"/>
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* 乱暴目的(拉致の動機)<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>
* 乱暴目的(拉致の動機)<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>
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* 拉致の発覚を恐れたため(殺害の動機)<ref name="中日新聞1997-01-04">『中日新聞』1997年1月4日朝刊第二社会面30頁「元建設作業員、殺人で再逮捕 沖縄の女子中学生殺害」(中日新聞社)</ref>
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|対処=加害者2人を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]<ref name="中日新聞1997-01-04"/><ref name="中日新聞1997-01-13"/>・[[起訴]]<ref name="X起訴"/><ref name="Y起訴"/>
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|謝罪=あり<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/><ref name="東京新聞1997-04-24">『[[東京新聞]]』1997年4月24日夕刊第二社会面10頁「名護の女子中生殺害2被告 起訴事実認める」([[中日新聞東京本社]])</ref>
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|補償=
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|賠償=
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|刑事訴訟=2人とも[[懲役#無期懲役|無期懲役]]([[審級|第一審]]<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/><ref name="琉球新報1998-03-17"/>・控訴審[[判決 (日本法)|判決]]<ref name="琉球新報1999-09-30"/> / [[確定判決|確定]])
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|少年審判=
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|海難審判=
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|民事訴訟=
|民事訴訟=
|影響= 沖縄県内で官民挙げての大捜索が展開され、[[名護市議会]]の一時休会<ref name="琉球新報1996-06-24"/>、[[名護夏祭り]]の中止<ref name="琉球新報1996-07-16"/>などの影響が出た。
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|遺族会=「九州・沖縄犯罪被害者連絡会」(みどりの風) - 被害者Aの父親が参加している<ref name="琉球新報2016-05-23"/>。
|遺族会=
|被害者の会=
|被害者の会=
|管轄=
|管轄=[[沖縄県警察]]([[名護警察署]]など)<ref name="琉球新報1996-08-20"/>・[[那覇地方検察庁]]<ref name="X起訴"/><ref name="Y起訴"/>
* [[沖縄県警察]]([[名護警察署]]など)<ref name="琉球新報1996-08-20"/>
* [[那覇地方検察庁]]<ref name="琉球新報1997-01-26"/><ref name="琉球新報1997-02-03"/>
}}
}}
'''名護市女子中学生拉致殺害事件'''(なごしじょしちゅうがくせいらちさつがいじけん)は、[[1996年]]([[平成]]8年)[[6月21日]]に[[沖縄県]]([[沖縄本島]])で発生した[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄]]・[[略取・誘拐罪|わいせつ目的誘拐]]・[[強制性交等罪|婦女暴行]]・[[窃盗罪|窃盗]]事件<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。[[名護市]]で、帰宅途中の女子中学生[[名護市立羽地中学校|市立羽地中学校]]3年生)が<ref name="中日新聞1997-01-03"/>、男2人組によって拉致され[[国頭郡]][[国頭村]]で[[強姦|暴行を受け]]殺害された事件である<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。
'''名護市女子中学生拉致殺害事件'''(なごしじょしちゅうがくせいらちさつがいじけん)は、[[1996年]]([[平成]]8年)[[6月21日]]に[[沖縄県]]([[沖縄本島]])で発生した[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄]]・[[略取・誘拐罪|わいせつ目的誘拐]]・[[強制性交等罪|婦女暴行]]・[[窃盗罪|窃盗]]事件<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。[[名護市]][[伊差川]]の農道{{Efn2|name="拉致現場"}}、帰宅途中の女子中学生A(当時15歳{{Efn2|name="少女A"}}:[[名護市立羽地中学校|市立羽地中学校]]3年生)が<ref name="沖縄タイムス1997-01-01"/>、犯人の男2人組(本文中「Y」および「U」)によってワゴン車(白い[[ワンボックスカー]])で拉致された<ref name="琉球新報1997-01-04"/>。Aは[[国頭郡]][[国頭村]]の山中、2人から[[強姦|暴行を受け]]殺害され、遺体を国頭村楚洲の山中に遺棄された{{Efn2|name="遺棄現場"}}<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。犯人2人はその後、約半年間にわたって逃亡を続けていたが、同年12月に犯行車両を盗んだとして[[指名手配]]されていた犯人の1人 (Y) が[[自首]]し、Aを殺害して遺棄した旨を自供したことで、[[1997年]](平成9年)[[1月1日]]にAの遺体が発見され<ref name="沖縄タイムス1997-01-01"/>、残る1人 (U) も同月に[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された<ref name="沖縄タイムス1997-01-13"/>。'''沖縄女子中学生強姦殺人事件'''と呼称される場合もある{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=68}}


殺人罪などの[[被告人]]として[[起訴]]された犯人2人は、刑事裁判でいずれも[[日本における死刑|死刑]]を[[求刑]]されたが<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>、[[審級|第一審]]([[那覇地方裁判所|那覇地裁]])・[[控訴]]審([[福岡高等裁判所那覇支部|福岡高裁那覇支部]])ともに[[懲役#無期懲役|無期懲役]]の[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡され<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/><ref name="沖縄タイムス1999-09-30"/>、[[1999年]](平成11年)10月に無期懲役が[[確定判決|確定]]している<ref name="沖縄タイムス1999-10-14"/>。
沖縄県内では類を見ない凶悪事件として、大きな衝撃を与えた<ref name="沖縄タイムス1997-04-24 朝刊"/>。また、[[那覇地方裁判所|那覇地裁]] (1998) は「地元や県のみならず、社会一般に不安・恐怖を与えた事件」と判示している<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。'''沖縄女子中学生強姦殺人事件'''と呼称される場合もある{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=68}}。


本事件は、沖縄県内では類を見ない凶悪事件として、大きな衝撃を与えた<ref name="沖縄タイムス1997-04-24 朝刊"/>。事件発生から、Aの遺体が発見されるまでの約半年間に、[[沖縄県警察|沖縄県警]]のみならず、地元住民や学校教職員らも(当時行方不明だった)Aを捜索する活動に加わり、大規模かつ[[長期捜査|長期的な捜査]]が展開されたが、600人規模の特別[[捜査本部]]の設置<ref name="沖縄タイムス1996-06-28"/>、被害者の情報を公表した公開捜査{{Efn2|name="公開捜査"}}<ref name="沖縄タイムス1996-06-29"/>、全県での地元住民らによる一斉捜索<ref name="沖縄タイムス1996-07-12"/>、[[沖縄県知事|県知事]](当時は[[大田昌秀]])による事件捜査への協力の呼び掛けなどは<ref name="琉球新報1996-07-12夕刊"/>、いずれも沖縄県内で発生した事件としては異例のものだった。また、那覇地裁 (1998) は[[判決理由]]で、「地元や県のみならず、社会一般に不安・恐怖を与えた事件」と判示している<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。
== 事件発生 ==
加害者の男X(逮捕当時38歳{{Efn2|Xは逮捕時点(1997年1月3日)<ref name="読売新聞1997-01-03"/>および初公判(同年4月24日)時点で39歳<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>、第一審判決(1998年3月17日)時点で40歳<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。}}:[[鹿児島県]][[種子島]]出身・元建設作業員)<ref name="読売新聞1997-01-03"/>は借金を重ねたことで妻子と別れて沖縄に渡り、[[人材派遣会社]]から斡旋を受け、建設作業員として働いていた{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。Xはその後、共犯の男Y(逮捕当時37歳{{Efn2|Yは起訴された当時(1997年2月2日)<ref name="Y起訴"/>および、初公判時点で37歳<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>、第一審判決時点で38歳<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。}}:[[北海道]][[網走市]]出身・Xの元同僚)<ref name="読売新聞1997-01-03"/>とともに、1996年4月ごろまで<ref name="中日新聞1997-01-03"/>、那覇市内の同じ建設作業員派遣会社に作業員として勤務し{{Efn2|2人は道路工事現場などで勤務しており、宿舎も一緒で、国頭郡内の作業現場で働いたことがあったため、犯行現場には少し土地勘があった<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>。}}<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>、互いに親しくなっていたが<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、会社は事実上倒産状態で給料も未払いだった<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊">『毎日新聞』1997年1月4日西部朝刊第一社会面「沖縄・女子中学生拉致事件 X容疑者を再逮捕 Y容疑者を手配--沖縄県警」(毎日新聞西部本社)</ref>。2人は退職して姿をくらまそうとし<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、1996年6月14日に[[那覇市]]内のホテル駐車場で犯行に使用した白色のワゴン車(職場の車){{Efn2|ワゴン車は目撃証言によれば「[[トヨタ・ハイエース]]のロング型に似た車」で<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、犯罪事件研究倶楽部 (2011) では「職場の社長の車」になっている{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。車を盗んだ動機について、加害者Xは逮捕後に「遊ぶため」と供述したが、捜査員は『[[毎日新聞]]』([[毎日新聞西部本社]])記者からの取材に対し「給料を払ってくれない(会社への)腹いせも要因ではないか?」と証言していた<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>。}}を盗んだ<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。その後、2人は宇佐浜海岸([[国頭郡]][[国頭村]]・[[辺戸岬]]付近)で[[車中泊]]をしていた{{Efn2|『毎日新聞』西部朝刊は「2人は盗んだワゴン車に寝泊まりしながら国頭村のビーチなどで遊んでいた」と報道している<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>。}}が、XがYに「女性を拉致して乱暴しよう」と持ち掛けた<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。その後、2人は「被害者から金品を奪い、最終的には殺害して死体を遺棄すること」などを相談した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。


== 略年表 ==
X・Y両加害者は<ref name="読売新聞1997-01-03"/>、1996年6月21日19時5分ごろ<ref name="琉球新報1996-08-20"/><ref name="経過1997-04-24"/>、[[沖縄県]][[名護市]][[伊差川]]の農道上{{Efn2|name="拉致現場"|拉致現場は、被害者Aの自宅(名護市我部祖河)<ref name="中日新聞1997-01-03"/>から約500&nbsp;[[メートル|m]]の場所<ref name="琉球新報1996-08-20">{{Cite news|title=失跡2カ月 ―女子中学生ら致事件―|newspaper=琉球新報|date=1996-08-20|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960820ja.htm|author=|accessdate=2000-06-01|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000601062907/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960820ja.htm|archivedate=2000年6月1日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。国道58号から約200&nbsp;m入った小川沿いの砂利道(普段は近隣住民が通る程度の農道)<ref name="読売新聞1996-06-27">『読売新聞』1996年6月27日西部朝刊第二社会面26頁「沖縄・名護の女子中学生拉致 有力情報なく1週間」(読売新聞西部本社)</ref>で、その農道の長さは約400&nbsp;m<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。現場周辺には当時、[[サトウキビ]]畑が広がっていた<ref name="朝日新聞1998-01-09"/>が、事件後、並行する[[河川改修|河川の改修]]工事に伴い、生い茂っていた雑草は刈り払われ、道も整備された<ref>『沖縄タイムス』1998年3月17日夕刊第2版第一社会面7頁「【名護】現場は様変わり 防犯意識高める区民」(沖縄タイムス社)</ref>。}}で、下校中の被害者である女子中学生A<ref name="琉球新報1998-03-17"/>(事件当時15歳:[[名護市立羽地中学校|羽地中学校]]3年生)を拉致した<ref name="中日新聞1997-01-03">『[[中日新聞]]』1997年1月3日朝刊第一社会面31頁「沖縄 女子中学生、遺体で発見 不明半年 窃盗容疑者が供述」([[中日新聞社]])</ref>。2人はワゴン車で、Aとその友人{{Efn2|被害者Aは友人とともに自転車で帰宅しようとしており<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、小学校付近で友人と別れて1人になり、裏道の川沿いの農道を自転車で走っているところを拉致された<ref name="読売新聞1996-06-27"/>。}}の後をつけ<ref name="中日新聞1997-01-03"/>、Aが1人になったところ<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、道を聞くふりをして呼び止め、ワゴン車に引きずり込んだ<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。そして、Aの自転車を川に投げ捨て<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、車で[[沖縄県道71号名護宜野座線|県道71号]]方面へ走り去った{{Efn2|Aが拉致されたところを付近(拉致現場から道路・川を隔てて約40&nbsp;[[メートル|m]]離れた場所)のアパート3階から目撃していた住民がおり、この住民はワゴン車に向かって大声で呼び掛けたが<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、車はそのまま逃げ去った<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。また、ワゴン車は被害者Aを拉致した直後に軽自動車と衝突しかけ、その軽自動車のドライバーが最後の目撃者となった<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。}}<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。
{| class="wikitable" style="font-size:90%"
|+事件経緯の概略
! colspan="5" |事件前
|-
!段階
! style="width:4em" |年
! style="width:4em" |月日
! colspan="2" |出来事
|-
! rowspan="4" |事件前
|{{nowrap|1995年}}{{nowrap|(平成7年)}}
|3月
| colspan="2" |犯人Uが沖縄に渡ってくる<ref name="砕かれた願い2"/>。その後、ホームレス生活を送っていたが、[[那覇市]]内の人材派遣会社に誘われ、日雇いの建設作業員として働き始める<ref name="盗んで逃走"/>。
|-
| rowspan="3" |{{nowrap|1996年}}{{nowrap|(平成8年)}}
|1月
| colspan="2" |借金を抱えた犯人Yが沖縄に渡ってくる<ref name="砕かれた願い2"/>。その後、Uと同じ会社で働き始める<ref name="盗んで逃走"/>。
|-
|6月14日
| colspan="2" |SとY(以下「犯人2人」)が那覇市内のホテル駐車場で<ref name="祈り届かず2"/>、勤務先の経営者が所有していた白いワンボックスカー(犯行車両)を盗む<ref name="砕かれた願い2"/>。<br/>その後、2人は[[辺戸岬]](国頭村)付近の海岸で車中泊をするようになる<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。
|-
|6月19日
| colspan="2" |犯人2人が辺戸岬の海岸で、立ち往生していた観光客の車を助け、記念撮影を受ける<ref name="読売新聞1997-01-04"/>。<br/>一方で2人はこのころ、女性を拉致して強姦することを計画し始める<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。
|-
! colspan="5" |事件当日
|-
! rowspan="3" |拉致
| rowspan="5" |{{nowrap|1996年}}{{nowrap|(平成8年)}}
| rowspan="5" |6月21日
|犯行前
|朝、被害者Aが通学していた[[名護市立羽地中学校]]の校門前で、犯行車両に似た車が目撃される<ref name="琉球新報1996-06-27"/>。<br/>犯行直前、羽地中の校門前で犯行車両が目撃される<ref name="琉球新報1996-06-27"/>。
|-
|19時5分
|犯人2人、名護市の農道{{Efn2|name="拉致現場"}}で下校途中の被害者Aを犯行車両(白いワンボックスカー)に押し込んで拉致<ref name="経過1997-04-24" />。
|-
|19時9分
|拉致の様子を見ていた住民が110番通報<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。<br/>3分後(19時12分)、[[沖縄県警察|沖縄県警]]が名護市内などで[[緊急配備]]を実施したが<ref name="琉球新報1996-08-20" />、犯行車両は検問に掛からなかった<ref name="朝日新聞1997-01-04" />。
|-
!強姦
|20時ごろ
|犯人2人、国頭村の私道上などでAを暴行。その後、財布から200円を奪い、Aを殺害することを決める<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。
|-
!{{nowrap|殺害・}}{{nowrap|死体遺棄}}
|21時30分ごろ
|犯人2人、国頭村の山中でAを殺害し、死体を山中に遺棄{{Efn2|name="遺棄現場"}}<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。<br/>犯行後、2人は翌22日に犯行車両を辺戸岬付近に放置し、同日から徒歩やヒッチハイクなどで本島を南下。同月26日、[[浦添市]]に到達した<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。
|-
! colspan="5" |捜査の経緯
|-
!段階
!年
!月日
!捜査機関
!出来事
|-
! rowspan="7" |捜査
| rowspan="8" |{{nowrap|1996年}}{{nowrap|(平成8年)}}
|6月22日
| rowspan="10" |沖縄県警
|県警や地元住民らにより、本格的な捜索活動が開始される<ref name="これまでの経過"/>。<br/>翌23日、県警は名護署に[[捜査本部]]を<ref name="沖縄タイムス1996-06-24"/>、市民対策本部が設置される。
|-
|6月25日
|沖縄県教育長の仲里長和、県民に捜査への協力を呼び掛ける<ref name="仲里県教育長"/>。同日、県警は捜索範囲を本島中部にも拡大<ref name="沖縄タイムス1996-06-26"/>。
|-
|6月27日
|県警、全県を捜索対象に拡大。また、捜査本部を特別捜査本部(特捜本部)に強化し、各警察署に「女子中学生ら致事件対策室」を設置<ref name="沖縄タイムス1996-06-28"/>。<br/>翌28日、特捜本部が被害者Aの氏名や顔写真などを公開<ref name="沖縄タイムス1996-06-28速報"/>。
|-
|7月5日
|辺戸岬付近で、盗難車として届け出られていた犯行車両が発見されるが、特捜本部は同日、「事件との関連性は薄い」と発表<ref name="祈り届かず4"/>。<br/>一方で18日、那覇署は犯人2人を窃盗容疑で全国に[[指名手配]]<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。
|-
|7月11日 - 21日
|11日、[[大田昌秀]][[沖縄県知事|県知事]]が県民に対し捜索活動への協力を呼び掛ける<ref name="沖縄タイムス1996-07-12"/>。<br/>翌12日と21日、2度にわたる県内一斉捜索が展開されたが、手掛かりは得られず<ref name="沖縄タイムス1996-07-12"/><ref name="沖縄タイムス1996-07-22"/>。
|-
|8月
|県警、指名手配中の被疑者Yの故郷([[種子島]])や、家族の在住地([[愛知県]])に捜査員を派遣<ref name="砕かれた願い1"/>。<br/>一方、Yは同月下旬にフェリーで鹿児島まで渡り、同年12月下旬まで[[中国・四国地方]]を転々とする<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。
|-
|12月15日
|市民対策本部、沖縄2紙(『[[沖縄タイムス]]』『[[琉球新報]]』)の朝刊に特別広告を掲載。犯人に対しAの解放を、市民に対し捜査への協力をそれぞれ喚起<ref name="特別広告"/><ref name="特別広告2"/>。
|-
! rowspan="3" |逮捕
|{{nowrap|12月28日}} - 31日
|28日にYが[[鹿児島県警察|鹿児島県警]]に出頭し、窃盗容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]される。翌29日に那覇署へ移送され、31日にAを殺害して山中に遺棄した旨を自供<ref name="沖縄タイムス1997-01-04"/>。
|-
| rowspan="4" |{{nowrap|[[1997年]]}}{{nowrap|(平成9年)}}
|1月1日 - 3日
|1日、特捜本部が国頭村の山中を捜索し、Aの白骨遺体や遺留品などを発見。<br/>同本部は3日、Yを殺人・死体遺棄などの容疑で逮捕(同月5日に[[送致|送検]])、Uを殺人・死体遺棄などで全国に指名手配<ref name="沖縄タイムス1997-01-04"/>。
|-
|1月11日 - 12日
|11日深夜、浦添市内の野球場でUを発見。12日未明に殺人などの容疑で逮捕(13日に送検)<ref name="琉球新報1997-01-13"/>。特捜本部は2月3日に解散<ref name="沖縄タイムス1997-02-03"/>。
|-
! rowspan="2" |起訴
|1月25日
| rowspan="2" |[[那覇地方検察庁|那覇地検]]
|那覇地検がYを殺人・死体遺棄・わいせつ目的誘拐・婦女暴行・窃盗の罪で那覇地裁に[[起訴]]<ref name="琉球新報1997-01-26"/>。
|-
|2月2日
|那覇地検がUを殺人・死体遺棄などの罪で起訴<ref name="琉球新報1997-02-03"/>。
|-
! colspan="5" |裁判の経緯
|-
![[審級]]
!年
!月日
!裁判所
!出来事
|-
! rowspan="3" |第一審
|{{nowrap|1997年}}{{nowrap|(平成9年)}}
|4月24日
| rowspan="3" |[[那覇地方裁判所|那覇地裁]]
|那覇地裁(長嶺信栄裁判長)で初公判が開かれ、[[被告人]]2人は起訴事実を認める<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>。<br/>その後、2人は犯行の主導性や計画性などを争う。
|-
| rowspan="2" |{{nowrap|[[1998年]]}}{{nowrap|(平成10年)}}
|2月
|同月10日の[[論告]][[求刑]]公判で、検察官は2被告人に[[日本における死刑|死刑]]を求刑<ref name="沖縄タイムス1998-02-11" />。24日の公判で結審<ref name="沖縄タイムス1998-02-25" />。
|-
|3月
|同月17日、那覇地裁(林秀文裁判長)は2被告人を[[懲役#無期懲役|無期懲役]]とする[[判決 (日本法)|判決]]を宣告<ref name="沖縄タイムス1998-03-17" />。<br/>那覇地検は同月30日、判決を不服として福岡高裁那覇支部に[[控訴]]<ref name="沖縄タイムス1998-03-31" />。
|-
! rowspan="3" |控訴審
| rowspan="3" |{{nowrap|1999年}}{{nowrap|(平成11年)}}
|1月14日
| rowspan="3" |[[福岡高等裁判所那覇支部|{{nowrap|福岡高裁}}{{nowrap|那覇支部}}]]
|福岡高裁那覇支部(岩谷憲一裁判長)で控訴審初公判<ref name="沖縄タイムス1999-01-14" />。
|-
|7月13日
|控訴審が結審。検察官は原判決破棄(2被告人への死刑適用)を、2被告人の弁護人はそれぞれ控訴[[棄却]]を求めた<ref name="沖縄タイムス1999-07-14"/>。
|-
|9月30日
|福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)、検察官の控訴を棄却する判決(2被告人を無期懲役とした原判決を支持)<ref name="沖縄タイムス1999-09-30"/>。10月13日、[[福岡高等検察庁那覇支部|福岡高検那覇支部]]が[[上告]]断念を決めたため<ref name="沖縄タイムス1999-10-14" />、上告期限が切れた時点で2人の無期懲役が[[確定判決|確定]]。
|}


== 犯人 ==
2人は国頭村方面へ向かい、ワゴン車で[[国道58号]]を北上し、20時ごろに国頭村の私道上で被害者Aを[[強姦|暴行]]した後、「殺害して犯行を隠そう」と考え、奥2号林道へ移動した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。そして、さらにAを暴行し、財布から200円を奪った上で、殺害を最終的に確認<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。(拉致から約2時間後の)<ref name="中日新聞1997-01-03"/>同日21時30分ごろ、2人は被害者Aを国頭村楚洲の林道{{Efn2|殺害現場は拉致現場から約50&nbsp;[[キロメートル|km]]離れた地点<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。事件当時は「国頭村奥」と報道されたが<ref name="読売新聞1997-01-03"/><ref name="琉球新報1997-01-06"/>、判決では一・二審とも「国頭村楚洲の林道上」と認定されている<ref name="琉球新報1998-03-17"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/>。}}上で絞殺した{{Efn2|2人は海辺で拾った紐を使い<ref name="読売新聞1997-01-03">『[[読売新聞]]』1997年1月3日東京朝刊第一社会面39頁「沖縄の拉致少女、遺体で発見 『仲間と殺して捨てた』 自供の元作業員を逮捕へ」([[読売新聞東京本社]])</ref>、2人で被害者Aの首を絞めて殺害した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。}}<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。
本事件の加害者は、[[鹿児島県]][[種子島]]出身の男'''Y・S'''([[逮捕 (日本法)|逮捕]]当時38歳{{Efn2|Yは逮捕時点(1997年1月1日)で38歳<ref name="沖縄タイムス1997-01-04"/>、初公判(同年4月24日)および論告求刑(1998年2月10日)の時点で39歳<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/><ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>、第一審の最終弁論(同年2月24日)および判決公判(同年3月17日)時点で40歳<ref name="沖縄タイムス1998-02-25"/><ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。}}:以下「Y」)と<ref name="沖縄タイムス1997-01-04">『沖縄タイムス』1997年1月4日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件 Aさん遺体発見 遺棄され奥山中に半年余 Y容疑者を再逮捕 共犯も全国指名手配」(沖縄タイムス社)</ref>、[[北海道]][[網走市]]出身の男'''U・M'''(逮捕当時37歳{{Efn2|Uは逮捕時点(1997年1月12日)および初公判(同年4月24日)、第5回公判(同年8月27日)の時点で37歳<ref name="沖縄タイムス1997-01-13"/><ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/><ref name="沖縄タイムス1997-08-28"/>。第6回公判(同年9月11日)や、論告求刑および第一審判決の時点で38歳<ref name="沖縄タイムス1997-09-12"/><ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/><ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。}}:以下「U」)の2人である<ref name="沖縄タイムス1997-01-13">『沖縄タイムス』1997年1月13日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件 共犯のU容疑者逮捕 県警特捜本部 動機や逃走経路など追及」(沖縄タイムス社)</ref>。過去に交通違反がある以外、2人とも目立った[[前科]]・前歴はなかった<ref name="砕かれた願い2"/>。


Yは、中学時代まで種子島の[[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[中種子町]]で過ごした<ref name="読売新聞1997-01-03西部"/>。中学校を卒業後、[[愛知県]][[名古屋市]]の鉄工所に就職し、溶接資格を取得した<ref name="砕かれた願い2"/>。その後は職を転々としつつも、一定の収入を得ており<ref name="砕かれた願い2"/>、鉄工職から港湾作業員に転職{{Sfn|FOCUS|1997|p=17}}。名古屋市[[港区 (名古屋市)|港区]]内の荷役会社に務めるようになり<ref name="読売新聞1997-01-03西部">『読売新聞』1997年1月3日西部朝刊第一社会面31頁「沖縄の女子中生拉致事件 Aさん痛ましい新年 ユニホーム姿、山中で遺体発見」(読売新聞西部本社)</ref>、逮捕の18年前([[1979年]]ごろ)、同じ[[九州]]出身の女性と結婚{{Sfn|FOCUS|1997|p=17}}。妻の両親が建てた市内の一戸建て住宅で{{Sfn|FOCUS|1997|p=17}}、妻や3人の子供{{Efn2|Yの子供3人は事件解決当時、18 - 14歳だったが、末っ子である娘は被害者Aとほぼ同世代(中学2年生)だった<ref name="週刊新潮1997-01-16"/>。}}、そして妻の両親とともに、7人家族で生活していた{{Sfn|FRIDAY|1997|p=15}}。当時はフォークリフト運転手として、年収700万円弱を稼いでいたが{{Sfn|FRIDAY|1997|p=15}}、多額の[[借金]]を抱え{{Efn2|「Yは[[パチンコ]]や[[麻雀]]で数百万円の借金を抱えた」という元近隣住民の証言と{{Sfn|FOCUS|1997|p=17}}、「パチンコは好きだったが、借金は共済や同僚から少し借りる程度だった」という元上司の証言がある{{Sfn|FRIDAY|1997|p=15}}。}}、その返済のため、自身を可愛がっていた義母{{Efn2|Yの義母は、若くして結婚したYのため、自宅のローンを肩代わりし、家計の裁量も全て任せていた{{Sfn|FOCUS|1997|p=17}}。}}から買い与えられていた自家用車を売却したほか、数回にわたって家出したこともあった{{Sfn|FOCUS|1997|p=17}}。そして、事件の約4年前に突然家出して以降は家に帰らず{{Sfn|FRIDAY|1997|p=15}}、1996年1月に沖縄に来た<ref name="砕かれた願い2">『沖縄タイムス』1997年1月5日朝刊第2版第一社会面17頁「砕かれた願い 女子中学生ら致殺害事件 <2> 素顔 妻子を残して沖縄へ」(沖縄タイムス社)</ref>。種子島の家族に対しては、事件の4年前<!--1997年1月から4年前-->に「元気で働いている」という電話を掛けて以降、音信不通になっていた<ref name="故郷の種子島">『琉球新報』1997年1月4日朝刊第1版第二社会面30頁「Y容疑者 故郷の種子島で出頭 「逃げられない」と観念」(琉球新報社)</ref>。なお、逃走中の1996年10月には妻の訴えで、離婚が成立している{{Sfn|FRIDAY|1997|p=15}}。
被害者Aを殺害後、2人はAの死体を山中(辺戸岬の南東約5&nbsp;km・林道脇の崖){{Efn2|name="遺棄現場"|死体遺棄現場(国頭村楚洲の林道脇斜面)は県道から細い林道を約4&nbsp;km登った地点に位置する<ref name="琉球新報1999-09-30"/>。}}に遺棄した{{Efn2|冒頭陳述では「2被告人は遺体をガードレール越しに投げ捨てた」とされている<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。}}<ref name="中日新聞1997-01-03"/>ほか、車からナンバープレートを取り外した上で<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、車を辺戸岬付近の農道へ放棄し、ヒッチハイク・徒歩で[[沖縄市]]内まで移動した<ref name="琉球新報1997-01-24">{{Cite news|title=ヒッチハイクするなど逃走経路明らかに  女子中学生ら致殺害事件|newspaper=[[琉球新報]]|date=1997-05-24|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970124je.htm|author=|accessdate=1999-02-24|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990224143252/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970124je.htm|archivedate=1999年2月24日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。事件後、加害者2人は野宿生活をしていたが、犯行に使用した車が発見されたことをニュースで知った{{Efn2|name="7月5日"|事件直後の『[[琉球新報]]』によれば、加害者Yがワゴン車の発見を新聞で知ったのは1996年7月5日とされている<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。}}ことなどから、それぞれ別行動を取ることにした{{Efn2|2人は6月26日、(後に加害者Yが逮捕された)浦添市[[勢理客]]の公園で野宿したのを最後に別行動していた<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。

Uは[[1959年]]([[昭和]]34年)<ref name="U容疑者中学時代"/>、4人兄弟の末っ子として{{Sfn|FOCUS|1997|p=17}}、網走市で生まれた<ref name="U容疑者中学時代"/>。中学校時代は人付き合いが苦手で、目立たない生徒だった<ref name="U容疑者中学時代"/>。中学時代はバレーボール部に在籍していたが、先輩たちとの人間関係がうまく行かず、半年ほどで退部<ref name="U容疑者中学時代">『琉球新報』1997年1月13日朝刊第1版第一社会面21頁「U容疑者 目立つ存在ではなかった中学時代」(琉球新報社)</ref>。中学卒業後{{Efn2|『琉球新報』は「中学卒業後、1年ほどは職に就かず、網走市内で暮らしていたが、その後、4年ほど建設作業員として働き、本土に渡った」と<ref name="U容疑者中学時代"/>、『沖縄タイムス』は「高校を卒業後、愛知県で就職した」と<ref name="砕かれた願い2"/>、『[[FOCUS]]』は「市内の建設関係の専門学校を卒業後、道内で建設作業に従事し、(事件の)10年ほど前から名古屋の鉄骨会社で働いていた」と報じている{{Sfn|FOCUS|1997|p=17}}。}}、本土に渡った<ref name="U容疑者中学時代"/>。愛知県の運送会社に就職して結婚し、子供ももうけたが、突然会社を辞め、[[1995年]](平成7年)3月に沖縄へ渡っていた<ref name="砕かれた願い2"/>。Uの母親は、『[[FOCUS]]』([[新潮社]])の記者からの取材に対し、「毎年、正月には両親宛に2万円ずつ送金してくれる優しい子だったが、逮捕の3年前(1994年ごろ)からは音信不通になり、心配して捜索願を出していた」と話している{{Sfn|FOCUS|1997|p=17}}。

== 事件前の経緯 ==
Yは沖縄に来て以降、しばらくは職に就かず、[[那覇市]]内の公園などでホームレス生活をしていたが<ref name="祈り届かず2">『琉球新報』1997年1月6日朝刊第1版第一社会面23頁「祈り届かず 名護市女子中学生ら致殺害事件 2 出頭 犯行直前 校門前で目撃 Y容疑者 職転々とし沖縄へ」(琉球新報社)</ref>、那覇市若狭の公園で、日雇いの建設作業員を斡旋していた那覇市内の人材派遣会社の関係者から、「うちで働く気はないか」と声を掛けられた<ref name="盗んで逃走">『琉球新報』1997年1月4日朝刊第1版第一社会面31頁「Y容疑者 勤務先の車盗んで逃走」(琉球新報社)</ref>。その会社では当時、同じように公園にいたところを誘われたUが働いていた<ref name="盗んで逃走"/>。Yは、Uら数人とともに、会社が借り上げた那覇市[[首里]]のアパートで暮らしつつ、那覇市を中心に、建設現場で働いていた<ref name="祈り届かず2"/>。作業内容は、ブロック作りや道路工事などの作業だった<ref name="砕かれた願い2"/>。2人は、現場は別々だったが、宿舎では同室で暮らしており<ref name="砕かれた願い2"/>、互いに親しくなっていた<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。また、[[国頭郡]]内の作業現場で働いたことがあったため、犯行現場には少し土地勘があった<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>。

しかし、2人が勤めていた建設作業員派遣会社は事実上倒産状態で、給料も未払いだった<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊">『毎日新聞』1997年1月4日西部朝刊第一社会面「沖縄・女子中学生拉致事件 Y容疑者を再逮捕 Y容疑者を手配--沖縄県警」(毎日新聞西部本社)</ref>。給与の支払い遅延などから、会社の経営者に不満を抱いた2人は<ref name="砕かれた願い2"/>、退職して姿をくらまそうとし<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、1996年6月14日、那覇市[[安里]]のホテル駐車場から<ref name="祈り届かず2"/>、経営者が所有していた白いワンボックスカーを盗んだ{{Efn2|車を盗んだ動機について、加害者Yは逮捕後に「遊ぶため」と供述したが、捜査員は『[[毎日新聞]]』([[毎日新聞西部本社]])記者からの取材に対し「給料を払ってくれない(会社への)腹いせも要因ではないか?」と証言していた<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>。}}<ref name="砕かれた願い2"/>。犯行車両は目撃証言によれば、[[トヨタ・ハイエース]]のロング型に似たワゴン車で<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、車両後部の窓には白いペンキが塗られていたか、白いフィルムが貼られていた<ref name="琉球新報1996-06-27"/>。沖縄は日差しが強いため、このように白い塗装で、日除けのフィルムを貼った車は珍しくなかった{{Sfn|週刊文春|1996|p=32}}。

その後、2人は[[辺戸岬]]付近の宇佐浜海岸(国頭郡[[国頭村]])で[[車中泊]]をしていた{{Efn2|『毎日新聞』 (1997) は「2人は盗んだワゴン車に寝泊まりしながら、国頭村のビーチなどで遊んでいた」と報道している<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。事件2日前(6月19日)、2人は辺戸岬付近の浜辺で、乗用車の車輪を砂浜にはめてしまった観光客の夫婦から頼まれ、車を後部から押してやっていたが、その礼として夫婦からビデオカメラで記念撮影されていた<ref name="読売新聞1997-01-04"/>。一方、Uは同日ごろ、国頭村の海岸で遊びに来ていた観光客の女性を見かけたことをきっかけに、Uに対し「女性を拉致して乱暴しよう」と持ち掛けたとされている{{Efn2|Yは逮捕当初、「犯行の数時間前、Uが(犯行の)話を持ちかけてきた」と供述していた{{Sfn|アサヒ芸能|1997|p=24}}。}}<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。Uもこれに同意し、2人で女性を拉致して強姦することを計画した<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。また、事件の2、3日前には、拉致現場(名護市伊差川)付近のガソリンスタンドで給油していた<ref name="祈り届かず2"/>。Aを絞殺した際に用いた凶器の紐(長さ約2&nbsp;[[メートル|m]]、太さ約9&nbsp;[[ミリメートル|mm]])は、このころに海辺で拾ったものだった<ref name="祈り届かず3"/>。

== 事件当日 ==
2人は事件数日前から、標的とする女性を探したが、見つけられなかった<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>。本事件の被害者である少女A(当時15歳:中学3年生){{Efn2|name="少女A"|被害者の少女A({{没年齢|1981|4|23|1996|6|21}})は、1981年(昭和56年)4月23日生まれ{{Sfn|週刊文春|1996|p=30}}。}}は、[[名護市立羽地中学校]]に通学していたが<ref name="沖縄タイムス1997-01-01"/>、その校門付近では、事件当日(6月21日)の朝、(犯行車両に似た)白色系のワゴン車が駐車してあるのを、市民が目撃していた<ref name="琉球新報1996-06-27">『琉球新報』1996年6月27日朝刊第1版第一社会面23頁「【名護】女子中学生ら致事件から1週間 事件当日、生徒ら目撃 校門付近に白いワゴン車 車内に「怖そうなお兄さん」」(琉球新報社)</ref>。また、2人は犯行直前、同校の校門前で女子生徒を物色していたが、その姿を男子生徒に見られ、不審がられていた<ref name="祈り届かず2"/>。当時、校門付近に駐車してあった白いワゴン車を目撃していた生徒は7人で、彼らの目撃証言を総合すると、車に乗っていた人物は、「頭に“剃り込み”を入れた、怖そうなお兄さん」だった<ref name="琉球新報1996-06-27"/>。

=== 拉致 ===
{{OSM Location map
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| caption = 拉致現場 (1) 付近の略地図{{Efn2|name="拉致現場"}}。Aの家(名護市我部祖河)<ref name="沖縄タイムス1997-01-01"/>は、拉致現場から西方へわずか約500&nbsp;[[メートル|m]]<ref name="琉球新報1996-08-20">{{Cite news|title=失跡2カ月 ―女子中学生ら致事件―|newspaper=琉球新報|date=1996-08-20|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960820ja.htm|author=|accessdate=2000-06-01|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000601062907/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960820ja.htm|archivedate=2000年6月1日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、ないし約600&nbsp;mの地点だった<ref name="沖縄タイムス1997-01-01"/>。そのほぼ中間地点に、[[沖縄県道71号名護宜野座線|県道71号]]との交差点 (4) があり、同地点で左折して南進すると、[[国道58号]]との交差点 (5) に到達する。その交差点 (5) を左折し、国道58号を北西方向に進むと、殺害・遺棄現場のある国頭村に到達する。<br/>『AERA』 (1996) に拉致現場と、目撃者が住んでいた名護市営住宅 (2) <!--団地の住所:名護市伊差川833-7。事件当時の名称は「市営伊差川団地」<ref>{{Cite book|和書|title=名護市 1996|publisher=[[ゼンリン]]|date=1996-07|page=67|series=ゼンリン[[住宅地図]]|quote=市営 伊差川団地|id={{国立国会図書館書誌ID|000003611893}}|at=A-2}}</ref>、2021年時点では「伊差川大堂市営住宅」<ref>{{Cite web|url=https://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/jutaku/kanri/sichousonneijyuutaku_hokubu.html|title=市町村営住宅一覧(北部)|accessdate=2021-12-05|publisher=[[沖縄県]]|date=2019-02-06|quote=伊差川大堂市営住宅 名護市伊差川833−7|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211205024956/https://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/jutaku/kanri/sichousonneijyuutaku_hokubu.html|archivedate=2021-12-05}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.city.nago.okinawa.jp/kurashi/2018071800489/file_contents/R03.pdf|title=令和3年度 市営住宅家賃一覧表(羽地地区・屋我地地区・久志地区)|accessdate=2021-12-05|publisher=[[名護市]]|year=2021|format=PDF|quote=伊差川大堂 伊差川833番地の7|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211130073430/https://www.city.nago.okinawa.jp/kurashi/2018071800489/file_contents/R03.pdf|archivedate=2021-11-30}}</ref>。-->(現場から川を隔てて約50&nbsp;m離れた地点)を写した写真が掲載されている{{Sfn|AERA|1996|p=15}}。 | auto-caption = 1
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| mark-coord1 = {{coord|26|36|56.938|N|128|00|9.745|E}}
| mark-title1 = 拉致現場
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| mark-coord2 = {{coord|26.615292|128.002395}}
| mark-title2 = Aが拉致される場面を目撃した住民が住んでいた団地<br/>(名護市営住宅)
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| mark-coord3 = {{coord|26.61594871668979|128.0059985336535}}
| mark-title3 = Aが同級生(甲)と最後に別れた橋の袂
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| mark-coord4 = {{coord|26.615783361853403|128.00027949043738}}
| mark-title4 = 農道と県道71号の交差点
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| mark-coord5 = {{coord|26.610902388555342|128.00160466535758}}
| mark-title5 = 県道71号と国道58号の交差点
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}}
その後、2人は名護市伊差川の農道で{{Efn2|name="拉致現場"}}<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>、自転車に乗った2人連れの女子中学生を見つけた<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。そのうちの1人がAで、もう1人の少女(甲)は<ref name="特別広告">『沖縄タイムス』1996年12月15日朝刊特別広告面6頁「Aさんをすぐ帰して下さい。」「一刻も早く解放を 父 (被害者Aの父親の実名)」「A、早く会いたい 羽地中学校三年 (Aが拉致される直前まで一緒に下校していた女子生徒の実名)」(沖縄タイムス社)</ref>、Aの同級生だった{{Efn2|彼女とAは幼稚園からの幼馴染で、同じバレーボール部に在籍していた<ref name="沖縄タイムス1997-01-15社会"/>。}}<ref name="沖縄タイムス1997-01-15社会">『沖縄タイムス』1997年1月5日朝刊第2版第一社会面17頁「【名護】Aさんに永遠の別れ 「長い間捜せなくてごめんね」 参列者2千人 涙をこらえ焼香」(沖縄タイムス社)</ref>。彼女たち2人は、バレーボール部の練習をいつもより早く終え、下校のチャイムが鳴る直前の18時45分、自転車に乗って校門を出ており、Aは通学路の途中にあった小さな橋の袂で、「じゃあ、また明日」と別れた直後、Yたちによって拉致された<ref name="沖縄タイムス1996-12-20"/>。拉致された当時、Aはバレーボール部のユニフォームを着ており{{Sfn|女性自身|1997|p=270}}、制服はリュックサックに入れていた<ref name="沖縄タイムス1996-07-02"/>。

YとUは、彼女たちを尾行し<ref name="祈り届かず3"/>、農道のT字路付近で待ち伏せた<ref name="沖縄タイムス1996-12-20"/>。事件当日(6月21日)は[[夏至]]で{{Efn2|同日の名護市内の日没時刻は19時24分<ref name="沖縄タイムス1996-07-05"/>。}}<ref name="沖縄タイムス1996-12-20"/>、事件発生時刻の19時5分ごろ<ref name="経過1997-04-24"/>、現場周辺はまだ昼間のように明るかった<ref name="沖縄タイムス1996-07-05"/>{{Sfn|週刊文春|1996|p=30}}。2人は、友人と別れて1人になったAが、車の脇を通り過ぎようとしたところで降車し{{Sfn|週刊新潮|1996|p=128}}、Aに「名護の市街地にはどう行くの?」などと道を尋ねるふりをして、Aを犯行車両に無理矢理押し込めた<ref name="祈り届かず3">『琉球新報』1997年1月7日朝刊第1版第一社会面19頁「祈り届かず 名護市女子中学生ら致殺害事件 3 犯行・逃走 道聞くのを装い近づく Y容疑者 7月上旬に鹿児島へ」(琉球新報社)</ref>。この一部始終は、現場付近{{Efn2|拉致現場から、道路と川を隔てて約40&nbsp;m<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、あるいは直線距離で約50&nbsp;m離れた場所{{Sfn|AERA|1996|p=15}}。}}の団地3階の住民に目撃されており、この住民はAの「キャー」という悲鳴を聞いたため、車に向かって大声で呼び掛けたが<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、男たちのうち1人が車から降り<ref name="沖縄タイムス1996-12-20"/>、Aを慌てて車内に押し込んだ<ref name="琉球新報1996-06-22">『琉球新報』1996年6月22日夕刊第1版第一社会面5頁「本島北部 女子中学生をら致」(琉球新報社)</ref>。そして、車内にいたもう1人の男が車外に出て<ref name="沖縄タイムス1996-12-20"/>、Aの自転車を川べりに投げ捨てた<ref name="沖縄タイムス1996-06-28速報">『沖縄タイムス』1996年6月28日速報(号外)「名護 女子中学生ら致事件 県警が公開捜査 被害者はAさん」(沖縄タイムス社)</ref>。そして、2人は車で県道71号方面(拉致現場から西方)へ走り去った<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。

犯行車両はAを拉致した直後、軽自動車と衝突しかけているが、その軽自動車のドライバーが最後の目撃者である<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。ただし、このドライバーは犯行車両に乗っていた人物の人相や、車のナンバーまでは記憶していなかった{{Sfn|週刊文春|1996|p=33}}。

=== 殺害 ===
2人は県道71号に出ると、左折して[[国道58号]]に入り<ref name="祈り届かず3"/>、同道を猛スピードで北上し<ref>『沖縄タイムス』1997年1月4日朝刊第1版総合面1頁「久高本部長 地道な捜査が奏功 犯人ら配備網を突破」(沖縄タイムス社)</ref>、20時ごろ、国頭村の私道上でAを暴行した{{Efn2|起訴状によれば、2人がAを暴行した地点は、国頭村辺戸の私道など<ref name="琉球新報1997-01-26"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。その後、犯行の発覚を免れるため、Aを殺害して死体を遺棄することを決意し<ref name="判決要旨"/>、奥2号林道へ移動した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。

移動後、2人はさらにAを暴行し、財布から200円を奪った上で、殺害を最終的に確認<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。同日21時30分ごろ、国頭村楚洲の林道上で<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/><ref name="琉球新報1998-03-17"/>、2人で紐を使い、Aの首を絞めて殺害した<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/><ref name="琉球新報1997-04-24"/>。そして、2人で遺体をガードレール越しに投げ捨てた{{Efn2|name="遺棄現場"}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。遺棄現場の林道やその近辺は、造林関係者など一部を除き、地元住民でもほとんど入らないような場所だった<ref name="祈り届かず1">『琉球新報』1997年1月6日朝刊第1版第一社会面23頁「祈り届かず 名護市女子中学生ら致殺害事件 1 遺体発見 かなわなかった懸命の捜索 林道わき斜面に半年余も」(琉球新報社)</ref>。

== 犯行後の逃避行 ==
犯行後、2人はAの名前入りの制服や、教科書などが入ったリュックサックを、遺体遺棄現場から西方約800&nbsp;m地点に遺棄した<ref name="琉球新報1997-01-04"/>。さらに、車からナンバープレートを取り外し<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、同日夜は国頭村宇佐浜の砂浜で車中泊した<ref name="読売新聞1997-01-26">『読売新聞』1997年1月26日西部朝刊第一社会面31頁「沖縄の女子中生殺害 両容疑者、犯行後ワゴン車で一夜」(読売新聞東京本社)</ref>。

2人は翌22日朝、辺戸岬付近の農道で車を放棄し<ref name="琉球新報1997-01-24">{{Cite news|title=ヒッチハイクするなど逃走経路明らかに  女子中学生ら致殺害事件|newspaper=[[琉球新報]]|date=1997-01-24|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970124je.htm|author=|accessdate=1999-02-24|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990224143252/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970124je.htm|archivedate=1999年2月24日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、歩きながらヒッチハイクし、名護市内在住の女性の車に乗せてもらい、名護市まで行くと、同夜は公園で一泊した<ref name="沖縄タイムス1997-01-25">『沖縄タイムス』1997年1月25日朝刊第1版第一社会面21頁「中学生ら致殺害 Y容疑者きょう起訴 公園を転々 野宿 パチンコで逃走資金稼ぐ」(沖縄タイムス社)</ref>。さらに、6月23日からは歩いて南下し、[[沖縄市]]内の公園で2泊したが、市民の捜索が大掛かりに行われていることを知り、さらに歩いて南下し、26日に[[浦添市]][[勢理客]]の公園(後にUが逮捕された場所){{Efn2|name="伊奈武瀬球場"}}で野宿した<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。2人が別行動を取るようになった時期については、「6月26日以降」<ref name="琉球新報1997-01-24"/>「7月上旬」<ref>『毎日新聞』1997年1月13日西部朝刊社会面「沖縄・女子中学生拉致殺害事件 逃走中のU容疑者を「四十九日」法要に逮捕」(毎日新聞西部本社)</ref>「7月12日以降」<ref name="沖縄タイムス1997-01-25"/>などの報道があるが、検察官の冒頭陳述によれば、2人は(7月5日に)犯行車両が発見されたことを知ったことなどから、別行動を取るようになったとされている<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。

それ以来、Yは沖縄県内([[宜野湾市]]・[[北谷町]]の公園など)を転々とした<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。この間、パチンコで逃走資金を稼ぎ<ref name="沖縄タイムス1997-01-25"/>、8月下旬にフェリーで鹿児島に渡ると、[[広島県|広島]]・[[岡山県|岡山]]・[[香川県]]と移動した<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。Yは香川でしばらく働いた後、同月12月上旬に鹿児島へ戻り、同月下旬に出身地の種子島へ渡った<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。また、Uは犯行車両が発見されたことを新聞で知り、公園を転々としつつ、断続的に日雇い労働をしながら、(後に逮捕された場所である)浦添市内の[[伊奈武瀬]]球場(浦添市勢理客){{Efn2|name="伊奈武瀬球場"}}付近で生活していた<ref name="沖縄タイムス1997-01-25"/>。同年12月、Uは人材派遣会社を通じ、「仲村公一」という偽名を使い、[[那覇港|安謝新港]](那覇市)などで臨時雇の荷役作業に従事して<ref name="琉球新報1997-01-14">『琉球新報』1997年1月14日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中学生拉致殺害事件 U容疑者、偽名で働く 昨年12月に人材派遣通じ 県警 殺人容疑などで送検」(琉球新報社)</ref>、生活費を稼いでいた{{Efn2|発見された給料袋によれば、期間は12月6日 - 18日までの2週間分で、日当は7,000円から7,500円(2週間で合計92,500円)<ref name="沖縄タイムス1997-01-13夕刊"/>。}}<ref name="沖縄タイムス1997-01-25"/>。実際にUの逮捕後、潜伏していた伊奈武瀬球場のバックネット裏では、Uが使っていたとみられた赤い婦人用自転車や衣類・作業服などとともに、「仲村」と書かれた給料袋や日当、支払い者のサインなどが記載された給料袋2つが発見されている<ref name="沖縄タイムス1997-01-13夕刊">『沖縄タイムス』1997年1月13日夕刊第2版第一社会面5頁「女子中学生ら致殺害 U容疑者、犯行認める 県内公園を転々と 偽名で働きながら逃走 発見の球場内に給料袋」(沖縄タイムス社)</ref>。同球場に隣接していた消波ブロック製作所の警備員は、同月6日以降、Uが逮捕された1997年1月12日までに、4、5回にわたって球場内で寝泊まりしていたUの姿を目撃していたが、Uが殺人容疑で公開手配されて以降も、当時のUの風貌が指名手配写真と大きく異なっていたこともあって、「よくいる浮浪者だ」と思い、特に気に留めていなかった<ref name="沖縄タイムス1997-01-13社会"/>。また、Uを雇用した人材派遣会社の関係者も「『仲村』(=U)はとても明るく元気で、仕事も真面目で、殺人事件を起こして逃亡しているようには見えなかった。Uの指名手配写真が公開されて以降も、『仲村』がUとはまったく気づかなかった」という旨を述べている<ref name="琉球新報1997-01-14"/>。


== 捜査 ==
== 捜査 ==
[[沖縄県警察]]は事件直後から[[緊急配備]]を張り、その後も「犯人は沖縄県内に潜伏している可能性が高い」として<ref name="沖縄タイムス1996-07-23">『沖縄タイムス』1996年7月23日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致から一カ月 「捜査、着実に進む」 県民情報、裏付け急ぐ 久高刑事部長が会見」(沖縄タイムス社)</ref>、犯行車両の絞り込みなどを続けていた<ref name="琉球新報1996-12-21"/>([[#2人を窃盗容疑で指名手配|後述]])。犯行現場や犯行手口から「地元の地理に詳しい人物が、計画的にAを狙って犯行におよんだ」と推測された<ref name="沖縄タイムス1996-08-21"/>。しかし、目撃者の少なさや<ref name="琉球新報1996-12-21"/>、目撃証言の曖昧さ{{Sfn|週刊新潮|1996|p=129}}(犯行車両のナンバーは目撃されておらず、類似車両も多かった)<ref name="沖縄タイムス1996-07-05">『沖縄タイムス』1996年7月5日第1版第一社会面31頁「【名護】女子中学生ら致事件から2週間 関係者に焦りの色 依然手がかりつかめず」(沖縄タイムス社)</ref>、[[山原|本島北部に広がる広大な森林地帯]]が障壁になったこと<ref name="朝日新聞1997-01-03">『朝日新聞』1997年1月3日西部朝刊第一社会面31頁「山中に半年、無念の帰宅 沖縄の女子中学生、遺体で発見 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、そして犯人像を絞り込めなかったことから、捜査は難航し、事件解決まで約半年を要した<ref name="砕かれた願い1"/>。また、事件直後の緊急配備体制や、後に犯行車両と判明した車の[[鑑識]]作業など、当時の捜査体制に問題があったのではないかとする指摘がある{{Sfn|週刊文春|1997|p=39}}。

=== 初動捜査 ===
=== 初動捜査 ===
19時9分、被害者Aが拉致される瞬間を目撃していた近隣住民が、県警に110番通報した<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。これを受け、沖縄県警は19時12分、所轄署の[[名護警察署]]や、近隣の警察署へ緊急配備の司令を出し<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、19時25分に配備が完了<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>。名護市から南へ抜ける要所で検問を行った<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。
19時9分、被害者Aが拉致されるところを目撃した近隣住民が110番通報<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。これを受けた[[沖縄県警察]]は同12分に[[名護警察署]]および近隣の警察署へ[[緊急配備]]の指令を出し{{Efn2|緊急配備の範囲は名護市周辺で、25分に配備終了<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>。名護署の管轄区域は県北部の名護市など1市3町・約550&nbsp;[[平方メートル|㎡]](沖縄本島の約45%)におよぶ一方、当時の署員数は98人と少なく、事件当日は金曜日の当直時だったため、事件発生時点では当直員約15人と手薄な時間帯だった<ref name="読売新聞1996-01-04"/>。}}<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、名護市から南へ抜ける要所で検問を行った{{Efn2|特捜本部長・久高常良(当時・県警刑事部長)ら捜査幹部は、『琉球新報』記者からの取材に対し、「犯人が事件後、中南部(人目が多く、夕方の渋滞に巻き込まれやすい市街地方面)に逃走した可能性は低い」と説明したが<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、久高は1月3日に記者会見で「限られた人員・地理的な状況を踏まえ、『早い時間に大宜味村津波を押さえれば包囲網が敷ける』と判断して検問を張ったが、結果的に加害者2人は配備前に検問場所を通過していた可能性が高い」と説明した<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。また、惠隆之介 (2013) は「県警は『(本島北部で発生した)本事件は犯人が被害者を連れ、車で本島中部に南下するだろう』と推測して名護市内に非常線を張ったが、実際には被害者は拉致現場よりさらに北方の山中で殺害されていた」と述べている{{Sfn|惠隆之介|2013}}。}}<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。しかし、実際にX・Yが向かった方向は逆(北方)で、拉致現場から北側の検問は約10&nbsp;km離れた国道58号の1か所{{Efn2|検問実施箇所は『読売新聞』によれば「拉致現場から約10&nbsp;km北側の[[大宜味村]]塩谷(国道58号上)など3か所」で<ref name="読売新聞1996-01-04">『読売新聞』1997年1月4日西部朝刊第一社会面31頁「沖縄の少女拉致・殺害 ビデオに2容疑者映る 事件2日前、観光客撮影」(読売新聞西部本社)</ref>、『朝日新聞』によれば「大宜味村津波の国道58号(拉致現場から約10&nbsp;km離れた地点 / 拉致現場から時速60&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]で走行すると10分で通過可能)」である<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。後者の地点は、幹線道路を経由して本島北端(殺害現場方面)へ向かう場合は必ず通る地点だが、検問開始時刻は19時25分(事件発生から20分後・他地点より13分ほど後)だった<ref name="朝日新聞1997-01-04">『朝日新聞』1997年1月4日西部朝刊第一社会面27頁「元作業員の男を再逮捕 沖縄の中3殺害遺棄容疑 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}だけだった<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>ため、加害者2人は検問を潜り抜けていた<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。また、同日には本島南部で別の事件{{Efn2|惠隆之介 (2013) は「被害者Aが拉致されたのとほぼ同時刻に、本島南部で全裸の女子中学生が民家に助けを求めて駆け込む事件が発生していた」と述べている{{Sfn|惠隆之介|2013}}。}}が発生したため、捜査員のうち半分をそちらに回すことを余儀なくされた<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>。


しかし、実際に犯人2人が向かった方向は逆(北方)で、拉致現場から北側の検問は、約10&nbsp;km離れた国道58号の1か所<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>(国頭郡[[大宜味村]]津波){{Efn2|『読売新聞』 (1997) は「大宜味村塩屋」と報じている<ref name="読売新聞1997-01-04">『読売新聞』1997年1月4日西部朝刊第一社会面31頁「沖縄の少女拉致・殺害 ビデオに2容疑者映る 事件2日前、観光客撮影」(読売新聞西部本社)</ref>。}}のみだった<ref>『琉球新報』1997年1月4日朝刊第1版第一社会面31頁「県警本部 緊急配備も間に合わず 犯行車両 いったんは“シロ”」(琉球新報社)</ref><ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。この地点は、拉致現場から約10&nbsp;km離れた場所にあり、拉致現場から時速60&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]で走行した場合、10分で通過できる<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。また、拉致現場から幹線道路を経由して[[沖縄本島|本島]]北端(殺害現場方面)へ向かうと必ず通る地点でもあり<ref name="朝日新聞1997-01-04">『朝日新聞』1997年1月4日西部朝刊第一社会面27頁「元作業員の男を再逮捕 沖縄の中3殺害遺棄容疑 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、[[国道331号]]など、西海岸に抜けるルートもチェックできる地点だったが、この地点の緊急配備を担当したのは、同地点から約15&nbsp;km北方に位置する{{ウィキ座標|26|44|41.9|N|128|10|38.3|E||名護警察署辺土名交番}}勤務の署員で<ref name="祈り届かず4">『琉球新報』1997年1月8日朝刊第1版第一社会面23頁「祈り届かず 名護市女子中学生ら致殺害事件 4 捜査 犯行車両 当初は「関連薄い」の見方 疑い捨て切れず全国手配」(琉球新報社)</ref>、検問を開始した時間は、他の地点より13分ほど遅い19時25分ごろだったため、2人は検問開始より先に同地点を通過していた可能性が高いことが指摘されている<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。名護署の管轄区域は、県北部の名護市など1市3町(約550&nbsp;[[平方メートル|m{{sup|2}}]]:沖縄本島の約45%)におよぶ一方、当時の署員数は98人と少なく、かつ事件当日は金曜日の当直時だったため、事件発生当時は当直員約15人と、手薄な時間帯だった<ref name="読売新聞1997-01-04"/>。また、同日には、本島南部で別の事件{{Efn2|惠隆之介 (2013) は「被害者Aが拉致されたのとほぼ同時刻に、本島南部で全裸の女子中学生が民家に助けを求めて駆け込む事件が発生していた」と述べている{{Sfn|惠隆之介|2013|p=103}}。}}が発生していたため、県警は捜査員のうち、半分をそちらの事件に回すことを余儀なくされた<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>。
県警([[刑事部|捜査一課]]・名護署)は拉致事件として{{Efn2|事件当初、名護署は目撃証言から「[[身代金]]目的[[誘拐]]の可能性もある」として捜査したが、被害者Aの自宅には何の連絡もなかったため、拉致事件と断定し、県内の[[モーテル]]・車が入れる山道などを重点的に捜索した<ref>『毎日新聞』1996年6月22日西部夕刊社会面「男2人がワゴン車で女子中学生を連れ去る--沖縄・名護市」(毎日新聞西部本社)</ref>。}}、事件直後から検問・聞き込み捜査を行い<ref name="読売新聞1996-06-23"/>、同月23日夜には名護署に[[捜査本部]]を設置した<ref>『読売新聞』1996年6月24日西部夕刊第一社会面7頁「女子中学生拉致事件で捜査本部設置 沖縄県警と名護署」(読売新聞西部本社)</ref>。周辺道路で実施された検問に犯行車両が引っかからなかったため、県警は事件後しばらくは「犯人は沖縄本島北部の捜査網の中にいる」として、本島中北部に重点を置いて捜索したが<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、[[山原|本島北部の広大な森林地帯]]に阻まれ、捜査は難航<ref name="朝日新聞1997-01-03">『朝日新聞』1997年1月3日西部朝刊第一社会面31頁「山中に半年、無念の帰宅 沖縄の女子中学生、遺体で発見 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。地元住民を含めた捜索でも手掛かりがなく、事件6日後(6月27日)には全県を捜索対象とした<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>。また、同月27日には捜査本部を特別捜査本部{{Efn2|当時、沖縄県警が特別捜査本部を設置することは異例だった<ref name="AERA">{{Cite journal|和書|journal=[[AERA]]|title=少女誘拐で見せた県警の事大主義|volume=9|date=1996-08-12|issue=33|pages=15-17|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版本部]]}}(通巻:第443号 1996年8月12日号)</ref>。}}へ拡大・強化し、捜査員650人(県警職員の4分の1){{Efn2|県警と11署から職員を派遣した<ref>『読売新聞』1996年6月28日西部朝刊第一社会面27頁「名護の女子中学生拉致、きょうにも公開捜査/沖縄県警」(読売新聞西部本社)</ref>。}}を投入した<ref name="琉球新報1996-12-21">{{Cite news|title=女子中学生ら致事件から半年|newspaper=琉球新報|date=1996-12-21|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|author=|accessdate=2001-4-21|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010421161029/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|archivedate=2001年4月21日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。、事件発生から1週間後(1996年6月28日)、県警はは被害者Aの家族から了解を得て、本事件を公開捜査に切り替え、被害者Aの名前・顔写真・特徴などを公開した<ref name="朝日新聞1996-06-29">『朝日新聞』1996年6月29日西部朝刊第一社会面31頁「女子中学生拉致で公開捜査 沖縄県警、ポスター配布へ【西部】」([[朝日新聞西部本社]])</ref>。


特別捜査本部長を務めた県警刑事部長の久高常良は6月27日、記者会見で「初動捜査の在り方に問題はなかったか」との問いに対し、「目撃者の通報後、直ちに緊急配備を敷いており、立ち上がりに問題はない」と回答した<ref name="沖縄タイムス1996-06-28"/>。また、久高ら捜査幹部は、『[[琉球新報]]』記者からの取材に対し、「犯人が事件後、中南部(人目が多く、夕方の渋滞に巻き込まれやすい市街地方面)に逃走した可能性は低い」と説明したが<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、久高は1997年1月3日に記者会見で「限られた人員・地理的な状況を踏まえ、『早い時間に大宜味村津波を押さえれば、包囲網が敷ける』と判断して検問を張ったが、結果的に加害者2人は配備前に検問場所を通過していた可能性が高い」と説明した<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。『[[週刊文春]]』 (1997) は、県警担当の[[社会部]]記者の「事件発生後の緊急配備がもう少し早かったらAちゃんは救い出せた可能性が高い」という証言を報道している{{Sfn|週刊文春|1997|p=39}}。また、[[惠隆之介]] (2013) は、「県警は『(本島北部で発生した)本事件は犯人が被害者を連れ、車で本島中部に南下するだろう』と推測して名護市内に非常線を張ったが、実際には被害者は拉致現場よりさらに北方の山中で殺害されていた」と述べている{{Sfn|惠隆之介|2013|p=103}}。
=== 捜索活動 ===
被害者Aの父親は事件後、毎日のように自身で車を運転して県内を探し回った{{Efn2|被害者Aの父親は1996年11月初め、勤務先に休職願を提出して捜索を続けていた<ref name="朝日新聞1996-12-21"/>。}}ほか<ref name="朝日新聞1996-12-21">『朝日新聞』1996年12月21日西部朝刊第一社会面29頁「親と警察、執念の捜索 沖縄の女子中学生拉致から半年 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、捜査本部設置と同じ23日には市民対策本部が設置され<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、事件直後には中学校の[[PTA]]関係者・近隣住民らもAを徹夜で捜索した<ref name="読売新聞1996-06-23">『読売新聞』1996年6月23日西部朝刊第一社会面27頁「女子中学生いぜん不明 400人が徹夜の捜索/沖縄・名護」(読売新聞西部本社)</ref><ref name="経過"/>。また、[[沖縄県知事]](当時は[[大田昌秀]])による捜査への協力呼びかけもあり{{Efn2|当時、知事による事件の捜索への協力の呼び掛けは異例だった<ref name="琉球新報1996-07-12">{{Cite news|title=全県で一斉捜索 女子中学生ら致事件|newspaper=琉球新報|date=1996-07-12|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960712je.htm|author=|accessdate=2000-05-30|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000530191705/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960712je.htm|archivedate=2000年5月30日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref name="朝日新聞1996-07-13">『朝日新聞』1996年7月13日西部朝刊第一社会面27頁「『Aさんどこに』2万人捜索 沖縄・名護の拉致事件 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}、ヘリコプター・ダイバーによる山・海の捜索や{{Efn2|県警は「車は海に投棄された可能性もある」として、沖縄本島周辺の海域を魚群探知機で調べたほか、フェリーもくまなく調べた<ref name="朝日新聞1996-12-21"/>。}}{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=68}}、住民20,000人による県内一斉捜索{{Efn2|県内各地の一斉捜索は7月12日・21日の2回にわたり行われ<ref name="琉球新報1996-07-12"/><ref name="朝日新聞1996-07-13"/>、在日米軍の[[北部訓練場]]<ref name="朝日新聞1996-07-22">『朝日新聞』1996年7月22日朝刊第一社会面27頁「2度目の一斉捜索実らず 沖縄・名護中学生拉致 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>および、[[キャンプ・シュワブ]]も捜索対象となった<ref name="経過"/>。}}も行われたが<ref name="琉球新報1996-07-12"/>、事件の手掛かりはつかめなかった{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=68}}。


=== 犯人像についての捜査 ===
一方、県警は犯行に使用された車両(白いワゴン車)や、[[前科]]・[[非行]]歴のある人物について調べ続け<ref name="琉球新報1996-12-21"/><ref>{{Cite news|title=女子中学生ら致事件、有力手掛かりなし  発生から5カ月|newspaper=琉球新報|date=1996-11-22|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961122je.htm|author=|accessdate=2000-06-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000610051733/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961122je.htm|archivedate=2000年6月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、7月5日に<ref group="注" name="7月5日"/><ref name="中日新聞1997-01-03"/>辺戸岬付近で、ナンバープレートが取り外されたワゴン車を発見した{{Efn2|この車は茂みに隠すように放置されており、中で飲食した形跡があるなど不審な点が多かったが、被害者Aの指紋は検出されなかったため<ref name="朝日新聞1997-01-03"/>、県警はこの車について発見当初は「車内の遺留品・車両鑑定などの結果からすれば本事件との関連性は薄い」との見解を示していたが<ref>{{Cite news|title=女子中学生ら致事件 辺戸岬で発見の車両は事件と無関係|newspaper=琉球新報|date=1996-07-06|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960706ja.htm|author=|accessdate=1999-10-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19991010125807/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960706ja.htm|archivedate=1999年10月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、その後も本事件との関連を調べ続けていた<ref name="琉球新報1996-12-21"/>。}}<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。その車内の遺留品・指紋などから、X・Yの2人が浮上し、[[那覇警察署]]は同年7月18日に2人を窃盗(ワゴン車を盗んだ容疑)で全国に[[指名手配]]<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。被疑者Xの実家があった種子島([[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[中種子町]])に捜査員を派遣するなどして捜査していた<ref name="毎日新聞1997-01-03 西部朝刊"/>。
拉致現場を目撃した住民の証言によれば、男はいずれも20歳前後の日本人とみられる人物で<ref name="沖縄タイムス1996-06-22"/>、第一報では「1人は緑色の七分のズボンを、もう1人は白の上着とカーキ色の作業ズボンをそれぞれ着用していた」とされていたが、服装に関しては後に「1人は緑色の上着に青の短いズボンを、もう1人は緑の半袖シャツにジーンズの半ズボンを着用していた」と訂正された{{Sfn|週刊文春|1996|pp=32-33}}。犯人に関する情報は、その犯行時の服装に関する情報を除くと、「1人は身長160 - 170&nbsp;[[センチメートル|cm]]程度で、色は浅黒く、中肉」という情報だけで、人相など身体的特徴に関しては全く手掛かりはなかった<ref name="琉球新報1996-08-21"/>。このため、被疑者の[[フォトモンタージュ|モンタージュ写真]]は作成できなかった<ref name="沖縄タイムス1996-08-21"/>。


実際の犯人(YおよびU)は、いずれも本土から流れてきた人間だったが{{Sfn|FOCUS|1997|p=16}}、犯人像について、県警は当初「近所のチンピラの犯行」と睨んで捜査しており、地元住民たちも犯人や犯行車両をその線で捜索していた<ref name="週刊新潮1997-01-16"/>。犯人は当初から、日本人風の男とされていたが{{Sfn|AERA|1996|p=16}}{{Sfn|週刊新潮|1996|p=129}}、当時の沖縄は、前年(1995年)9月に発生した[[沖縄米兵少女暴行事件|米兵による少女暴行事件]]の記憶が生々しく、県民の[[在日米軍]]に対する感情が悪化していたことから、「アジア系の顔をした米兵ではないか?」という見方をする市民もいた{{Sfn|週刊新潮|1996|p=129}}。一方、米軍基地の敷地内は[[日米地位協定]]により、米国の排他的管理権が認められているため、[[日本の警察]]は[[アメリカ合衆国]]側の同意がなければ立ち入ることができず<ref>{{Cite news|title=<社説>米軍属再逮捕 基地内の捜査権を認めよ|newspaper=琉球新報|date=2016-06-10|url=https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-295301.html|accessdate=2020-06-07|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607160129/https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-295301.html|archivedate=2020年6月7日}}</ref>、名護市の近隣に位置する[[宜野座村]]や[[金武町]]は、7月21日の一斉捜索を控え、それぞれ米軍側に[[キャンプ・ハンセン]]や、米軍の訓練場2か所([[金武ブルー・ビーチ訓練場|ブルービーチ]]、[[ギンバル訓練場|ギンバル]])への立ち入り捜索許可を求めたが、いずれも認められなかった<ref name="沖縄タイムス1996-07-20"/>。また、名護市も[[キャンプ・シュワブ]]や[[北部訓練場]]の内部の捜索を申請したが、後者は1時間しか許可されなかった<ref name="沖縄タイムス1996-07-20">『沖縄タイムス』1996年7月20日朝刊第1版第一社会面31頁「【北部】女子中学生ら致事件 ハンセンなどへの捜索 米軍が「不許可」回答 北部訓練場は1時間だけ」(沖縄タイムス社)</ref>。このことを踏まえ、『[[AERA]]』([[朝日新聞出版|朝日新聞社出版本部]])編集部の長谷川熙は、事件解決前に、「目撃証言では『犯人は日本人風』とされており、米軍基地との関連は不明だが、沖縄県警は米軍基地を『[[治外法権]]下』と拡大解釈して初めから自己規制し、米軍基地をことさら腫れもの扱いすることで、基地への捜査の努力を放棄している」と指摘していた{{Sfn|AERA|1996|p=16}}。一方、久高は[[外国人犯罪|外国人による犯行]]説について、否定的な考えを示していた<ref name="琉球新報1996-07-23">『琉球新報』1996年7月23日朝刊第1版第一社会面21頁「女子中学生ら致事件 久高特捜本部長 県内潜伏の可能性高い 北部中心に聞き込み」(琉球新報社)</ref>。
=== 事件解決 ===
県警側はその後も、「(本事件の)加害者が県外へ逃走したとは考えられない」として捜査していたが<ref name="経過"/>、加害者XはYと別れてからも野宿を続けながら<ref name="琉球新報1997-01-24"/>、[[九州]]・[[中国地方]]を転々とした{{Efn2|1996年8月下旬に那覇からフェリーで鹿児島へ渡り、[[広島県]]・[[岡山県]]・[[香川県]]を転々とした<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。}}。しかし、やがて逃走に疲れたことに加え<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、同年末に種子島へ帰郷したところ「刑事が調べに来た」と言われ、「もう逃げられない」と出頭を決意<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。同年12月28日、Xは島内の中種子交番([[鹿児島県警察]]・[[種子島警察署]])へ出頭<ref name="毎日新聞1997-01-03 西部朝刊">『[[毎日新聞]]』1997年1月3日西部朝刊第一社会面「沖縄・女子中学生拉致事件 『逃げきれない』とX容疑者がやつれて出頭」([[毎日新聞西部本社]])</ref>。翌29日には<ref name="経過">『読売新聞』1997年1月3日西部朝刊第一社会面31頁「女子中学生殺人事件経過」([[読売新聞西部本社]])</ref>、那覇署へ身柄を移送され、同容疑で逮捕された<ref name="経過1997-04-24"/>。Xは沖縄県警の取り調べに対し、1996年12月31日に「被害者Aを強姦後に絞殺し、山中に遺棄した」と供述したため、[[1997年]](平成9年)1月1日に県警が捜査員100人を動員し、Xの自供した現場の山中を捜索したところ、被害者Aの遺体や、遺留品(制服・タオル・教科書などが入ったリュックサック)が発見された{{Efn2|遺体は事件当時に着ていたバレーボール部のユニフォーム姿で、遺留品は遺体発見現場から約800&nbsp;[[メートル|m]]離れた林道付近で発見された<ref name="中日新聞1997-01-03"/>。}}<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。このため、沖縄県警は1月3日にX・Y両被疑者について、殺人・死体遺棄容疑で逮捕状を取り<ref name="読売新聞1997-01-03"/>、同日中に被疑者Xを同容疑で再逮捕した{{Efn2|Xは同月5日に那覇地検へ[[送致#送検|送検]]された<ref name="琉球新報1997-01-06">{{Cite news|title=X容疑者を送検  女子中学生ら致殺害事件|newspaper=琉球新報|date=1997-01-06|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970106ja.htm|author=|accessdate=2000-09-25|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000925065655/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970106ja.htm|archivedate=2000年9月25日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。}}ほか、残る加害者Yを殺人容疑などに切り替えて指名手配した<ref name="中日新聞1997-01-04">『中日新聞』1997年1月4日朝刊第二社会面30頁「元建設作業員、殺人で再逮捕 沖縄の女子中学生殺害」(中日新聞社)</ref>。取り調べに対し、被疑者Xは「Yと2人で女性を連れ去ることを計画し、偶然見かけた被害者Aの後をつけた」「(拉致したことが)発覚することを恐れて殺した」と供述し{{Efn2|このほか、被疑者Xは「被害者Aが逃げようとしたので、逃げないように紐を首に巻いていたら死亡した」と供述した<ref>{{Cite news|title=県警、共犯の逮捕急ぐ  女子中学生ら致殺害事件|newspaper=琉球新報|date=1997-01-04|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970104je.htm|author=|accessdate=2000-09-25|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000925065701/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970104je.htm|archivedate=2000年9月25日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。}}、容疑を全面的に認めた<ref name="中日新聞1997-01-04"/>。


また、目撃者がいても意に介さない大胆な犯行手口から、「犯人は[[東南アジア]]方面の[[人身売買]]の国際的な誘拐団で、日本人少女を誘拐するため、最初から緻密な計画を練り、逃走経路を確保した上で犯行におよんだ。犯人グループは犯行直後、船で日本を脱出し、車は日本国内の協力者に処分させた」という見方もされていた{{Sfn|宝島|1996|p=35}}。
加害者Yは、Xと別れてからも県内を逃亡し続けていたが{{Efn2|Yは那覇市内の港湾会社で数日間偽名を用いて働いていたほか、Xの逮捕・遺体発見をラジオで聞いて知った<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。}}、1997年1月11日夜に[[浦添市民球場]]([[浦添市]])のベンチで寝ているところを発見・[[職務質問]]され、犯行に使用された車両と指紋が一致したことから、翌12日に[[名護警察署]]に殺人・死体遺棄などの容疑で逮捕された<ref name="中日新聞1997-01-13">『中日新聞』1997年1月13日朝刊第一社会面27頁「中3女子殺害 手配の元作業員逮捕 沖縄県警 犯行状況など追及」(中日新聞社)</ref>。その後、[[那覇地方検察庁]]は1997年1月25日に[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄罪]]などの罪で、被疑者Xを[[那覇地方裁判所]]へ[[起訴]]したほか<ref name="X起訴">『朝日新聞』1997年1月26日西部朝刊第一社会面31頁「沖縄・名護の中学生殺害で容疑者を起訴 那覇地検【西部】」([[朝日新聞西部本社]])</ref>、被疑者Yに関しても2月2日に殺人・死体遺棄など5つの罪で起訴した<ref name="Y起訴">{{Cite news|title=Y容疑者を起訴  女子中学生ら致殺害事件|newspaper=琉球新報|date=1997-02-03|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970203ja.htm|author=|accessdate=2001-02-18|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010218004613/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970203ja.htm|archivedate=2001年2月18日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。2月3日、特別捜査本部は解散<ref name="経過1998-03-17">『沖縄タイムス』1998年3月17日夕刊第2版第二社会面6頁「女子中学生ら致殺害事件経過」(沖縄タイムス社)</ref>。投入された捜査員の総数は、延べ148,000人に上った<ref name="経過1997-04-24">『沖縄タイムス』1994年4月24日夕刊第2版第二社会面6頁「女子中学生ら致事件経過」(沖縄タイムス社)</ref>。

=== 公開捜査 ===
名護署は事件当時、目撃証言から、「[[身代金]]目的誘拐の可能性もある」として捜査していたが、被害者Aの自宅には何の連絡もなかったため、拉致事件と断定<ref name="毎日新聞1996-06-22"/>。同署や県警[[刑事部|捜査一課]]は<ref name="読売新聞1996-06-23">『読売新聞』1996年6月23日西部朝刊第一社会面27頁「女子中学生いぜん不明 400人が徹夜の捜索/沖縄・名護」(読売新聞西部本社)</ref>、翌22日7時から、警察官180人、学校関係者や住民200人が{{Sfn|週刊文春|1996|p=30}}、本格的な捜索活動を開始<ref name="これまでの経過"/>。被害者Aの保護を第一に<ref name="琉球新報1996-06-23">『琉球新報』1996年6月23日朝刊第1版第一社会面23頁「本島北部のら致事件 女生徒は依然不明 県警、住民ら400人で捜索」(琉球新報社)</ref>、車両検問や、現場周辺での聞き込み捜査を行った<ref name="沖縄タイムス1996-06-22">『沖縄タイムス』1996年6月22日夕刊第2版第一社会面5頁「北部 女子中学生を車で連れ去る 自転車で帰宅途中 警察、住民ら徹夜で捜索」(沖縄タイムス社)</ref>。

また、県警は[[機動捜査隊]]や[[自動車警ら隊]]を投入したほか、本島中・南部でも検問・検索を実施し<ref name="琉球新報1996-06-22"/>、県内の[[モーテル]]・車が入れる山道などを重点的に捜索した<ref name="毎日新聞1996-06-22">『毎日新聞』1996年6月22日西部夕刊社会面「男2人がワゴン車で女子中学生を連れ去る--沖縄・名護市」(毎日新聞西部本社)</ref>。しかし、Aの発見・保護には至らず、事件2日後(6月23日)の21時、名護署に「女子中学生ら致事件[[捜査本部]]」を設置し、県警本部や各所から動員した150人を専従捜査員として配置<ref name="沖縄タイムス1996-06-24">『沖縄タイムス』1996年6月24日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致で県警 捜査本部を設置」(沖縄タイムス社)</ref>。24日には、[[鹿児島県警察]]から応援のヘリコプターが駆けつけ、本島全域や離島([[伊江島]]・[[伊是名島]]・[[伊平屋島]]など)の上空から捜索を行った<ref name="沖縄タイムス1996-06-25">『沖縄タイムス』1996年6月25日朝刊第1版第一社会面19頁「【北部】女子中学生ら致事件 依然、有力情報なし」(沖縄タイムス社)</ref>。

周辺道路で実施された検問に犯行車両が引っかからなかったことから、県警は事件後、しばらくは「犯人は沖縄本島北部の捜査網の中にいる」として<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、本島北部に重点を置いて捜索した<ref name="沖縄タイムス1996-06-27夕刊">『沖縄タイムス』1996年6月27日夕刊第2版第一社会面7頁「女子中学生ら致 1週間 地域に動揺広がる 捜索範囲 本島全域に」(沖縄タイムス社)</ref>。しかし、県警が参考人として多数の若者を事情聴取し<ref name="週刊新潮1997-01-16"/>、地元住民を含めた捜索を行っても、手掛かりは得られなかったため<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、6月25日には捜索範囲を本島中部にも拡大した<ref name="沖縄タイムス1996-06-26">『沖縄タイムス』1996年6月26日朝刊第1版第一社会面23頁「【北部】女子中学生ら致事件 千人がかりで捜索 中部にも範囲広げる」(沖縄タイムス社)</ref>。

事件6日後(6月27日)、県警は全県を捜索対象とした<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>。そして同日、捜査体制を強化するため、捜査本部を、先島([[宮古島警察署|宮古島署]]・[[八重山警察署|八重山署]])を除く本島11の警察署や、県警本部の捜査員らによって構成される特別捜査本部(以下「特捜本部」、本部長:久高常良)に格上げした上で、専従捜査員も150人から650人<ref name="沖縄タイムス1996-06-28">『沖縄タイムス』1996年6月29日朝刊第1版第一社会面27頁「女子中学生ら致事件 県警 公開捜査の方針 650人に体制強化 「少女の保護に重点」」(沖縄タイムス社)</ref>(県警職員の4分の1)に増員した<ref name="琉球新報1996-12-21"/>。県警は同時に、各警察署にも「女子中学生ら致事件対策室」を設置し、特捜本部と連携を図りながら、本島全域でAの保護や、犯行車両の発見に全力を挙げた<ref name="沖縄タイムス1996-06-28"/>。また、被害者Aの名前・顔写真・特徴などについては<ref name="朝日新聞1996-06-29">『朝日新聞』1996年6月29日西部朝刊第一社会面31頁「女子中学生拉致で公開捜査 沖縄県警、ポスター配布へ【西部】」([[朝日新聞西部本社]])</ref>、Aの人権や、犯人を刺激する危険性に配慮し、当初は非公開で捜査を続けていたが<ref>『沖縄タイムス』1996年6月29日朝刊第1版第二社会面24頁「乏しい情報に焦り 久高特捜本部長に聞く 車両捜査に最重点 相当数ある「ワンボックス」」(沖縄タイムス社)</ref>、捜査に進展が見られないまま1週間以上が経過したことから、特捜本部はAの家族から同意を得た上で、同月28日(事件発生から8日目)の15時、公開捜査に踏み切った<ref name="沖縄タイムス1996-06-29">『沖縄タイムス』1996年6月29日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致事件 発見 保護に全力 県警が公開捜査 情報の提供呼び掛け」(沖縄タイムス社)</ref>。当時、県警が刑事事件で、600人規模の特捜本部を設置したことや、被害者の顔写真や氏名を公表する公開捜査を行ったことは、いずれも極めて異例のことで{{Efn2|name="公開捜査"|従来の公開捜査は、指名手配被疑者の場合がほとんどだったという<ref name="沖縄タイムス1996-06-29"/>。また、『沖縄タイムス』は「650人の捜査体制は、県警史上例のない大量動員だった」と報じている<ref name="沖縄タイムス1996-08-21"/>。}}<ref name="沖縄タイムス1996-06-28"/><ref name="沖縄タイムス1996-06-29"/>、翌29日にはAの顔写真や、犯行車両の特徴などを記したポスター10,000枚が、人が集まる場所(商店街・給油所・病院・銀行など)に貼り出された<ref name="沖縄タイムス1996-06-29夕刊">『沖縄タイムス』1996年6月29日夕刊第2版第一社会面5頁「女子中学生ら致事件 警察官1700人一斉捜索 新たに27件の情報 捜査本部「糸口になれば」」(沖縄タイムス社)</ref>。さらに7月1日には、Aの所持品の類似品(制服や体操着など)を公開した<ref name="沖縄タイムス1996-07-02">『沖縄タイムス』1996年7月2日朝刊第1版第一社会面19頁「【名護】女子中学生ら致事件 特別捜査本部 制服や体操着を公開 所持品など説明」(沖縄タイムス社)</ref>。公開捜査開始後、特捜本部には7月11日8時までに、県内外から328件の情報(主に犯行車両に関する情報)が提供されたが、これでも決定的な手掛かりは得られず、県警内部からは「情報量そのものが少ない」という指摘もされていた<ref name="琉球新報1996-07-12社会">『琉球新報』1996年7月12日朝刊第1版第一社会面31頁「女子中学生ら致事件 発生から3週間 解決の糸口、依然見えず 車両の特定急ぐ 県警、情報の減少を懸念」(琉球新報社)</ref>。

[[名護市消防本部]]も名護漁港近海や、A宅付近の「内原ダム」でダイバーによる水中での捜索活動や<ref name="沖縄タイムス1996-06-30">『沖縄タイムス』1996年6月30日朝刊第1版第一社会面23頁「【名護】女子中学生ら致事件 内原ダムを水中捜索 最大動員、手掛かりなく 主婦グループがビラ配りに参加」(沖縄タイムス社)</ref>、名護市内(天仁屋・[[辺野古]]・[[為又]]など)にある農業用ダム15か所などでゴムボートを用いた捜索活動を行ったり<ref>『琉球新報』1996年7月14日朝刊第1版第一社会面27頁「【名護】名護署と市消防 農業用ダム15ヵ所調べる」(琉球新報社)</ref>、[[本部町今帰仁村消防組合]]との合同で、[[運天港]]・湧川マリーナ近海の捜索を実施したりした<ref name="琉球新報1996-07-04"/>。遺体発見現場となった国頭村の林道沿いの山中も、県警の[[機動隊]]・白バイ隊や<ref name="祈り届かず1"/>、地元住民、市民対策本部が何度も捜索を行っていたが、林道沿いの崖に密生する[[ススキ]]や、広大な森林に阻まれ、車両からの捜索が中心となっていた<ref name="砕かれた願い1"/>。この林道について、同現場に近い国頭村奥の地区長は「普段から人が通らない場所だから、地元住民が何度も重点的に捜索していたが、(捜索した当時は)ススキと藪に阻まれて何も発見できなかった」と<ref name="週刊新潮1997-01-16"/>、『週刊文春』から取材を受けた社会部記者も「(遺体は)生い茂ったススキに埋もれて道からは見えなかった」と、それぞれ述べている{{Sfn|週刊文春|1997|p=38}}。

=== 民間の捜索活動 ===
事件発生直後の20時30分、一部学校関係者が徹夜で捜索を開始し、翌22日7時以降、学校関係者が本格的に捜索活動を行った<ref name="これまでの経過">『琉球新報』1996年6月23日第1版第二社会面24頁「新たな展開願う 住民も懸命の捜索 これまでの経過」(琉球新報社)</ref>。地元住民中学校の[[PTA]]や地元住民<ref name="沖縄タイムス1996-06-22"/>、同級生らも捜索活動に加わった<ref name="琉球新報1996-06-23"/>。

発生2日後の6月23日21時、地元に市民対策本部が正式に設置され{{Efn2|設置当初、本部は中学校に設けられていたが、事件から3日後に名護市役所羽地支所内に移転した<ref name="砕かれた願い4">『沖縄タイムス』1997年1月7日朝刊第2版第一社会面19頁「砕かれた願い 女子中学生ら致殺害事件 <4> 地元 徹夜の捜索報われず」(沖縄タイムス社)</ref>。}}<ref name="これまでの経過"/>、以降約1か月間で33,800人の市民が捜索活動に参加<ref name="祈り届かず6"/>。防災無線で捜索への協力が呼び掛けられ、自治会やPTA{{Efn2|羽地中のPTAは同年9月、臨時総会でAの救出のため、捜査の強化を求める要望書を採択し、名護署に提出した<ref name="砕かれた願い4"/>。}}関係者、自治体職員らが巡回活動を展開した<ref>『琉球新報』1996年6月24日朝刊第1版第一社会面21頁「女子中学生ら致事件 県警が捜査本部設置 依然有力な手掛かりなし」(琉球新報社)</ref>。当初の参加者数は約800人だったが、次第に各地から協力者が加わり<ref name="沖縄タイムス1996-06-27夕刊"/>、沖縄県教育長の仲里長和が臨時記者会見で、県民に捜査への協力を求めるコメントを発した6月25日には<ref name="仲里県教育長">『琉球新報』1996年6月26日朝刊第1版第一社会面25頁「仲里県教育長 県民へ捜査協力呼び掛け」(琉球新報社)</ref>、地元住民約1,000人が大捜索を展開<ref name="沖縄タイムス1996-06-28速報"/>。26日には1,400人以上で、県内全域の捜索が実施され<ref name="沖縄タイムス1996-06-27夕刊"/>、公開捜査が開始された28日には、早朝から名護市民約3,000人が、市内55の集落で一斉捜索を実施した<ref name="沖縄タイムス1996-06-29"/>。以降、同月30日(日曜日)まで、8日連続で1,000人以上の市民による捜索活動が展開され<ref>『琉球新報』1996年7月1日朝刊第1版第一社会面25頁「【名護】女子中学生ら致事件 8日連続 千人が大捜索 県警 北部全域で車両チェック 以前有力手掛かりなし」(琉球新報社)</ref>、市民たちは連日気温が30度を超える炎天下で、朝9時ごろから夜19時過ぎまで捜索活動を続けた{{Sfn|週刊文春|1996|p=32}}。NTTは捜索現場と市民対策本部の連絡用に、携帯電話10台を供与した{{Sfn|週刊文春|1996|p=32}}。

捜索場所は、サトウキビ畑、空き家、倉庫<ref name="沖縄タイムス1996-06-28夕刊">『沖縄タイムス』1996年6月28日夕刊第1版朝刊第一社会面7頁「【北部】女子中学生ら致事件 総出の捜索 不安募る 「無事でいてほしい」 住民ら祈り込め、必死 北部」(沖縄タイムス社)</ref>、草むら、排水路<ref>『沖縄タイムス』1996年6月24日夕刊第1版第一社会面5頁「【北部】北部の女子中生ら致 手掛かりつかめず 懸命の捜索続く」(沖縄タイムス社)</ref>、山中、小さな路地<ref>『琉球新報』1996年6月24日夕刊第1版第一社会面7頁「【北部】女子中学生ら致事件 「無事でいて」 警察、地域の捜索続く」(琉球新報社)</ref>、本島の東西双方の海岸(辺戸岬以南)<ref>『琉球新報』1996年7月11日朝刊第2版第一社会面7頁「【名護】女子中学生ら致事件 70人の市民が本部半島を捜索」(琉球新報社)</ref>などにおよび、ゴミ袋や放置物なども調べられた<ref name="沖縄タイムス1996-06-28夕刊"/>。また、捜索への協力を呼び掛けるビラ配り<ref name="琉球新報1996-06-26">『琉球新報』1996年6月26日朝刊第1版第一社会面25頁「【名護】中学生ら致事件 海、山へ1000人懸命の捜索 近隣市町村、応援広がる 炎天下「わが子と思い…」」(琉球新報社)</ref><ref name="沖縄タイムス1996-06-29夕刊"/><ref name="沖縄タイムス1996-06-30"/>、ポスターの配布といった活動や<ref>『琉球新報』1996年6月30日朝刊第1版第一社会面27頁「【名護】女子中学生ら致事件 捜索の輪 全島に 住民1100人ポスター配布 きょうで10日 中南部でも呼び掛け」(琉球新報社)</ref>、釣り船による海の捜索<ref name="琉球新報1996-07-09夕刊">『琉球新報』1996年7月9日夕刊第2版第一社会面7頁「【名護】女子中学生ら致事件 海、陸から捜索 新たに海上班編成」(琉球新報社)</ref>、キャンプ・シュワブの黙認耕作地一帯<ref>『沖縄タイムス』1996年7月15日夕刊第2版第一社会面7頁「【名護】中学生ら致 黙認耕作地一帯も捜索」(沖縄タイムス社)</ref>、そして北部訓練場内の捜索も行われた<ref name="沖縄タイムス1996-07-22"/>。仕事を休んで捜索に協力する住民も多く<ref>『琉球新報』1996年6月28日夕刊第1版第一社会面7頁「女子中学生ら致事件 県警、公開捜査へ 県民に協力呼び掛け 住民、仕事休み捜索参加」(琉球新報社)</ref>、中には、出勤扱いで捜索に協力した地元企業もあった<ref name="砕かれた願い4"/>。このような市民による捜索活動に対し、情報提供を求めるポスターのコピー代のカンパや、飲み物などの差し入れも多く寄せられた{{Sfn|週刊文春|1996|p=32}}。

沖縄県教育庁は同月2日、沖縄県教職員組合(沖教組)からの要請を受け、県人事委員会の承認を得た上で、「捜索活動への自発的意思に基づく協力は、人道的見地からも有意義なもの」として、捜索活動に協力する教職員について、職務に専念する義務を免除し勤務扱いとする「職専免」を適用することを決定した<ref name="琉球新報1996-07-04">『琉球新報』1996年7月4日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生ら致事件 各地で懸命の取り組み 県教育庁 「職専免」適用を決定 発見、救出を最優先に」「【北部】ダイバー動員も手掛かりはなし 運天港、湧川マリーナ」(琉球新報社)</ref>。これは、北部地域の学校教職員らが捜索活動に追われるようになったことを受け、その動きを全県に広げるための措置だった<ref name="琉球新報1996-07-04"/>。県も同月5日、同様に捜索活動に参加する県職員を「職専免」の対象とすることを決め<ref>『琉球新報』1996年7月5日朝刊第1版第一社会面21頁「県職員の捜査協力は職専免 県教育庁に続き」(琉球新報社)</ref>、市町村会の呼び掛けにより、名護市以外にも国頭郡([[恩納村]]・[[本部町]]<ref name="沖縄タイムス1996-07-05"/>・[[今帰仁村]]<ref>『琉球新報』1996年7月3日朝刊第1版第一社会面23頁「【今帰仁】女子中学生ら致事件 今帰仁で大捜索 日没まで懸命に」(琉球新報社)</ref>)、沖縄市<ref>『沖縄タイムス』1996年7月4日夕刊第2版第一社会面7頁「【沖縄】中学生ら致事件 沖縄市が200人動員 空き家、駐車場など捜索」(沖縄タイムス社)</ref>、宜野湾市<ref>『琉球新報』1996年7月5日夕刊第2版第一社会面7頁「【名護】女子中学生ら致事件 捜索隊に焦りと疲労 屋我地、羽地北側を捜す」(琉球新報社)</ref><ref>『沖縄タイムス』1996年7月6日朝刊第1版第一社会面31頁「【宜野湾】宜野湾市でも市民らが捜索」(沖縄タイムス社)</ref>、那覇市<ref>『沖縄タイムス』1996年7月8日朝刊第1版第一社会面19頁「女子中学生ら致事件 一日も早く親元に 各地で捜索、ビラ配り」(沖縄タイムス社)</ref><ref>『琉球新報』1996年7月9日朝刊第1版第一社会面21頁「那覇 少女発見に協力願い 県職員がチラシ配布」(琉球新報社)</ref>、浦添市<ref name="琉球新報1996-07-09夕刊"/><ref>『琉球新報』1996年7月10日夕刊第2版第一社会面7頁「【浦添】女子中学生ら致事件 市内を重点捜索 浦添市 職員288人を動員」(琉球新報社)</ref>、[[中頭郡]]([[西原町]]<ref>『琉球新報』1996年7月8日朝刊第1版第一社会面21頁「【西原】女子中学生ら致事件 「人ごとではない」 西原町民250人が捜索活動」(琉球新報社)</ref>・[[与那城町]]<ref>『琉球新報』1996年7月4日朝刊第1版第一社会面25頁「与那城 役場職員ら70人 海岸など捜す」(琉球新報社)</ref>)、[[島尻郡]]([[南風原町]]<ref>『沖縄タイムス』1996年7月9日朝刊第1版第一社会面21頁「【南風原】南風原でも捜索 町民ら500人動員」(沖縄タイムス社)</ref>・[[知念村]]・[[東風平町]]<ref>『沖縄タイムス』1996年7月10日朝刊第1版第一社会面23頁「【知念】知念、東風平でも住民らが捜索」(沖縄タイムス社)</ref><ref>『琉球新報』1996年7月10日朝刊第1版第一社会面27頁「【知念】女子中学生ら致事件 知念、東風平でも住民らが捜索 住民、役場職員ら330人参加」(沖縄タイムス社)</ref>・[[豊見城市|豊見城村]]<ref>『沖縄タイムス』1996年7月17日朝刊第1版第一社会面23頁「【豊見城】豊見城でも400人が捜索」(沖縄タイムス社)</ref>)、[[糸満市]]<ref>『琉球新報』1996年7月17日夕刊第1版第一社会面7頁「【糸満】糸満市役所 市内全域を職員180人が捜索」(琉球新報社)</ref>、そして遺体発見現場となった国頭村<ref name="沖縄タイムス1996-07-06夕刊">『沖縄タイムス』1996年7月6日夕刊第2版第一社会面5頁「【北部】女子中生ら致事件 [[名桜大学|名桜大]]や役場職員も捜索ボランティアに」(沖縄タイムス社)</ref><ref>『琉球新報』1996年7月7日朝刊第1版第一社会面25頁「【北部】中学生ら致事件 一刻も早く、無事に 国頭村では山狩り」(琉球新報社)</ref>などでも、一般市民や自治体職員らによる捜索活動が展開された。このほか、事件現場に近い[[名桜大学]]の職員・学生や<ref name="沖縄タイムス1996-07-06夕刊"/>、「沖縄子ども会育成連絡協議会」<ref>『沖縄タイムス』1996年7月17日朝刊第1版第一社会面23頁「名護少女ら致事件 沖縄子ども会育成連 無事願いチラシ配布」(沖縄タイムス社)</ref>、県出店事業組合<ref>『沖縄タイムス』1996年7月18日朝刊第2版第一社会面21頁「【沖縄】県出店事業組合 沖縄市で「人ごとではない」と組合員90人が海岸捜索」(沖縄タイムス社)</ref>なども、近隣の捜索や、市民へのチラシ配布などの活動を行った。

このように、地元住民による熱心な捜索活動が繰り広げられた背景について、『[[週刊文春]]』 (1996) は1人の地元住民の声を取り上げ、「1994年12月、名護市内で幼児3人が行方不明になり、約20日後に散水車のタンク内から遺体で発見された“タンク事件”があった。この事件の際、約7,000人の市民が自主的に捜索活動に参加し、今回と同様に広範囲で捜索を行ったが、遺体は子供たちの自宅の至近距離に放置されていた散水車から発見された{{Efn2|当時、約6,000人態勢での捜索が実施されたが、タンクに入ったことを想定して捜索した人物はおらず、結果的に偶然タンクを使おうとした市民によって遺体が発見された<ref>{{Cite news|title=深読み 子どもが一瞬であなたの前から消えるワケ|newspaper=[[読売新聞オンライン]]|date=2018-03-13|url=https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20180309-OYT8T50025/3/|accessdate=2021-12-06|publisher=[[読売新聞社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210914125724/https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20180309-OYT8T50025/3/|archivedate=2021年9月14日}}</ref>。}}。この時の苦い経験から、市民は慎重に同じ場所を何度も捜索している」と{{Sfn|週刊文春|1996|p=32}}、『女性セブン』 (1997) は「沖縄に根強く残る『ゆういまる』(助け合う)の精神の影響」と報じている{{Sfn|女性セブン|1997|p=73}}。一方で山中を捜索する場合、一般市民だけでは遭難や[[ハブ (動物)|ハブ]]に襲われる危険性があるため、森林組合など山林事情に詳しい人物の協力を得て、道から目につく箇所を探す程度しかできなかったが、手掛かりがつかめないことに加え、7月以降はハブが産卵期に入り、危険性が増大することから、山中の捜索は困難を極めつつあった{{Sfn|週刊文春|1996|p=33}}。このことから、県民に対し、県外から「ハブによる被害を恐れて、本格的な山狩りをしなかったのではないか」という冷ややかな声も上がったが、遺体発見現場に近い国頭村奥の村民は、「山を知っている山原地区の人間なら、ハブは夜行性で昼間の捜索には邪魔にならないことを知っているはずだ」と述べている<ref name="週刊新潮1997-01-16">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|title=インシデント TEMPO 「ハブ」が邪魔をした「沖縄少女拉致」捜査|volume=42|date=1997-01-16|issue=2|publisher=[[新潮社]]|DOI=10.11501/3378957|id={{NDLJP|3378957/14}}|ISSN=0488-7484}} - 1997年1月16日号(通巻:第2087号)。</ref>。結局、1か月近くの大規模な捜索活動でも手掛かりは得られず、長引く捜索に対する市民たちの疲れもあって、捜索活動への参加者は徐々に減少していき、24時間体制を維持していた市民対策本部も、7月13日以降は当直を残して午前0時で待機を切り上げるようになった<ref>『沖縄タイムス』1996年7月19日朝刊第1版第一社会面29頁「女子中学生ら致から1カ月 「決め手」なく 続く捜索 疲労と不安 県警、車両特定に全力 地理に詳しい者の犯行か 父「無事信じる」」(沖縄タイムス社)</ref>。

=== 県内一斉捜索 ===
同年7月12日には、県内25の市町村<ref name="沖縄タイムス1996-07-13"/>(離島を含む県全域<ref name="琉球新報1996-07-12夕刊"/>)で、住民や教職員による県内一斉捜索が行われ、住民や教職員、自治体職員らが参加した<ref name="沖縄タイムス1996-07-13">『沖縄タイムス』1996年7月13日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致事件 2万人が大捜索 Aさんどこに 有力な手掛かり得られず」(沖縄タイムス社)</ref>。これは、県や県教育委員会などの主催で、同日に22市町村で開催された「青少年の深夜徘徊防止県民一斉行動」の住民大会に合わせて実施されたもので<ref name="沖縄タイムス1996-07-12"/>、住民大会が開催された22市町村以外でも、3町村で捜索活動が展開された<ref name="琉球新報1996-07-12夕刊"/>。その前日(同月11日)には[[沖縄県知事|県知事]]の[[大田昌秀]]が記者会見で県民に対し、捜索への協力を呼び掛けたが、事件に関連して全県一斉の捜索が行われることや<ref name="沖縄タイムス1996-07-12">『沖縄タイムス』1996年7月12日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致事件 きょう一斉捜索 知事が協力呼び掛け」(沖縄タイムス社)</ref>、知事が事件の捜索への協力を呼び掛けたことは、いずれも異例のことだった<ref name="琉球新報1996-07-12夕刊">{{Cite news|title=全県で一斉捜索 女子中学生ら致事件|newspaper=琉球新報|date=1996-07-12|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960712je.htm|author=|accessdate=2000-05-30|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000530191705/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960712je.htm|archivedate=2000年5月30日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref name="朝日新聞1996-07-13">『朝日新聞』1996年7月13日西部朝刊第一社会面27頁「『Aさんどこに』2万人捜索 沖縄・名護の拉致事件 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。

同日の捜索活動の参加人数は、公式発表では「25市町村で約25,000人」とされているが、対策本部長を務めた男性は「実際は、その数倍の人たちが協力してくれたはず」と述べている{{Sfn|女性セブン|1997|p=73}}。この大規模な捜索活動を受け、Aの両親は県民へのお礼や、犯人に対し「一刻も早く娘を返してほしい」と訴える内容の文書を書き、同月14日の「沖縄2紙」(『[[沖縄タイムス]]』および『琉球新報』)の朝刊にその文書が掲載された<ref>『沖縄タイムス』1996年7月14日朝刊第1版総合面1頁「【名護】女子中学生ら致事件 両親が直筆で訴え 「一刻も早く娘返して」」(沖縄タイムス社)</ref><ref>『琉球新報』1996年7月14日朝刊第1版第一社会面27頁「【名護】女子中学生ら致事件 「娘を私たちに帰して」 両親が苦悩の訴え 不安と焦りが交錯」(琉球新報社)</ref>。

事件発生から1か月目となる7月21日には、2度目の県内一斉捜索が行われた。これは、捜索に当たっていた市民の焦りや疲れが頂点に達していたことから、市民対策本部が「1つの節目」として、本島北部(12市町村)で改めて一斉捜索を行うことを検討したものだが<ref>『琉球新報』1996年7月17日朝刊第1版第一社会面25頁「【名護】女子中学生ら致事件 21日に一斉捜索 北部全域くまなく」(琉球新報社)</ref>、同月17日に緊急で開かれた北部市町村総務課長会議の結果、中南部にも協力を求め、それぞれの地域で一斉捜索を行うことが決まった<ref>『沖縄タイムス』1996年7月17日夕刊第2版第一社会面5頁「【名護】名護・女子中学生ら致 21日に一斉捜索」(沖縄タイムス社)</ref>。しかし、この日の捜索でも有力な手掛かりは得られず、名護市長の比嘉鉄也は同日、「組織的な捜索はきょうで打ち切り、今後は警察の捜査を見守りたい」と表明した<ref name="沖縄タイムス1996-07-22">『沖縄タイムス』1996年7月22日朝刊第1版第一社会面23頁「【北部】女子中学生ら致事件 無事祈り苦しい決断 自治体、住民の捜索活動は打ち切り なお手掛かりなく」(沖縄タイムス社)</ref>。これは、情報が得られない中で、市民対策本部が人員を確保し、組織立った捜索活動を継続することが困難になったためだった<ref>『琉球新報』1996年7月22日朝刊第1版総合面1頁「【名護】女子中学生ら致事件 米軍基地内を捜索 市民レベルでの活動休止へ」(琉球新報社)</ref>。7月22日までに、投入された捜査員は21,808人、捜索に参加した住民の人数は33,831人に上った<ref name="沖縄タイムス1996-07-23"/>。

その後も捜査の進展はなく、事件発生から2か月となる8月時点では{{Efn2|対策本部は8月12日以降、県内全域に「情報はがき」を配布し、情報提供を求めたが、返信は同月20日時点で2通しかなかった<ref name="沖縄タイムス1996-08-21"/>。}}、それまでに特捜本部に約840件の情報が提供されていたものの<ref name="琉球新報1996-08-22"/>、新たに寄せられる情報の件数は1日に1、2件程度に激減<ref>『沖縄タイムス』1996年8月20日朝刊第1版第一社会面21頁「少女ら致 発生から2カ月 いまどこに…焦り濃く」(沖縄タイムス社)</ref>。一方で8月ごろには、本島中南部から被害者であるAを無根拠に誹謗中傷するような憶測や噂も流れていた<ref name="琉球新報1996-08-22">『琉球新報』1996年8月22日朝刊第1版第一社会面23頁「消えた足跡 女子中学生ら致事件から2カ月 (下) 地元はいま 早急な保護願う日々 夏休み期間中も各地で捜索継続」(琉球新報社)</ref>。11月時点ではAの父親の同僚や、名護市職員、PTAらが交代しながら24時間体制で、情報提供を受け付けていたが、この時点では事件関連の情報は皆無になっていた<ref name="沖縄タイムス1996-11-21"/>。同年12月15日には、沖縄2紙の朝刊に、名護市民対策本部が「Aさんをすぐ帰して下さい。」という題名の特別広告を掲載<ref name="特別広告"/><ref name="特別広告2">『琉球新報』1996年12月15日朝刊特別広告面6頁「Aさんをすぐ帰して下さい。」「A、早く会いたい 羽地中学校三年 (Aが拉致される直前まで一緒に下校していた女子生徒の実名)」「一刻も早く解放を 父 (被害者Aの父親の実名)」(琉球新報社)</ref>。この広告は、協力への感謝と、今後の情報提供を呼び掛ける内容で<ref name="砕かれた願い4"/>、Aが拉致される直前まで一緒に下校していた女子生徒(甲)や、Aの父親がそれぞれ、以下のようなメッセージを寄せていた。
{{Quotation|〔A〕、〔甲〕だよ。早く会いたい。そして一緒に話して一緒に笑いたい。いっぱい話したいことあるから早く帰っておいで。|Aが拉致される直前まで一緒に下校していた女子生徒(甲)|<ref name="特別広告"/><ref name="特別広告2"/>}}
{{Quotation|犯人に対して言いたいことは、罪を犯していつまでも逃げとおすことはできません。(中略)あなた達にも家族がいるのであれば、私たちの気持ちが分ると思います。一刻も早く、〔A〕を解放して[[自首]]することをすすめます。|Aの父親|<ref name="特別広告"/><ref name="特別広告2"/>}}
Aは生前、動物好きで、獣医になることを夢見ていた{{Sfn|女性セブン|1997|pp=72-73}}。家族たちは、遺体発見までAの無事を信じ続け、事件前にAが可愛がっていた犬が家から姿を消して以降、「Aが帰ってきたときに寂しい思いをする」との考えから、新たに犬と猫を飼い始めていた{{Sfn|女性セブン|1997|pp=74-75}}。また、Aのクラスメートや、彼女が所属していた羽地中学校のバレーボール部員たちも、それぞれAの無事を祈っていた<ref>『沖縄タイムス』1996年7月24日朝刊第1版第一社会面23頁「【石垣】羽地中バレー部 ・コートの友情 ・それぞれの胸の内に メンバー表に「A」」(沖縄タイムス社)</ref><ref>『沖縄タイムス』1996年11月25日夕刊第1版第一社会面5頁「【名護】女子中ら致 羽地中「一緒に修学旅行を」 教師らが情報収集活動へ」(沖縄タイムス社)</ref>。

=== 2人を窃盗容疑で指名手配 ===
一方、県警は犯行に使用された車両(白いワンボックスカー)や、不審人物([[前科]]・前歴のある人物や[[非行少年]]、変質者など)について調べ続けた<ref>{{Cite news|title=女子中学生ら致事件、有力手掛かりなし  発生から5カ月|newspaper=琉球新報|date=1996-11-22|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961122je.htm|author=|accessdate=2000-06-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000610051733/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961122je.htm|archivedate=2000年6月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。前者(犯行車両)については、目撃証言に近い車種はトヨタ・ハイエースだったが<ref name="沖縄タイムス1996-07-14">『沖縄タイムス』1996年7月14日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中学生ら致事件 捜査進展なく壁に 発生から3週経過 県民挙げての大捜索/不安募る 提供情報も減少傾向」(沖縄タイムス社)</ref>、色や形状を問わず、車検の登録番号を基に、すべてのワゴンタイプの車を調査対象とした<ref name="琉球新報1996-07-12社会"/>。7月の第2週以降は、[[トヨタ自動車|トヨタ]]以外の他メーカーの車種である可能性も考慮し、調査対象台数を一万数千台増やしたが<ref name="沖縄タイムス1996-07-14"/>、その対象台数は、約80,000台に上った<ref name="沖縄タイムス1996-11-21">『沖縄タイムス』1996年11月21日夕刊第1版第一社会面7頁「名護市内の女子中ら致 5カ月になるが… Aさん 依然手掛かりなく」(沖縄タイムス社)</ref>。

調査対象の膨大さや、登録証だけでは形式や色の明確な区別ができないこともあって、特捜本部は全メーカーの同型車種を点検することを強いられ<ref>『琉球新報』1996年7月20日朝刊第1版第一社会面31頁「女子中学生ら致事件から1ヵ月 早く元気な顔見たい 無事信じ捜索に全力 依然手掛かりなく」(琉球新報社)</ref>、既に登録を抹消されているはずの車が使われ続けているケースや、車庫登録を他の市町村で行っている例が多いことも、確認作業の支障になっていたが<ref name="沖縄タイムス1996-07-14"/>、特捜本部は少しでも不審な点があった車(事件発生直後、検問や検索で職務質問を受けた車両など)を繰り返し調べ直すなど<ref name="琉球新報1996-08-21">『琉球新報』1996年8月21日朝刊第1版第一社会面23頁「消えた足跡 女子中学生ら致事件から2カ月 (中) 白いワゴン車 困難極める車両特定 県内登録6万台しらみつぶしに」(琉球新報社)</ref>、地道な捜査を続けた。結果、県内の陸運事務所に登録されていた類似車両約56,000台については、事件から1か月後の7月22日時点で、93%の確認を終え<ref name="琉球新報1996-07-23"/>、12月20日時点では、未確認の車両は約15台となっていた{{Efn2|県警は「車は海に投棄された可能性もある」として、本島周辺の海域を魚群探知機で調べたほか、フェリーもくまなく調べた<ref name="朝日新聞1996-12-21"/>。}}<ref name="琉球新報1996-12-21">{{Cite news|title=女子中学生ら致事件から半年|newspaper=琉球新報|date=1996-12-21|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|author=|accessdate=2001-4-21|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010421161029/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|archivedate=2001年4月21日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。また、後者(不審人物)に関する捜査でも、「拉致現場付近の建築工事現場で働いていた1人が、事件翌日から姿を消した」などの情報を把握<ref name="琉球新報1996-08-21"/>。約1,000人近くを事情聴取し、そのうち数人を有力な被疑者としてピックアップしたが、いずれもアリバイが確認されるなどしたため、捜査線上から消えた<ref name="琉球新報1996-12-21"/>。

難航する捜査の中で、特捜本部が「比較的有力」と見ていた車は、ワンボックス型の盗難車両2台だった<ref name="琉球新報1996-07-12社会"/>。そのうちの1つが<ref name="琉球新報1996-07-12社会"/>、6月25日に[[石川市]]石川(現:[[うるま市]]石川)で発見された白いワンボックスカーで<ref name="沖縄タイムス1996-06-26"/>、もう1台が、7月5日午前、辺戸岬近くの農道で発見され<ref name="沖縄タイムス1996-07-06">『沖縄タイムス』1996年7月6日朝刊第1版第一社会面31頁「【北部】中学生ら致事件 被疑車両?一時騒然 国頭村に放置、関連なし」(沖縄タイムス社)</ref><ref>{{Cite news|title=女子中学生ら致事件 辺戸岬で発見の車両は事件と無関係|newspaper=琉球新報|date=1996-07-06|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960706ja.htm|author=|accessdate=1999-10-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19991010125807/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960706ja.htm|archivedate=1999年10月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、後に犯行車両と判明した白いワンボックスカーである。特捜本部や、地元の対策本部はそれぞれ、車両番号・車両の特徴を記したビラを「緊急情報」として配布し、この2台の車の捜索を続けていた<ref name="琉球新報1996-07-12社会"/>。

後者のワンボックスカーは発見当時、ナンバープレートを取り外された状態で<ref name="読売新聞1997-01-03"/>、茂みに隠すように放置されていた<ref name="朝日新聞1997-01-03"/>。発見現場は、地元住民でもほとんど入らない農道の奥で、鬱蒼と草木が茂っていた<ref name="祈り届かず4"/>。単に盗んだ車を放置したにしては、念の入った隠匿工作がされていたことや<ref name="祈り届かず4"/>、中で飲食した形跡があることなど、不審な点が多くみられたため<ref name="朝日新聞1997-01-03"/>、特捜本部が鑑識を行うこととなり、名護市役所羽地支所に設置されていた対策本部も「被疑車両か?」と色めき立った<ref name="沖縄タイムス1996-07-06"/>。

しかし、県警は同日夜、この車について「事件との関連は薄い」との見解を示した<ref name="琉球新報1996-07-06">『琉球新報』1996年7月6日朝刊第一社会面29頁「【名護】女子中学生ら致事件 手配の車、関連なし 国頭の農道で見つかる 地域住民が大捜索」(琉球新報社)</ref>。これは、車内に残されていた遺留品の調査や、車内鑑定などの結果<ref name="琉球新報1996-07-06"/>、被害者Aの[[指紋]]・遺留品が見つからなかったことや<ref name="砕かれた願い1">『沖縄タイムス』1997年1月4日朝刊第1版第一社会面31頁「砕かれた願い 女子中学生ら致殺害事件 <1> 盲点 犯行車両の発見裏目」(沖縄タイムス社)</ref>、目撃者が「犯行車両はこの車と違い、側面と後部の窓が鉄板のようなもので覆われ、中が見えないようにしてあった」と述べ、この車と事件との関連を否定したためだった<ref name="沖縄タイムス1996-12-20">『沖縄タイムス』1996年12月20日朝刊第1版第二社会面28頁「中学生ら致事件から半年 容疑者 特定できず」(沖縄タイムス社)</ref>。当時、この車の鑑識や、[[科学捜査研究所]]による車両鑑定は、計3度行われたが、結果的に犯人2人 (Y・U) の指紋は検出されたものの、被害者Aの指紋は発見されず、車内から発見された毛髪も、Aとは結びつかなかった<ref name="祈り届かず4"/>。しかし、後にこの車が犯行車両と判明したことから、事件解決後には市民の間から、「もっと慎重に車を調べるべきだった。(その日のうちにシロと発表せず)引き続き市民の立場から協力でき、Aの発見も早まっただろう」など、警察の捜査に対する厳しい意見が出た{{Efn2|捜索に参加した住民は、『沖縄タイムス』の取材に対し、後に反抗車両と判明した車が発見直後に「犯行車両の可能性は低い」と発表されたことで、「(Aは)この辺り(辺戸岬周辺)にはいないのではないか」という心証を抱いたという旨を述べている<ref name="砕かれた願い1"/>。}}<ref name="祈り届かず6">『琉球新報』1997年1月10日朝刊第1版第一社会面25頁「祈り届かず 名護市女子中学生ら致殺害事件 6 市民対策本部 遺体発見に怒り、悔しさ 捜査へ市民から厳しい声も」(琉球新報社)</ref>。また、『[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]』は犯行車両の中に、使いかけのティッシュの箱やビニール袋が残っていたことを挙げ、鑑識活動が不十分だった可能性を指摘している{{Sfn|FRIDAY|1997|p=15}}。法医学の専門家である医師の[[上野正彦]]は、「検査結果が出るまでに3、4日ほどかかるため、車を発見した当日中に『何もなかった』と発表するのは不可解。遺体発見現場も、車で通れる道から10&nbsp;m未満の場所にあるため、車内で殺された可能性が高いが、そうだとすれば遺留品が出てこないということは考えがたい」{{Sfn|FRIDAY|1997|p=15}}「(拉致現場から遺体発見現場まで)50&nbsp;kmあるが、それだけ乗車していれば髪やフケなど何らかの遺留品が出るし、Aが車内で暴れれば当然その量も増える。現時点では鑑識は失敗だったと言えるのではないか」と、当時の捜査状況に疑問を呈している{{Sfn|週刊文春|1997|p=39}}。

一方、県警はその後も、この車と本事件との関連を調べ続けていた{{Efn2|特捜本部長を務めた久高は、「鑑識結果が出ないことは過去のケースでも有り得ること」と説明している<ref name="祈り届かず4"/>。}}<ref name="琉球新報1996-12-21"/>。この車内の遺留品・指紋などから、Y・Uの2人が浮上したため<ref name="読売新聞1997-01-03"/>、(この車について窃盗の被害届を受理していた)[[那覇警察署]]は同月18日<ref name="読売新聞1997-01-03"/>、「事件に関与した可能性が捨てきれない」として、2人を窃盗(ワゴン車を盗んだ容疑)で全国に[[指名手配]]<ref name="砕かれた願い1"/>。特別班を設置し<ref name="祈り届かず4"/>、同年8月<ref name="砕かれた願い1"/>、被疑者Yの実家があった種子島(熊毛郡中種子町)や<ref>『[[毎日新聞]]』1997年1月3日西部朝刊第一社会面「沖縄・女子中学生拉致事件 『逃げきれない』とY容疑者がやつれて出頭」([[毎日新聞西部本社]])</ref>、Yの肉親が住んでいた愛知県に捜査員を派遣していた<ref name="砕かれた願い1"/>。2人には、拉致現場近く(名護市伊差川)での足取りがあったため<ref name="沖縄タイムス1996-12-20"/>、その後も県警は「完全には(嫌疑が)捨てきれない」と行方を追い続けていたが<ref name="琉球新報1996-12-21"/>、彼らを「本命視」していた捜査幹部は少なく、あくまで「有力というわけではなく、(疑いを)消すための捜査」という意味合いが強かった<ref name="砕かれた願い1"/>。また、この車が発見されたことを受け、6月19日にYとUによって砂浜で立ち往生していたところを助けられていた夫婦は、同年9月に沖縄県警に対し、2人の姿が映ったビデオテープを提出していた<ref name="読売新聞1997-01-04"/>。

=== 逮捕 ===
通常、捜査本部の継続期間は15 - 20日とされるが、県警は捜査が長期化する中、事件に対する県民の強い関心を受け、650人の捜査体制を維持し続けた{{Efn2|県警幹部は11月時点で、『沖縄タイムス』記者の取材に対し、「この事件が解決しないことには、正月はない。解決までは、捜査体制の縮小はないだろう」と話していた<ref name="沖縄タイムス1996-11-21"/>。}}<ref name="沖縄タイムス1996-08-21">『沖縄タイムス』1996年8月21日朝刊第1版第二社会面22頁「【名護】少女ら致事件2カ月 進まぬ捜査 募る不安 無事祈る家族」(沖縄タイムス社)</ref>。しかし、事件から半年が経過した12月時点でも、有力な手掛かりは得られておらず、犯行車両と同型の県内の登録車両の捜査がほぼ完了したこともあって、専従態勢は650人から200人に縮小されていた<ref name="琉球新報1996-12-21"/>。

一方、Yは同年12月28日、種子島に帰郷したところ、実家で家族から「刑事が調べに来ている」と言われた<ref name="故郷の種子島"/>。「逃げられない」と思ったYは<ref name="故郷の種子島"/>、逃走に疲れたこともあって<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、同日11時32分、[[種子島警察署]](鹿児島県警)の中種子交番に出頭<ref name="故郷の種子島"/>。同日13時26分に逮捕され、同日中に[[鹿児島中央警察署]]へ身柄を移されると<ref name="故郷の種子島"/>、翌29日には那覇署に移送された<ref name="沖縄タイムス1997-01-04"/>。Yは同署で、本事件の特捜本部の捜査員から窃盗容疑で取り調べを受けたが、その取り調べが一段落した同月31日19時過ぎ、捜査員が「窃盗以外に悪いことをしたんじゃないか」と尋ねると<ref name="砕かれた願い2"/>、Yは「Uと共謀し、Aを殺害して国頭村の山中に遺棄した」と自供した<ref name="沖縄タイムス1997-01-04"/>。このため、特捜本部が[[1997年]](平成9年)1月1日早朝から、Yを立ち会わせ、国頭村の山中を捜索したところ<ref name="沖縄タイムス1997-01-04"/>、同日15時23分、国頭村の林道脇の崖下で、Aの制服や教科書などが入ったリュックサックが発見された<ref name="遺体発見まで">『沖縄タイムス』1997年1月4日朝刊第1版第二社会面30頁「新年早々県民に衝撃 遺体発見まで 午後4時すぎ遺留品確認から30分後 早朝から40人動員 捜査員ら無念の黙とう」(沖縄タイムス社)</ref>。そして16時過ぎ、リュックサックの発見地点から約800&nbsp;m東方の林道脇斜面で、白骨遺体が発見され、歯型の鑑定により、Aの遺体と確認された<ref name="琉球新報1997-01-04"/>。遺体は発見当時、Aが拉致された際に着ていたバレーボール部のユニフォームを着た状態で、凶器の紐が絡みついていた<ref name="祈り届かず1"/>。遺体は翌日(1月2日)午前、[[琉球大学]]医学部で司法解剖された後、遺族に引き渡され、名護市内の火葬場で火葬された<ref name="遺体発見まで"/>。同日、Yは身柄を那覇署から、特捜本部の置かれていた名護署に移送された<ref name="沖縄タイムス1997-01-04経過"/>。

Yの自供通りAの遺体が発見されたことを受け、特捜本部は同月3日0時55分、Yと指名手配中だったUの両[[被疑者]]について、[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄]]などの容疑で逮捕状を取り、同日11時、Uの指名手配容疑を窃盗から殺人・死体遺棄などに切り替えた<ref name="沖縄タイムス1997-01-04経過"/>。また、同日16時30分、Yは名護署に殺人・死体遺棄などの容疑で再逮捕され<ref name="沖縄タイムス1997-01-04経過">『沖縄タイムス』1997年1月4日朝刊第1版第二社会面30頁「女子中学生ら致殺害事件経過」(沖縄タイムス社)</ref>、5日午後、[[那覇地方検察庁]]へ身柄を[[送致|送検]]された<ref>『沖縄タイムス』1997年1月6日朝刊第1版第一社会面19頁「女子中学生ら致殺害事件 Y容疑者を送検」(沖縄タイムス社)</ref>。Yは取り調べに対し、「Aが逃げようとしたので殺した」「逃げないようロープで縛っていたら、死んでいた」など、供述を二転三転させたが、特捜本部は拉致当初から殺害を計画していた可能性もあると睨み、追及を行った<ref>『沖縄タイムス』1997年1月4日朝刊第1版第一社会面31頁「殺害供述は二転、三転」(沖縄タイムス社)</ref>。

一方、指名手配されたUについては、特捜本部が顔写真入りのポスター50,000枚を制作して全国に配布し{{Efn2|配布先は北海道(出身地)と愛知県(Uが長年生活していた)に各10,000部、沖縄県内に3,000部など<ref>『沖縄タイムス』1997年1月8日夕刊第1版第一社会面5頁「U容疑者県内潜伏も 手配ポスター配布」(沖縄タイムス社)</ref>。}}、行方を追跡していた<ref>『琉球新報』1997年1月6日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中学生拉致殺害事件 Y容疑者を送検 殺人、死体遺棄容疑 犯行経緯など追及 県警 共犯逮捕に全力」(琉球新報社)</ref>。同月11日23時20分ごろ、「2日前、Uに似た男を浦添市営伊奈武瀬球場{{Efn2|name="伊奈武瀬球場"|{{ウィキ座標|26|14|57.5|N|127|40|17.4|E||伊奈武瀬球場}}は、浦添市[[伊奈武瀬]]一丁目8番1号に所在する野球場<ref>{{Cite web|url=http://www.okinawa-bf-map.jp/facility-info/detail?facility_id=2175|title=施設情報詳細 伊奈武瀬球場|accessdate=2021-11-29|publisher=沖縄県子ども生活福祉部障害福祉課|date=2019-10-31|website=沖縄県バリアフリーマップ|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211129152834/http://www.okinawa-bf-map.jp/facility-info/detail?facility_id=2175|archivedate=2021-11-29}}</ref>。同地の住所はかつて、浦添市字勢理客555番地25だったが、2001年(平成13年)11月26日付で[[住居表示]]を実施し、現行の住所となった<ref>{{Cite web|url=https://prdurbanosursapp1.blob.core.windows.net/common-article/615143309ae8de55fb095b60/%E5%8B%A2%E7%90%86%E5%AE%A2+.pdf#page=41|title=住居表示旧新対照表 > 字勢理客、勢理客一丁目~四丁目|accessdate=2021-11-29|publisher=浦添市|date=2009-02-12|format=PDF|page=41|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211129153309/https://prdurbanosursapp1.blob.core.windows.net/common-article/615143309ae8de55fb095b60/%E5%8B%A2%E7%90%86%E5%AE%A2+.pdf#page=41|archivedate=2021-11-29}} - [https://www.city.urasoe.lg.jp/article?articleId=615143309ae8de55fb095b60 住居表示旧新対照表]より閲覧可能。</ref><ref>{{Cite web|url=https://prdurbanosursapp1.blob.core.windows.net/common-article/61304c5356737503f548e04f/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%AD%A6%E7%80%AC.pdf|title=住居表示新旧対照表 > 伊奈武瀬一丁目|accessdate=2021-11-29|publisher=浦添市|date=2009-02-12|format=PDF|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211129153345/https://prdurbanosursapp1.blob.core.windows.net/common-article/61304c5356737503f548e04f/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%AD%A6%E7%80%AC.pdf|archivedate=2021-11-29}} - [https://www.city.urasoe.lg.jp/article?articleId=61304c5356737503f548e04f 住居表示新旧対照表]より閲覧可能。</ref>。}}(浦添市勢理客)で見た」という110番通報が入った<ref name="琉球新報1997-01-13"/>。県警自動車警ら隊などが同球場に駆けつけたところ<ref name="沖縄タイムス1997-01-13"/>、翌日(1月12日)0時ごろ、警察官がダグアウト内ベンチ{{Efn2|Uが発見された場所は、球場内にあるグラウンド2面のうち、海岸寄りのグラウンドの一塁側ベンチだった<ref name="沖縄タイムス1997-01-13社会">『沖縄タイムス』1997年1月13日朝刊第1版第一社会面19頁「浦添市勢理客 ベンチで寝ていたU容疑者 12月から姿見掛ける」(沖縄タイムス社)</ref>。}}で寝ていた男を発見した<ref name="琉球新報1997-01-13"/>。男は手配写真のUと異なり、丸刈り頭で、眼鏡を掛けておらず<ref name="沖縄タイムス1997-01-13"/>、「Uだな」と職務質問してきた警ら隊の警察官に対し、本人であることを強く否定したが、警察官は、Uの特徴の1つだった右眉の上のほくろを見逃さなかった<ref>『琉球新報』1997年1月13日朝刊第1版第一社会面21頁「ほくろが決め手に 犯行後公園など転々と生活」(琉球新報社)</ref>。県警が那覇署で指紋照合を行ったところ、男はU本人であることが確認できたため、県警はUを名護署に[[任意同行]]し、同日2時20分に逮捕した<ref name="琉球新報1997-01-13">『琉球新報』1997年1月13日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生拉致殺害 共犯のU容疑者逮捕 浦添市内で発見 県警、全容解明急ぐ」(琉球新報社)</ref>。当時、Uの所持金はわずか60円だった<ref name="沖縄タイムス1997-01-13"/>。その後、Uは[[石川警察署 (沖縄県)|石川警察署]]に移送されて取り調べを受け<ref name="沖縄タイムス1997-01-13"/>、翌日(1月13日)、那覇地検に送検された<ref>『沖縄タイムス』1997年1月14日長官第1版第一社会面25頁「ら致殺害 U容疑者を送検」(沖縄タイムス社)</ref>。

一方、1月4日には被害者Aの告別式が開かれ、クラスメイト・学校関係者、捜索に参加した市民や、県出身の国会議員、[[東門美津子]](県副知事)、仲里県教育長<ref>『琉球新報』1997年1月9日朝刊第1版第一社会面23頁「祈り届かず 名護市女子中学生ら致殺害事件 5 告別式 無念さに震える父親 親友の弔辞に涙の参列者」(琉球新報社 北部支社報道部)</ref>、久高県警刑事部長、饒平名長良(名護署長)、我喜屋宗弘[[名護市議会]]議長ら、約2,000人が参列した<ref name="沖縄タイムス1997-01-05"/>。Aが拉致される直前まで一緒に下校していた甲は、弔辞でAが生前好きだった[[スピッツ (バンド)|スピッツ]]の楽曲「[[空も飛べるはず]]」の歌詞を読み上げ<ref name="沖縄タイムス1997-01-05">『沖縄タイムス』1997年1月5日朝刊第2版第一社会面17頁「【名護】Aさんに永遠の別れ 「長い間捜せなくてごめんね」 参列者2千人 涙をこらえ焼香」(沖縄タイムス社)</ref>、「できることならもう一度話をしたい」などと述べている<ref>『琉球新報』1997年1月5日第1版第二社会面20頁「友人代表・甲さん弔辞全文 空の上から見守って いつまでも私の友達です」(琉球新報社)</ref>。

=== 起訴 ===
那覇地検は同年1月25日、殺人・死体遺棄・わいせつ目的誘拐・婦女暴行・窃盗の罪で、被疑者Yを[[那覇地方裁判所]]へ[[起訴]]した<ref name="琉球新報1997-01-26">『琉球新報』1997年1月26日朝刊第1版第一社会面27頁「女子中学生拉致殺害事件 Y容疑者を起訴 那覇地検 殺人、死体遺棄などの罪」(琉球新報社)</ref><ref name="Y起訴">『朝日新聞』1997年1月26日西部朝刊第一社会面31頁「沖縄・名護の中学生殺害で容疑者を起訴 那覇地検【西部】」([[朝日新聞西部本社]])</ref>。また、Yについても同年2月2日付で、殺人・死体遺棄など5つの罪で起訴した<ref name="琉球新報1997-02-03">{{Cite news|title=Y容疑者を起訴  女子中学生ら致殺害事件|newspaper=琉球新報|date=1997-02-03|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970203ja.htm|author=|accessdate=2001-02-18|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010218004613/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970203ja.htm|archivedate=2001年2月18日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。

同年2月3日、特捜本部は解散<ref name="沖縄タイムス1997-02-03">『沖縄タイムス』1997年2月3日朝刊第1版第一社会面19頁「【名護】中学生ら致殺害 特別捜査本部を解散 県警、無念さを隠せず」(沖縄タイムス社)</ref>。投入された捜査員の総数は、延べ148,000人に上った<ref name="経過1997-04-24">『沖縄タイムス』1994年4月24日夕刊第2版第二社会面6頁「女子中学生ら致事件経過」(沖縄タイムス社)</ref>。


== 刑事裁判 ==
== 刑事裁判 ==
[[司法研修所]] (2012) は、1970年度([[昭和]]45年度)以降に判決が宣告され、1980年度(昭和55年度) - 2009年度(平成21年度)の30年間にかけて死刑や無期懲役が確定した死刑求刑事件(全346件/うち193件で死刑が確定){{Efn2|本事件(事件一覧表における整理番号:190・191)は共犯事件ではあるが、それぞれ被告人1人につき1件として数えている{{Sfn|司法研修所|2012|pp=236-237}}。}}を調査し{{Sfn|司法研修所|2012|p=108}}、殺害された被害者が1人の殺人事件([[強盗致死傷罪|強盗殺人]]は含まない)で死刑が確定した事件は全48件中18件{{Efn2|死刑が確定した18人のうち、無期懲役刑の[[仮釈放]]中に殺人を再犯した被告人が5人いるほか、事前に被害者の殺害を計画していた身代金目的誘拐殺人(5人)および[[保険金殺人]](2人)もある{{Sfn|司法研修所|2012|p=110-111}}。また、1983年7月の「永山判決」から、1998年3月(第一審判決の直前)までに死刑が言い渡された被害者1人の殺人事件は計14件だった<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊">『沖縄タイムス』1998年3月17日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生ら致殺害事件 死刑適用の判断焦点に 極刑臨むしかない…検察 許されないケース…弁護側」(沖縄タイムス社)</ref>。}}(全体の38%)と発表している{{Sfn|司法研修所|2012|p=109}}。本事件のようにわいせつ・姦淫目的で誘拐した後の殺人(被害者1人/強盗殺人は含まない)は計10件(被告人は計10人)あるが、いずれも一連の犯行に着手する前に被害者への殺意を抱いていた事例ではなく、死刑確定は10件中3件(3人){{Efn2|[[群馬女子高生誘拐殺人事件]]<ref name="群馬奈良">{{Cite news|title=江東マンション神隠し殺人事件 【神隠し公判】姦淫の有無は量刑に影響しない 検察側論告(6) (2/4ページ)|newspaper=産経新聞|date=2009-01-26|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261552021-n2.htm|publisher=産業経済新聞社|language=ja|page=2|archiveurl=http://web.archive.org/web/20090129051130/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261552021-n2.htm|archivedate=2009年1月29日}}</ref>(「事件一覧表」における整理番号:287番){{Sfn|司法研修所|2012|pp=258-259}}・[[三島女子短大生焼殺事件]]<ref name="三島">{{Cite news|title=江東マンション神隠し殺人事件 【神隠し公判】姦淫の有無は量刑に影響しない 検察側論告(6) (3/4ページ)|newspaper=産経新聞|date=2009-01-26|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261552021-n3.htm|publisher=産業経済新聞社|language=ja|page=3|archiveurl=http://web.archive.org/web/20090129051130/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261552021-n3.htm|archivedate=2009年1月29日}}</ref>(整理番号:288番){{Sfn|司法研修所|2012|pp=258-259}}・[[奈良小1女児殺害事件]]<ref name="群馬奈良"/>(整理番号:331番){{Sfn|司法研修所|2012|pp=270-271}}の計3件(3人){{Sfn|司法研修所|2012|p=112}}<ref>{{Cite news|title=江東マンション神隠し殺人事件 【神隠し公判】「自身の生命で罪を償わせるべき」 検察側論告(7完) (1/3ページ)|newspaper=産経新聞|date=2009-01-26|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261555022-n1.htm|publisher=産業経済新聞社|language=ja|page=1|archiveurl=http://web.archive.org/web/20090210141740/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261555022-n1.htm|archivedate=2009年2月10日}}</ref>。3件とも殺害前に姦淫行為が既遂に達している(群馬事件および三島事件)か<ref name="三島"/><ref name="群馬奈良"/>、わいせつ行為におよんでいる(奈良事件)事件で<ref name="群馬奈良"/>、うち奈良事件の犯人は女児に対する強制わいせつおよび同致傷の前科があり{{Sfn|司法研修所|2012|p=112}}、殺害後に死体損壊および被害者の親への脅迫行為におよんでいるほか、群馬事件の犯人(前科なし)<ref name="群馬奈良"/>は被害者を殺害後、被害者の両親に[[身代金]]を要求して受け取っている<ref>{{Cite news|title=新潟女児殺害、死刑判決とならない事情 最高裁が求める「慎重さ」「公平性」、裁判員を説得か|newspaper=[[47NEWS]]|date=2019-12-07|url=https://this.kiji.is/575630482034885729|accessdate=2021-02-23|agency=[[共同通信社]]|language=ja|author=竹田昌弘|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200722142405/https://this.kiji.is/575630482034885729|archivedate=2020年7月22日}}</ref>。また、三島事件の犯人は強盗致傷などの前科があり、被害者を強姦後、犯行の隠蔽と「早く[[覚醒剤]]を打ちたい」との考えから、被害者を生きたまま焼き殺した<ref name="三島"/>。}}にとどまり、本事件の加害者2人を含む7件(7人){{Efn2|例:[[江東マンション神隠し殺人事件]](整理番号:331){{Sfn|司法研修所|2012|pp=272-273}}。}}は無期懲役が確定している{{Sfn|司法研修所|2012|p=112}}。
[[司法研修所]] (2012) は、1970年度([[昭和]]45年度)以降に判決が宣告され、1980年度(昭和55年度) - 2009年度(平成21年度)の30年間にかけて死刑や無期懲役が確定した死刑求刑事件(全346件/うち193件で死刑が確定){{Efn2|本事件(事件一覧表における整理番号:190・191)は共犯事件ではあるが、それぞれ被告人1人につき1件として数えている{{Sfn|司法研修所|2012|pp=236-237}}。}}を調査し{{Sfn|司法研修所|2012|p=108}}、殺害された被害者が1人の殺人事件([[強盗致死傷罪|強盗殺人]]は含まない)で死刑が確定した事件は全48件中18件{{Efn2|name="被害者1人死刑確定"|1980年 - 2009年にかけ、被害者1人の殺人事件で死刑が確定した18人のうち、無期懲役刑の[[仮釈放]]中に殺人を再犯した被告人が5人いるほか、事前に被害者の殺害を計画していた身代金目的誘拐殺人(5人)および[[保険金殺人]](2人)もある{{Sfn|司法研修所|2012|p=110-111}}。また、1983年7月の「永山判決」から、1998年3月(第一審判決の直前)までに死刑が言い渡された被害者1人の殺人事件(強盗殺人を含む)は計14件だった<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊"/>、うち13件は単独犯で、[[北九州市病院長殺害事件|複数犯の死刑が確定た事例はわず1件]]だった<ref name="沖縄タイムス1998-02-11 2"/>。}}(全体の38%)と発表している{{Sfn|司法研修所|2012|p=109}}。本事件のようにわいせつ・姦淫目的で誘拐した後の殺人(被害者1人/強盗殺人は含まない)は計10件(被告人は計10人)あるが、いずれも一連の犯行に着手する前に被害者への殺意を抱いていた事例ではなく、死刑確定は10件中3件(3人){{Efn2|[[群馬女子高生誘拐殺人事件]]<ref name="群馬奈良">{{Cite news|title=江東マンション神隠し殺人事件 【神隠し公判】姦淫の有無は量刑に影響しない 検察側論告(6) (2/4ページ)|newspaper=産経新聞|date=2009-01-26|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261552021-n2.htm|publisher=産業経済新聞社|language=ja|page=2|archiveurl=http://web.archive.org/web/20090129051130/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261552021-n2.htm|archivedate=2009年1月29日}}</ref>(「事件一覧表」における整理番号:287番){{Sfn|司法研修所|2012|pp=258-259}}・[[三島女子短大生焼殺事件]]<ref name="三島">{{Cite news|title=江東マンション神隠し殺人事件 【神隠し公判】姦淫の有無は量刑に影響しない 検察側論告(6) (3/4ページ)|newspaper=産経新聞|date=2009-01-26|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261552021-n3.htm|publisher=産業経済新聞社|language=ja|page=3|archiveurl=http://web.archive.org/web/20090129051130/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261552021-n3.htm|archivedate=2009年1月29日}}</ref>(整理番号:288番){{Sfn|司法研修所|2012|pp=258-259}}・[[奈良小1女児殺害事件]]<ref name="群馬奈良"/>(整理番号:331番){{Sfn|司法研修所|2012|pp=270-271}}の計3件(3人){{Sfn|司法研修所|2012|p=112}}<ref>{{Cite news|title=江東マンション神隠し殺人事件 【神隠し公判】「自身の生命で罪を償わせるべき」 検察側論告(7完) (1/3ページ)|newspaper=産経新聞|date=2009-01-26|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261555022-n1.htm|publisher=産業経済新聞社|language=ja|page=1|archiveurl=http://web.archive.org/web/20090210141740/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261555022-n1.htm|archivedate=2009年2月10日}}</ref>。3件とも殺害前に姦淫行為が既遂に達している(群馬事件および三島事件)か<ref name="三島"/><ref name="群馬奈良"/>、わいせつ行為におよんでいる(奈良事件)事件で<ref name="群馬奈良"/>、うち奈良事件の犯人は女児に対する強制わいせつおよび同致傷の前科があり{{Sfn|司法研修所|2012|p=112}}、殺害後に死体損壊および被害者の親への脅迫行為におよんでいるほか、群馬事件の犯人(前科なし)<ref name="群馬奈良"/>は被害者を殺害後、被害者の両親に身代金を要求して受け取っている<ref>{{Cite news|title=新潟女児殺害、死刑判決とならない事情 最高裁が求める「慎重さ」「公平性」、裁判員を説得か|newspaper=[[47NEWS]]|date=2019-12-07|url=https://this.kiji.is/575630482034885729|accessdate=2021-02-23|agency=[[共同通信社]]|language=ja|author=竹田昌弘|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200722142405/https://this.kiji.is/575630482034885729|archivedate=2020年7月22日}}</ref>。また、三島事件の犯人は強盗致傷などの前科があり、被害者を強姦後、犯行の隠蔽と「早く[[覚醒剤]]を打ちたい」との考えから、被害者を生きたまま焼き殺した<ref name="三島"/>。}}にとどまり、本事件の加害者2人を含む7件(7人){{Efn2|本事件以外の例:[[江東マンション神隠し殺人事件]](整理番号:331){{Sfn|司法研修所|2012|pp=272-273}}。}}は無期懲役が確定している{{Sfn|司法研修所|2012|p=112}}。
{{See also|永山基準#被害者1人で死刑が確定した事例}}
{{See also|永山基準#被害者1人で死刑が確定した事例}}
事件でも、[[審級|第一審]]・控訴審とも、殺害された被害者が1人である点や<ref name="琉球新報1999-09-30"/>、犯行の計画性が高くない点<ref group="注" name="計画性"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/><ref name="毎日新聞1998-03-17"/><ref name="中日新聞1998-03-17"/>、[[被告人]]2人に目立った[[前科]]がない点<ref name="琉球新報1998-03-17"/>などが考慮され、死刑適用は回避された<ref name="琉球新報1998-03-17"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/>。
そのような情の中でも、那覇地検は本犯行を「計画的残虐、凶悪な犯行」と位置づけた上で、被害者が非力な女子中学生だった点や、遺族の被害感情を酌み取り、社会に与えた深刻な影響指摘した上で、死刑を求刑した<ref name="沖縄タイムス1998-02-11 2">『沖縄タイムス』1998年2月11日朝刊第1版第二社会面22頁「解説 女子中学生殺害事件公判 死刑求刑に踏み込む 事件の残虐さ、遺族感情を考慮」(沖縄タイムス社 社会部・金城雅貴)</ref>。しかし、[[審級|第一審]]・[[控訴]]審とも、殺害された被害者が1人である点や<ref name="沖縄タイムス1999-09-30"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/>、犯行の計画性が高くない点<ref name="沖縄タイムス1999-09-30"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/><ref name="毎日新聞1998-03-17">『毎日新聞1998年3月17日西部夕刊一面1頁「中3生女子拉致殺害事件 2被告に死刑求刑退け、無期懲役--沖縄地裁<!--毎日新聞社の記事データベース『毎索』収録の原文ママ-->」(毎日新聞西部本社 記者:野沢俊司)</ref>、[[被告人]]2人に目立った[[前科]]がない点<ref name="琉球新報1998-03-17"/>などが考慮され、死刑適用は回避された<ref name="琉球新報1998-03-17"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/>。


=== 第一審 ===
=== 第一審 ===
{| class="wikitable" style="width:100%;font-size:90%"
|+ 争点表
|-
! {{nowrap|各々の主張}}/争点 !! 両被告人の役割・主従関係 !! colspan="2" | {{nowrap|殺害の計画性および、}}殺害を決意した時期 !! colspan="2" | 情状面など
|-
! 検察官
| Yが先に女性を拉致・強姦することを提案し、Uも同意した上で、2人で計画・準備をした<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。<br/>UはYに対し、Aの拉致を思いとどまるよう進言したが、聞き入れられなかった<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>。<br/>殺意は犯行現場の移動中に発生していた<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊">『沖縄タイムス』1998年3月17日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生ら致殺害事件 死刑適用の判断焦点に 極刑臨むしかない…検察 許されないケース…弁護側」(沖縄タイムス社)</ref>。 || colspan="2" | 事前に拉致した被害者を殺害することまで計画していた<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。 || colspan="2" | 拉致から死体遺棄まで、当初の計画通りわずか2時間半で終了しており、極めて計画的な犯行。Aの首にロープをかけて2人で一気に引っ張って殺害するなど、犯行は冷酷・残虐だ<ref>『毎日新聞』1998年2月11日西部朝刊社会面「名護の女子中学生殺害事件 2被告に死刑求刑--那覇地裁」(毎日新聞西部本社)</ref>。<br/>公判中、2人はそれぞれ「殺害は突発的だった」 (Y) 、「Yからの指示でやった」 (U) など、それぞれ主張の一部を翻しているが、これらは刑の軽減を狙った虚偽供述で、反省の様子など全く見られない<ref name="西日本新聞1998-02-11">『[[西日本新聞]]』1998年2月11日朝刊30頁「2被告に死刑求刑 名護の中3女子拉致殺害」([[西日本新聞社]])</ref>。
|-
! 被告人Y
| 犯行前、女性を拉致することを相談したが、犯行の役割は事前には決めていなかった<ref name="琉球新報1997-06-26"/>。<br/>事件前、Uに冗談交じりで「女性を強姦して山に捨てよう」<ref name="沖縄タイムス1997-06-26"/>「拉致して殺せばいい」<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊"/>と持ちかけたら、Uも「そうだな」と応じた<ref name="沖縄タイムス1997-06-26"/>。当時の会話は、犯罪意識のない冗談だった<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊"/>。
| rowspan="2" | 殺害は犯行2日前から計画したものではなく、犯行直前に思い立った<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。殺意を明確に抱いたのは犯行直前、凶器のロープを手にした時だった<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊"/>。<br/>殺害計画を自白した両被告人の捜査段階の供述調書は信用性に欠ける<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊"/>。
|2人の事前謀議は拉致のみで<ref name="沖縄タイムス1998-02-25"/>、Aに顔を見られていたことや、(拉致した際に目撃者から)「おーい」と声を掛けられていたことから、殺さないといけないと思った<ref name="琉球新報1997-06-26">『琉球新報』1997年6月26日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生拉致殺害 那覇地裁で第3回公判 Y被告、殺害の役割証言 じゃんけんで決めた」(琉球新報社)</ref>。現場に到着後<ref name="沖縄タイムス1998-02-25"/>、Aの首にロープを巻いた時に殺害を決意した<ref name="沖縄タイムス1997-06-26"/>。<br/>遊び半分で<ref name="沖縄タイムス1997-06-26">『沖縄タイムス』1997年6月26日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生ら致殺害公判でY被告 凶悪犯行淡々と証言 「殺害でジャンケンも」」(沖縄タイムス社)</ref>、「どちらが殺すか決めよう」と言ってじゃんけんをしたが、結局は2人でAの首に巻き付けたロープの両端を引っ張り合って殺害した<ref name="琉球新報1997-06-26"/>。<br/>Uは自分に従属的な立場ではなく、自分に対し、Aの拉致を断念することや、犯行後にAを解放することは進言していない<ref name="沖縄タイムス1997-08-28">『沖縄タイムス』1997年8月28日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中生ら致殺害公判 証言に食い違い」(沖縄タイムス社)</ref>。
| rowspan="2" | [[永山基準|最高裁が示した死刑選択の一般的基準]]に照らし、死刑選択は許されないケースである<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊">『沖縄タイムス』1998年3月17日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生ら致殺害事件 死刑適用の判断焦点に 極刑臨むしかない…検察 許されないケース…弁護側」(沖縄タイムス社)</ref>。
|(弁護人)事件後に交番に出頭したことから、[[自首]]が成立する<ref name="沖縄タイムス1998-02-25"/>。
|-
! 被告人U
| Yに終始従属的な立場で、Aを拉致する直前、Yに「子供だからやめよう」と言った<ref name="沖縄タイムス1997-07-16">『沖縄タイムス』1997年7月16日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中学生ら致殺害公判 U被告が証言 殺害の意思なかった」(沖縄タイムス社)</ref>。
|Yの言う「じゃんけん」はしていない<ref name="沖縄タイムス1997-07-16"/>。拉致した後も、Aを殺害する意思は直前までなかったが、Yから「拉致現場を目撃されている」と聞かされ、殺害を決意した<ref name="沖縄タイムス1997-07-16"/>。<br/>事件後、Yは新たな犯罪を自分に持ち掛けていた<ref name="琉球新報1997-07-16">『琉球新報』1997年7月16日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中学生拉致殺害事件 那覇地裁第4回公判 U被告が証言 「主犯はY被告」と強調」(琉球新報社)</ref>。
|(弁護人)UはYとの対比で、明らかに[[量刑]]事情に差異がある<ref name="沖縄タイムス1998-02-25"/>。
|-
! {{nowrap|判決の認定}}
| Yが多少主導した面もないではないが、Uもほぼ同等の実行行為を分担しており、主従関係・刑事責任とも差をつけがたい<ref name="判決要旨">『沖縄タイムス』1998年3月17日夕刊第2版第二社会面6頁「女子中学生ら致殺害判決要旨」(沖縄タイムス社)</ref>。 || colspan="2" |拉致などについては場当たり的な犯行で、殺害・死体遺棄を決意したのは犯行現場の移動中だった<ref name="沖縄タイムス1998-03-17" />。<br />計画性そのものは認められるが、当初から被害者の殺害を確定していた事件(身代金目的誘拐殺人など)と比較すると、悪質性の程度は若干の差異があることを否定できず、この事件の殺人・死体遺棄に限れば、計画性は高くない<ref name="毎日新聞1998-03-17" />。|| colspan="2" | 犯行態様は残忍で、動機に酌量の余地はない<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。事件の悲惨な結果、遺族の峻烈な処罰感情などから、2被告人に同情すべき事情はなく、刑事責任は極めて重大だ<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。<br/>死刑適用には慎重でなければならず、近年の死刑適用事情を合わせ考えると、死刑を持って処断するには躊躇を感じざるを得ない<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。
|}
[[刑事訴訟規則]]では、[[法定刑]]が死刑、[[無期刑]]または3年以上の懲役刑となる事件の場合、[[弁護人]]がいなければ[[公判]]を開けないことになっている{{Efn2|刑事訴訟規則第177条・第178条を参照<ref>{{Cite web|url=https://www.courts.go.jp/vc-files/courts/file5/keijisoshoukisoku281201.pdf|title=刑事訴訟規則(原文は縦書き) 昭和二十三年十二月一日最高裁判所規則第三十二号|accessdate=2021-12-29|publisher=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]|date=1948-12-01|website=[[日本の裁判所|裁判所]]|pages=75-76|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210909065828/https://www.courts.go.jp/vc-files/courts/file5/keijisoshoukisoku281201.pdf|archivedate=2021-09-09}}</ref>。}}が、2被告人に私選の弁護人はおらず、[[国選弁護制度|国選弁護人]]の選任も難航した<ref name="沖縄タイムス1997-02-01"/>。[[沖縄弁護士会]]は、本事件が重大事件であり、弁護人の負担が重くなる可能性を考慮して<ref name="沖縄弁護士会">『琉球新報』1997年1月26日朝刊第1版第一社会面27頁「国選弁護人の選任は難航 Y被告起訴で沖縄弁護士会」(琉球新報社)</ref>、2被告人にそれぞれ複数の国選弁護人を選任する{{Efn2|国選弁護人は通常、1被告人につき1人選任される<ref name="沖縄弁護士会"/>。}}方向だったが、1月31日までに弁護士会内から希望者は現れなかった<ref name="沖縄タイムス1997-02-01">『沖縄タイムス』1997年2月1日夕刊第1版第一社会面5頁「中学生ら致殺害 国選弁護人選び難航 凶悪事件に希望者なし」(沖縄タイムス社)</ref>。同弁護士会ではそれまで、会員弁護士会の名簿順に国選弁護人を受任しており、このように選任が難航した事例は異例だったが<ref name="沖縄タイムス1997-02-01"/>、その背景には、県民から国選弁護人に対し、「なぜこのような犯人を弁護するのか」という冷ややかな視線が注がれていた事情もあった<ref name="読売新聞1997-04-27"/>。最終的には、起訴当時の県弁護士会執行部員4人(副会長2人・理事2人)が国選弁護人に就任し<ref name="読売新聞1997-04-27"/>、YとUにそれぞれ2人ずつ弁護人が就く形になった<ref name="沖縄タイムス1997-04-24 朝刊">『沖縄タイムス』1997年4月24日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生ら致殺害事件 きょう注目の初公判 那覇地裁」(沖縄タイムス社)</ref>。初公判が開かれた1997年4月24日には、沖縄弁護士会(会長:伊志嶺善三)が県民への理解を求め、地元紙に「県民としては到底許せない事件であっても、国民の[[人権|基本的人権]]を守ることが[[日本国憲法|憲法]]で定められている以上どうしても(弁護を)引き受けざるを得ない事件だ」という会長コメントを掲載した<ref name="読売新聞1997-04-27">『読売新聞』1997年4月27日西部朝刊第二社会面28頁「[ニュース・アイ] 沖縄の中3拉致・殺害 悩む国選弁護人」(読売新聞西部本社)</ref>。

==== 初公判 ====
==== 初公判 ====
第一審の公判は、初公判から判決公判まで計14回にわたって開かれた<ref name="沖縄タイムス1998-03-18">『沖縄タイムス』1998年3月18日朝刊第1版第一社会面21頁「ニュース近遠景 女子中学生ら致殺害事件判決 無念さにじむ父親 極刑望んだのに…待合室で1人涙流す」(社会部・金城雅貴)「なお残る恐怖心 地元住民 判決を疑問視」(沖縄タイムス社)</ref>。
両被告人の初[[公判]]は、1997年4月24日{{Efn2|同日には地元紙に、[[沖縄県弁護士会]](会長:伊志嶺善三)が県民への理解を求め、「県民としては到底許せない事件であっても、国民の[[人権|基本的人権]]を守ることが[[日本国憲法|憲法]]で定められている以上どうしても(弁護を)引き受けざるを得ない事件だ」とする会長コメントを掲載した<ref name="読売新聞1997-04-27">『読売新聞』1997年4月27日西部朝刊第二社会面28頁「[ニュース・アイ] 沖縄の中3拉致・殺害 悩む国選弁護人」(読売新聞西部本社)</ref>。その背景には、県民から被告人の[[国選弁護制度|国選弁護人]]に対し、「なぜこのような犯人を弁護するのか」という冷ややかな視線が注がれていたことや、県弁護士会内部でも、両被告人の弁護人選任を辞退する希望が相次いでいた事情があり、最終的には起訴当時の県弁護士会執行部員4人(副会長2人・理事2人)が国選弁護人に就任した<ref name="読売新聞1997-04-27"/>(XとYに各2人ずつ弁護人が就いた)<ref name="沖縄タイムス1997-04-24 朝刊">『沖縄タイムス』1997年4月24日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生ら致殺害事件 きょう注目の初公判 那覇地裁」(沖縄タイムス社)</ref>。}}に[[那覇地方裁判所]](長嶺信栄裁判長)で開かれた<ref name="沖縄タイムス1997-04-24">『沖縄タイムス』1997年4月24日朝刊第2版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件初公判 両被告、起訴事実認める 数日前から犯行計画」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1997-04-24">{{Cite news|title=両被告、起訴事実認める  女子中学生拉致殺害事件初公判|newspaper=琉球新報|date=1997-05-24|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970424je.htm|author=|accessdate=1999-09-09|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990909154528/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970424je.htm|archivedate=1999年9月9日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。同日、罪状認否で2被告人はそれぞれ起訴事実を全面的に認めた上で、被告人Yは「被害者やその両親に対し大変申し訳ない。素直に刑を受けたい」と陳述し、Xも「Yと同じ意見です」と述べた<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>。


初公判は1997年4月24日、[[那覇地方裁判所]](長嶺信栄裁判長)で開かれた<ref name="沖縄タイムス1997-04-24">『沖縄タイムス』1997年4月24日朝刊第2版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件初公判 両被告、起訴事実認める 数日前から犯行計画」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1997-04-24">{{Cite news|title=両被告、起訴事実認める  女子中学生拉致殺害事件初公判|newspaper=琉球新報|date=1997-05-24|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970424je.htm|author=|accessdate=1999-09-09|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990909154528/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970424je.htm|archivedate=1999年9月9日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。同日、罪状認否で2被告人はそれぞれ起訴事実を全面的に認めた上で、被告人Uは「被害者やその両親に対し大変申し訳ない。素直に刑を受けたい」と陳述し、Yも「Uと同じ意見です」と述べた<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>。
[[検察官]]は、冒頭陳述で「被告人Xは1996年6月19日(事件2日前)、国頭村の海岸に遊びに来ていた観光客の女性を見て、被告人Yに対し、『女性を拉致して暴行しよう』と持ち掛け、Yもこれに同意した。2人は役割分担を決めた上で、盗んだワンボックスカーに女性を連れ込み、ガムテープで縛ったり、金品を奪ったりした上で、発覚を防ぐため、殺害して死体を捨てることなどを計画した」<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>「計画を立てて以降、2日間にわたって北部地域で女性を探した」<ref name="琉球新報1997-04-24"/>「Aを拉致する際、YはXに対し、相手が女子中学生であることから犯行を思いとどまるように言ったが、Xは聞き入れなかった」と主張した<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>。一方、両被告人の[[弁護人]]は互いに「殺害は犯行2日前から計画したものではなく、犯行直前に思い立ったものだ」と主張<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。被告人Yの弁護人は「各行為は被告人Xの主導でなされた」と主張した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>が、被告人Xの弁護人は「主従関係はなかった」と強調した<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>上で、「Xの出頭は[[自首]]に当たる」と主張した{{Efn2|Xの弁護人は、初公判の閉廷後に今後の弁護方針について「拉致・強姦容疑などについては、Xが自主的に供述したもので、自首に当たることを立証したい」<ref>『沖縄タイムス』1997年4月24日夕刊第2版第一社会面7頁「女子中学生ら致殺害 うなだれる被告に険しい視線 「何の罪もない娘を…」 絞殺の描写に目を閉じる父親 那覇地裁」(沖縄タイムス社)</ref>「事件に使用された車は、目撃証言とは異なったもので、自主的供述に当たる」と述べていた<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。また、検察官は被害者Aの両親の調書の要旨を陳述したほか、両被告人の供述調書と、学校・地域関係者の調書を証拠申請したが、両被告人の弁護人はすべて不同意とし、役割分担・情状などについて争う姿勢を見せた<ref>『琉球新報』1997年4月24日夕刊第2版総合面1頁「女子中学生拉致殺害事件初公判 両被告、起訴事実認める 検察、計画的犯行と断罪 役割分担を詳述 那覇地裁」(琉球新報社)</ref>。


[[検察官]]は、冒頭陳述で「被告人Yは1996年6月19日(事件2日前)、国頭村の海岸に遊びに来ていた観光客の女性を見て、被告人Uに対し、『女性を拉致して暴行しよう』と持ち掛け、Uもこれに同意した。2人は役割分担を決めた上で、盗んだワンボックスカーに女性を連れ込み、ガムテープで縛ったり、金品を奪ったりした上で、発覚を防ぐため、殺害して死体を捨てることなどを計画した」<ref name="沖縄タイムス1997-04-25">『沖縄タイムス』1997年4月25日朝刊第1版第二社会面26頁「ニュース近遠景 女子中学生ら致殺害初公判 争点は「主犯格」「自首」」(沖縄タイムス社)</ref>「計画を立てて以降、2日間にわたって北部地域で女性を探した」<ref name="琉球新報1997-04-24"/>「Aを拉致する際、UはYに対し、相手が女子中学生であることから犯行を思いとどまるように言ったが、Yは聞き入れなかった」と主張した<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>。
==== 公判の経過 ====
第一審の公判は(判決公判までに)計14回にわたって開かれた{{Efn2|第2回公判は1997年5月21日に開かれた<ref name="沖縄タイムス1997-04-25">『沖縄タイムス』1997年4月25日朝刊第1版第二社会面26頁「ニュース近遠景 女子中学生ら致殺害初公判 争点は「主犯格」『自首」」(沖縄タイムス社)</ref>。}}<ref name="沖縄タイムス1998-03-18"/>が、初公判以降、Xは「殺害は突発的だった」、Yは「Xの指示でやった」などと、それぞれ主張の一部を翻した<ref name="西日本新聞1998-02-11"/>。検察官は、前述のように事前の謀議・計画性があったとする主張のほか、「殺意は犯行現場の移動中に発生していた」と主張した一方、弁護人側は「犯行日前、Yに対し『拉致して殺せばいいや』と言ったXの会話は、犯罪意思のない冗談だった」「殺意を明確に抱いたのは犯行直前、凶器のロープを手にした時だった」「両被告人が計画を自白したとされる捜査段階の供述調書は、信用性に欠ける」などと主張した<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊"/>。


一方、両被告人は互いに「殺害は犯行2日前から計画したものではなく、犯行直前に思い立ったものだ」と主張<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。被告人Uは「各行為は被告人Yの主導でなされた」と主張した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>が、被告人Yは「主従関係はなかった」と強調した<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>上で、「Yの出頭は[[自首]]に当たる」と主張した{{Efn2|Yの弁護人は、初公判の閉廷後に今後の弁護方針について「拉致・強姦容疑などについては、Yが自主的に供述したもので、自首に当たることを立証したい」<ref>『沖縄タイムス』1997年4月24日夕刊第2版第一社会面7頁「女子中学生ら致殺害 うなだれる被告に険しい視線 「何の罪もない娘を…」 絞殺の描写に目を閉じる父親 那覇地裁」(沖縄タイムス社)</ref>「事件に使用された車は、目撃証言とは異なったもので、自主的供述に当たる」と述べていた<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。また、検察官は被害者Aの両親の調書の要旨を陳述したほか、両被告人の供述調書と、学校・地域関係者の調書を証拠申請したが、両被告人の弁護人はすべて不同意とし、役割分担・情状などについて争う姿勢を見せた<ref>『琉球新報』1997年4月24日夕刊第2版総合面1頁「女子中学生拉致殺害事件初公判 両被告、起訴事実認める 検察、計画的犯行と断罪 役割分担を詳述 那覇地裁」(琉球新報社)</ref>。
第9回公判(1997年12月19日)で<ref name="朝日新聞1998-01-09"/>、被害者Aの父親の両親が検察側の証人として出廷<ref name="経過1998-03-17"/>。Aの父親は、両被告人に対し「お前たちは、私たち家族を苦しめるっていう犯罪を今も続けているんだ。お前たちに生きる資格はない」<ref name="朝日新聞1998-01-09">『朝日新聞』1998年1月9日大阪朝刊30頁「絆 子どもたちへ=第1部 父のつぶやき(8) 「きっと助けてあげる」」([[朝日新聞大阪本社]])</ref>「早く(あの世に)行って(娘に)謝ってこい」と陳述したほか、裁判官に対しても両被告人への死刑適用を求めた<ref name="沖縄タイムス1998-03-18"/>。一方、[[1998年]](平成10年)1月の公判では、被告人Xの父親(北海道在住)が情状証人として出廷したほか、公判の休憩時間中に検察官と弁護人の計らいで、被害者Aの父親と対面し、土下座して泣き叫びながら謝罪している<ref name="沖縄タイムス1998-03-18"/>。


==== 公判の推移 ====
1998年2月10日に、那覇地裁(林秀文裁判長)で[[論告]][[求刑]]公判が開かれ、検察官は2被告人に[[日本における死刑|死刑]]を求刑した<ref>{{Cite news|title=X、Y両被告に死刑求刑 名護市の女子中学生拉致事件|newspaper=琉球新報|date=1998-02-11|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|author=|accessdate=1999-02-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990210082057/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|archivedate=1999年2月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=「無念さ」思えば極刑 女子中学生拉致殺害事件論告求刑|newspaper=琉球新報|date=1998-02-11|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211c.htm|author=|accessdate=1998-12-01|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19981201070232/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211c.htm|archivedate=1998年12月1日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。検察官は論告で、公判途中で各被告人が主張を翻した点について、「刑の軽減を狙った虚偽供述で、反省の様子など全く見られない」と批判した<ref name="西日本新聞1998-02-11">『[[西日本新聞]]』1998年2月11日朝刊30頁「2被告に死刑求刑 名護の中3女子拉致殺害」([[西日本新聞社]])</ref>。その上で、犯行については「拉致から死体遺棄まで、当初の計画通りわずか2時間半で終了しており、極めて計画的な犯行。被害者Aの首にロープをかけて2人で一気に引っ張って殺害するなど、犯行は冷酷・残虐だ」<ref>『毎日新聞』1998年2月11日西部朝刊社会面「名護の女子中学生殺害事件 2被告に死刑求刑--那覇地裁」(毎日新聞西部本社)</ref>と非難し、「酌量の事情は皆無。罪質・計画性・被害者感情・社会的影響など、[[永山基準|最高裁判決が示す死刑適用基準]]に照らしても、極刑をもって臨むほかない」と主張した<ref name="読売新聞1998-02-11">『読売新聞』1998年2月11日西部朝刊第一社会面27頁「沖縄・名護の少女殺害事件 2被告に死刑求刑/那覇地裁」(読売新聞西部本社)</ref>。
第2回公判(1997年5月21日)では、拉致の様子を目撃した男性と、2人が被害者Aの自転車を捨てる模様を目撃した女性の2人が、それぞれ証人尋問として出廷した<ref>『沖縄タイムス』1997年5月22日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中生ら致殺害事件公判 犯行の瞬間生々しく 目撃者が証言」(沖縄タイムス社)</ref>。第3回公判(6月25日)で、検察官からの被告人質問を受けたYは、「遊び半分で、『どっちが殺すかじゃんけんで決めよう』と言った」と証言した一方<ref name="沖縄タイムス1997-06-26"/>、続く第4回公判(7月15日)でUは、「『じゃんけん』の話は一切なかった。YはAの首を手で絞める真似をしながら、自分に殺害を持ちかけたが、その時は真剣だった」と主張した<ref name="琉球新報1997-07-16"/>。


また、Uは第4回公判(同年7月15日)で<ref name="琉球新報1997-07-16"/>、弁護人からの被告人質問に対し、「Aを拉致する直前、『子供だからやめよう』と言った」「朝になったら(Aを)帰そうと思っていたが、Yから『拉致現場を目撃されている』と聞かされ、殺害を決意した」<ref name="沖縄タイムス1997-07-16"/>「当初は殺害の意思はなかったが、Yに誘われて殺害に加わった」「Yは犯行後、女性が運転していた車をヒッチハイクした後、自分に『(車を運転していた女性の)首を絞めて金を取ればよかったと考えなかったか』と発言したり、安謝港(那覇市)で『1人殺すも2人殺すも同じだ。もう1回やるか』と持ち掛けたりしていた」などと主張<ref name="琉球新報1997-07-16"/>。一方、Yは第5回公判(同年8月27日)で、それらのUの主張をすべて否定し、「Uは犯行前、『観光客を狙おう』と言うなど、殺害に至るまでの犯行に自主的に加わっていた。自分がAを絞殺するためにロープを差し出した際も、Uは素直に受け取っていた」と主張した<ref>『琉球新報』1997年8月28日朝刊第1版第一社会面27頁「名護・女子中学生拉致殺害公判 証言に食い違い Y被告とU被告 犯行の役割などで」(琉球新報社)</ref>。第6回公判(同年9月11日)では弁護人がUを<ref name="沖縄タイムス1997-09-12">『沖縄タイムス』1997年9月12日朝刊第1版第一社会面27頁「女子中学生ら致殺害公判 U被告が「従犯」を主張」(沖縄タイムス社)</ref>、第7回公判(同年10月14日)では検察官がY・U両被告人を、それぞれ再度尋問したが、2人は従前通り、「殺害前に『じゃんけん』をした」 (Y) 、「犯行直前まで殺意はなかったが、Yに迫られて殺害におよんだ」 (U) といった主張を繰り返した<ref>『沖縄タイムス』1997年10月15日朝刊第1版第一社会面21頁「名護市の女子中生ら致殺害事件公判 検察側が再主尋問 対立する両被告の証言」(沖縄タイムス社)</ref>。なお、裁判長を務めていた長嶺は、公判中の1997年10月31日付で定年退官<ref name="沖縄タイムス1997-11-02">『沖縄タイムス』1997年11月2日朝刊第1版第二社会面22頁「長嶺裁判長が退官 [[第6次沖縄抗争|警官射殺]]、[[沖縄米兵少女暴行事件|米兵暴行]]に判決」(沖縄タイムス社) - 『沖縄タイムス』縮刷版 1997年(平成9年)11月号60頁</ref>。それ以降の公判では、林秀文が裁判長を務めた<ref name="沖縄タイムス1997-12-20"/><ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。
次回公判(同月24日)で弁護人の最終弁論が行われ<ref name="西日本新聞1998-02-11"/>、第一審の審理は結審した<ref name="琉球新報1998-02-24"/>。同日、弁護人は「事前に殺人の計画はなかった」「[[死刑制度合憲判決事件|死刑制度は憲法違反]]」「被告人2人は深く反省している」などと情状酌量を求め<ref name="琉球新報1998-02-24">{{Cite news|title=女子中学生拉致殺害事件が結審 判決は来月17日|newspaper=琉球新報|date=1998-02-24|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980225d.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202104638/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980225d.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、「最高裁が示した死刑選択の一般的基準に照らし、死刑選択は許されないケースである」と主張した<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊"/>。


第9回公判(同年12月19日)では、検察官の証人として、被害者Aの両親が出廷した<ref name="沖縄タイムス1997-12-20">『沖縄タイムス』1997年12月20日朝刊第1版第一社会面31頁「女子中生ら致殺害公判 両親、極刑求める 娘の苦しみ癒やす判決を」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1997-12-20">『琉球新報』1997年12月20日朝刊第1版第一社会面31頁「女子中学生拉致殺害公判事件公判 両親が証人で出廷 怒り、悲しみ直接被告に」(琉球新報社)</ref>。Aの父親は、両被告人に対し「お前たちは、私たち家族を苦しめるっていう犯罪を今も続けているんだ。お前たちに生きる資格はない」<ref name="朝日新聞1998-01-09">『朝日新聞』1998年1月9日大阪朝刊30頁「絆 子どもたちへ=第1部 父のつぶやき(8) 「きっと助けてあげる」」([[朝日新聞大阪本社]])</ref>「早く(あの世に)行って(娘に)謝ってこい」と陳述したほか、裁判官に対しても両被告人への死刑適用を求めた<ref name="沖縄タイムス1997-12-20"/><ref name="沖縄タイムス1998-03-18"/>。また、Aの母親も、夫(Aの父親)が事件後、「夢を見たい」と言い、夏でも娘が生前使っていた毛布で寝ていることなどを証言した上で、裁判所に対し、「裁判は被害者のためにあるものと信じます」<ref name="沖縄タイムス1997-12-20"/>「娘の苦しみをいやすような判決をお願いします」と陳述した<ref name="琉球新報1997-12-20"/>。
==== 2人に無期懲役 ====
1998年3月17日に[[判決 (日本法)|判決]]公判が開かれ、那覇地裁(林秀文裁判長)は死刑求刑を受けた2被告人を[[懲役#無期懲役|無期懲役]]に処す判決を言い渡した<ref name="沖縄タイムス1998-03-17">『[[沖縄タイムス]]』1998年3月17日夕刊第2版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件 X、Y被告に無期懲役 那覇地裁 死刑適用は退ける」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-03-17">{{Cite news|title=X、Y両被告に無期懲役 名護市の女子中学生拉致殺害|newspaper=琉球新報|date=1998-03-17|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317ea.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202201542/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317ea.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=「無期」に唇かむ遺族ら 女子中学生拉致殺害判決|newspaper=琉球新報|date=1998-03-17|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317eb.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202205609/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317eb.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref name="中日新聞1998-03-17">『中日新聞』1998年3月17日夕刊第一社会面11頁「沖縄の女子中学生殺害 2被告無期判決 那覇地裁 『終生めい福祈れ』」(中日新聞社)</ref>。


一方、[[1998年]](平成10年)1月20日の第10回公判では<ref name="琉球新報1998-01-21">『琉球新報』1998年1月21日朝刊第1版第一社会面21頁「名護市の女子中学生殺害 被告の父親が遺族に謝罪」(琉球新報社)</ref>、被告人Uの父親(北海道在住)が情状証人{{Efn2|Yの情状証人はいなかった<ref name="沖縄タイムス1998-01-21"/>。}}として出廷し、被害者や遺族への謝罪の言葉を述べ、息子に対し「きちんと罪を償ってほしい」と語りかけた<ref name="沖縄タイムス1998-01-21">『沖縄タイムス』1998年1月21日朝刊第1版第一社会面19頁「女子中学生殺人事件公判 U被告の父親が証言 きちんと罪償って」(沖縄タイムス社)</ref>。Uの父は公判の休憩時間中に、検察官と弁護人の計らいで、被害者Aの父親と対面し、土下座して泣き叫びながら謝罪している<ref name="沖縄タイムス1998-03-18"/>。第11回公判(同月29日)で<ref name="琉球新報1998-01-30"/>、裁判官・検察官・弁護人による最後の被告人質問が行われたが、両被告人の主従関係や、殺害を決意した時期などに関する証言は最後まで食い違ったままだった<ref name="琉球新報1998-01-30">『琉球新報』1998年1月30日朝刊第1版第一社会面25頁「名護の女子中学生殺害 3月17日に判決」(琉球新報社)</ref><ref>『沖縄タイムス』1998年1月30日朝刊第1版第一社会面27頁「女子中学生ら致殺害事件公判 判決は3月17日 証言最後まで食い違う」(沖縄タイムス社)</ref>。
那覇地裁 (1998) は[[判決理由]]で、殺人の共謀が成立した時期について、「殺害場所を求めて第二現場(殺害現場)に向かったと考えるのが自然だ。第一現場から第二現場へ移動を開始する時点で、犯行の発覚を免れるためには殺害・死体遺棄しかないと考え、殺害の共謀を暗黙のうちに遂げた」と[[事実認定|認定]]<ref group="注" name="計画性"/><ref name="判決要旨">『沖縄タイムス』1998年3月17日夕刊第2版第二社会面6頁「女子中学生ら致殺害判決要旨」(沖縄タイムス社)</ref>。また、X側が主張していた自首の成立については、「Xは本事件について、ポリグラフ検査を受けた際に、『犯人であることが明らかにならないようにしよう』という姿勢で臨み、その後自白したため、自発的な申告とは言えない」として、自首の成立を認めなかった<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。両被告人の役割分担や、刑事責任の差については「被告人Xが多少主導した面もないわけではない」<ref name="琉球新報1998-03-17"/>と指摘した一方、「X・Yの両者とも、ほぼ同等の実行行為を分担しているため、両者に主従関係や、刑事責任の差はつけ難い」と判断した<ref name="判決要旨"/>。


==== 2人に死刑求刑 ====
その上で、[[量刑]]理由に入り<ref name="判決要旨"/>、「被害者の死亡を確認するまで執拗に首を絞め続け、何の躊躇いもなく遺体を谷底に投げ捨てるなど、極めて冷酷・残忍な犯行で、刑事責任は極めて重大。動機は身勝手で、酌量の余地はない」と指摘し<ref name="中日新聞1998-03-17"/>、「被害者遺族の心情は痛ましいというほかなく、検察の死刑求刑にも相当の理由がある」と認めた<ref name="判決要旨"/>。しかし、その一方で「両被告人とも[[前科]]・前歴はなく、犯罪傾向が強いとは言い難く、更生可能性が肯定できる点」「犯行は場当たり的で杜撰であり、殺人・死体遺棄の計画性{{Efn2|name="計画性"|事前の謀議や、殺害の計画性について、那覇地裁 (1998) は「拉致などについては場当たり的な犯行で、殺人・死体遺棄を決意したのは犯行現場の移動中だった」と認定<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。「計画性そのものは認められるが、当初から被害者の殺害を確定していた事件(身代金目的誘拐殺人など)と比較すると、悪質性の程度は若干の差異があることを否定できず、この事件の殺人・死体遺棄に限れば、計画性は高くない」と判断した<ref name="毎日新聞1998-03-17">『毎日新聞』1998年3月17日西部夕刊一面1頁「中3生女子拉致殺害事件 2被告に死刑求刑退け、無期懲役--沖縄地裁<!--毎日新聞社の記事データベース『毎索』収録の原文ママ-->」(毎日新聞西部本社 記者:野沢俊司)</ref>。弁護人は判決後、「当初から殺害の共謀があったと認定されたら極刑もあり得たかもしれない」と話している<ref name="米倉">『琉球新報』1998年3月17日夕刊第2版第二総合面2頁「解説 死刑制度の論議に一石 被害者救済の視点必要」(琉球新報社 社会部:米倉外昭)</ref>。}}は高くない」「両被告人とも反省して被害者遺族に深く謝罪している」といった、両被告人に対し有利な事情も指摘した上で<ref name="判決要旨"/>、「死刑の適用は慎重である必要があり、近年は死刑適用に慎重な量刑の実情がある{{Efn2|本事件の第一審判決以前には、[[名古屋アベック殺人事件]](1988年発生)の控訴審判決(1996年12月/[[少年犯罪|犯行時少年]]で、第一審で死刑判決を受けていた被告人に無期懲役判決)や<ref>『中日新聞』1996年12月16日夕刊一面1頁「主犯格19歳(当時)に無期 アベック殺人控訴審 死刑破棄し減軽 名古屋高裁 ××被告も13年に」(中日新聞社)</ref>、[[甲府信金OL誘拐殺人事件]](1993年発生)の控訴審判決(1996年4月)など、(特に被害者1人の事件で)検察側が死刑を求刑した事件で死刑が回避される判決が相次いでいた<ref name="読売新聞2005-05-03">『読売新聞』2005年5月3日東京朝刊第二社会面30頁「[検察官]第1部 被害者を前に(7)『死刑求刑』異例の連続上告」(読売新聞東京本社)</ref>。その流れに検察当局は危機感を強め、[[福山市独居老婦人殺害事件]]の控訴審判決(1997年2月/無期懲役刑の受刑者が[[仮釈放]]中に強盗殺人を[[累犯|再犯]]した事件)<ref>『[[中国新聞]]』1997年2月5日朝刊第17版第一社会面25頁「三原の独居老人強殺 2被告に『無期』判決 広島高裁 量刑適当と一審支持」([[中国新聞社]])</ref>について、「著しく正義に反している」として最高裁へ上告<ref name="読売新聞2005-05-03"/>。それ以降も1998年1月までに、死刑求刑に対し控訴審で言い渡された無期懲役判決4件<ref name="読売新聞1999-11-30 社説"/>(いずれも死刑求刑)<ref>『毎日新聞』1999年10月27日東京夕刊社会面8頁「死刑との線引きどこで 無期不服の検察が上告、最高裁が初判断--国立の強殺事件で」(毎日新聞東京本社 記者:小出禎樹)</ref>について、相次いで最高裁へ上告した<ref name="読売新聞1999-11-30 社説">『読売新聞』1999年11月30日東京朝刊三面「[社説]死刑か無期か、の重い問い」(読売新聞東京本社)</ref>。{{See also|福山市独居老婦人殺害事件#広島高検が死刑適用を求め上告|国立市主婦殺害事件#東京高検が死刑適用を求め上告}}}}。それを考え合わせると、2人とも死刑で処断するには躊躇を感じる。終生にわたり被害者の冥福を祈らせ、贖罪の道を歩ませるべきである」と結論付けた<ref name="中日新聞1998-03-17"/>。
1998年2月10日に、那覇地裁(林秀文裁判長)で[[論告]][[求刑]]公判が開かれ、検察官は2被告人に[[日本における死刑|死刑]]を求刑した<ref name="沖縄タイムス1998-02-11">『沖縄タイムス』1998年2月11日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件 Y、U被告に死刑求刑 那覇地検「極刑しかない」 判決は3月17日」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-02-11">{{Cite news|title=Y、U両被告に死刑求刑 名護市の女子中学生拉致事件|newspaper=琉球新報|date=1998-02-11|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|author=|accessdate=1999-02-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990210082057/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|archivedate=1999年2月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=「無念さ」思えば極刑 女子中学生拉致殺害事件論告求刑|newspaper=琉球新報|date=1998-02-11|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211c.htm|author=|accessdate=1998-12-01|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19981201070232/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211c.htm|archivedate=1998年12月1日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。沖縄県内での死刑求刑は当時、[[第6次沖縄抗争|暴力団抗争・2警官殺害事件]](1997年10月に無期懲役判決){{Efn2|1990年11月23日夜、三代目[[旭琉會]]錦一家の隠れアジト近く(沖縄市胡屋)で、暴力団抗争の警戒に当たっていた沖縄県警の警部(当時43歳)と警部補(同42歳)が、同組の組員により、対立組織の組員と勘違いされて射殺された事件<ref>{{Cite news|title=沖縄・旭琉会抗争から30年、2警官殺害の××容疑者の捜索続く 強まる死亡説|newspaper=琉球新報|date=2020-11-23|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1229947.html|accessdate=2021-11-29|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211129145742/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1229947.html|archivedate=2021年11月29日}}</ref>。同事件では、1997年7月8日の第50回公判で、那覇地検が死刑を求刑した一方<ref>{{Cite news|title=元組員に死刑求刑 暴力団抗争中の警察官2人射殺事件|newspaper=琉球新報|date=1997-07-09|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/kiji01/970709e.htm|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19991003001156/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/kiji01/970709e.htm|archivedate=1999年10月3日}}</ref>、弁護人は無罪を主張していたが、那覇地裁(長嶺信栄裁判長)が同年10月30日に無期懲役の判決を言い渡し<ref>{{Cite news|title=2警官殺害に無期懲役 那覇地裁、元組員に判決|newspaper=琉球新報|date=1997-10-30|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/kiji04/971030ea.htm|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990128135731/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/kiji04/971030ea.htm|archivedate=1999年1月28日}}</ref>、確定した<ref>{{Cite news|title=「警官が撃たれた」沖縄抗争の凄惨さ 殉職2氏への誓い 共犯者は既に死亡か|newspaper=沖縄タイムス|date=2018-11-27|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/349291|accessdate=2021-11-29|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210118045931/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/349291|archivedate=2021年1月18日}}</ref>。}}以来だった<ref>『琉球新報』1998年2月11日朝刊第1版第一社会面25頁「死刑廃止まで進歩していない 死刑求刑への反響 非人間的な刑罰、慎重に判決を」(琉球新報社)</ref>。


検察官は論告で、両被告人の主従関係や、犯行行為の役割分担について、「2人の罪に責任の軽重はなく、同等である。Uの『主犯はYで、自分は従犯だった』という主張は卑劣な弁解で、犯行態様から見れば決して従属的な立場ではなかった」と<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>、殺意や計画性についても「拉致から死体遺棄まで、当初の計画通りわずか2時間半で終了しており、極めて計画的な犯行」<ref>『毎日新聞』1998年2月11日西部朝刊社会面「名護の女子中学生殺害事件 2被告に死刑求刑--那覇地裁」(毎日新聞西部本社)</ref>「捜査段階での自供通り、両被告人とも事前に殺害を計画していた。公判で2人が『殺意は突発的だった』と主張を翻したのは、罪の軽減を狙ったもので、反省も見られない」と主張した<ref>『沖縄タイムス』1998年2月11日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中学生殺害に死刑求刑 検察、厳しく糾弾 体を震わせる被告ら 父親「思い語ってくれた」」(沖縄タイムス社)</ref>。また、Yの弁護人が自首の成立を主張した点についても、「Yは出頭した時点で殺害について供述しておらず、沖縄に連行された後、取調べ中に自白したのであって、自首は成立しない」と主張した<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>。その上で、犯行を「何の落ち度もない非力な少女を狙って殺害した最も極悪非道な部類に属する犯罪で、その罪質は極めて凶悪・重大」と非難し<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>、動機に酌量の余地がない点や<ref name="琉球新報1998-02-11"/>、遺族の被害感情の峻烈さ、そして教育現場・県民全体に与えた多大な衝撃などについても言及し、「罪刑の均衡、一般予防の見地からも、[[永山基準|永山判決やその後の最高裁判例が示した死刑選択の基準]]からも、極刑をもって臨むしかない」と結論づけた<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>。
那覇地検は量刑不当を理由に、1998年3月31日付で[[福岡高等裁判所那覇支部]]へ[[控訴]]した<ref>『読売新聞』1998年4月1日西部V朝刊第一社会面35頁「『無期懲役は不当』地検が控訴/沖縄・名護の中3殺害事件」(読売新聞西部本社)</ref>。

次回公判(同月24日)で弁護人の最終弁論が行われ<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>、第一審の審理は結審した<ref name="沖縄タイムス1998-02-25">『沖縄タイムス』1998年2月25日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中学生殺害 弁護団、酌量の余地を主張 「死刑は許されない」 判決は3月17日」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-02-25">{{Cite news|title=女子中学生拉致殺害事件が結審 判決は来月17日|newspaper=琉球新報|date=1998-02-25|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980225d.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202104638/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980225d.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。両被告人の弁護団は、それぞれ殺害の計画性を否定した上で、「殺害・死体遺棄については、計画性がないなど、情状酌量の余地がある」と主張し、死刑についても、「永山判決」以降、被害者1人で死刑が確定した事例は、強盗殺人や身代金目的誘拐殺人、被告人に重大前科があった場合などに限られていることを挙げ<ref group="注" name="被害者1人死刑確定"/>、「最高裁が示した死刑選択の一般的基準に照らし、死刑選択は許されないケースである」<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊"/>「[[死刑制度合憲判決事件|死刑制度は公権力による殺人であり、憲法違反]]」などと主張<ref name="琉球新報1998-02-25"/>。このほか、Yの弁護人は、殺害・死体遺棄に関して自首が成立する点<ref name="琉球新報1998-02-25"/>、両被告人の立場が対等であった点を主張した一方、Uの弁護人は「Uは終始Yに従属的で、殺害直前までその意思はなかった」と主張した<ref name="沖縄タイムス1998-02-25"/>。最終意見陳述で、両被告人はそれぞれ被害者や遺族への謝罪の言葉を述べた<ref name="琉球新報1998-02-25"/>。

==== 無期懲役の判決 ====
1998年3月17日に[[判決 (日本法)|判決]]公判が開かれ、那覇地裁(林秀文裁判長)は死刑求刑を受けた2被告人を[[懲役#無期懲役|無期懲役]]に処す判決を言い渡した<ref name="沖縄タイムス1998-03-17">『[[沖縄タイムス]]』1998年3月17日夕刊第2版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件 Y、U被告に無期懲役 那覇地裁 死刑適用は退ける」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-03-17">{{Cite news|title=Y、U両被告に無期懲役 名護市の女子中学生拉致殺害|newspaper=琉球新報|date=1998-03-17|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317ea.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202201542/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317ea.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=「無期」に唇かむ遺族ら 女子中学生拉致殺害判決|newspaper=琉球新報|date=1998-03-17|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317eb.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202205609/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317eb.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。

那覇地裁 (1998) は[[判決理由]]で、殺人の共謀が成立した時期について、「殺害場所を求めて第二現場(殺害現場)に向かったと考えるのが自然だ。第一現場から第二現場へ移動を開始する時点で、犯行の発覚を免れるためには殺害・死体遺棄しかないと考え、殺害の共謀を暗黙のうちに遂げた」と[[事実認定|認定]]<ref name="判決要旨">『沖縄タイムス』1998年3月17日夕刊第2版第二社会面6頁「女子中学生ら致殺害判決要旨」(沖縄タイムス社)</ref>。また、Y側が主張していた自首の成立については、「Yは本事件について、ポリグラフ検査を受けた際に、『犯人であることが明らかにならないようにしよう』という姿勢で臨み、その後自白したため、自発的な申告とは言えない」として、自首の成立を認めなかった<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。

[[量刑]]理由では、両被告人の役割分担や、刑事責任の差について「被告人Yが多少主導した面もないわけではないが、Y・Uの両者とも、ほぼ同等の実行行為を分担しているため、両者に主従関係や、刑事責任の差はつけ難い」という判断を示した上で、「犯行は極めて卑劣・非情。被害者が死亡したと確信するまで首を執拗に絞め続け、殺害直後、何の躊躇いもなく遺体を投げ捨てた。平和な農村地帯で起きた本事件は、教育現場・地域社会を震撼させ、地元や県全体に不安と恐怖を与えた」と指摘<ref name="判決要旨"/>。そして、遺族の被害感情や、検察官の死刑求刑については、「何の落ち度もない被害者が夢多い将来を永久に奪われた事件であり、遺族の悲しみ・絶望・怒りは絶大で、極刑を望んでいることも無理からぬものがある。両名の刑事責任は極めて重大で、検察官の死刑求刑にも相応の理由がある」と理解を示した<ref name="判決要旨"/>。

しかしその一方で、被告人らにとって有利な事情として、拉致などについては場当たり的な犯行である点や<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>、殺人・死体遺棄に限れば計画性は高くなく{{Efn2|弁護人は判決後、「当初から殺害の共謀があったと認定されたら極刑もあり得たかもしれない」と話している<ref name="米倉">『琉球新報』1998年3月17日夕刊第2版第二総合面2頁「解説 死刑制度の論議に一石 被害者救済の視点必要」(琉球新報社 社会部:米倉外昭)</ref>。}}、拉致を行った時点では殺害を漠然と考えていたに過ぎない点を挙げ、「当初から殺害を確定していた身代金目的誘拐殺人のような事例と比較すると、悪質さの程度には若干の差異がある」と指摘した<ref name="判決要旨"/>。その上で、Y・Uの両名とも、前科・前歴はなく、逮捕後には犯行を自白し、反省・謝罪の念を深めていることについても言及し、「犯罪傾向が強いとも言い難く、更生可能性は肯定できる」と判示した<ref name="判決要旨"/>。

そして、「[[永山基準|死刑は、罪責が誠に重大で、罪責の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合に選択が許される究極の刑罰であり、その適用には慎重でなければならない。]]被告人らにとって有利に斟酌すべき事情がないとまでは言えず、近年死刑の適用に慎重になっている量刑の実情{{Efn2|本事件の第一審判決以前には、[[名古屋アベック殺人事件]](1988年発生)の控訴審判決(1996年12月:[[少年犯罪|犯行時少年]]で、第一審で死刑判決を受けていた被告人に無期懲役判決)や<ref>『中日新聞』1996年12月16日夕刊一面1頁「主犯格19歳(当時)に無期 アベック殺人控訴審 死刑破棄し減軽 名古屋高裁 ××被告も13年に」(中日新聞社)</ref>、[[甲府信金OL誘拐殺人事件]](1993年発生)の控訴審判決(1996年4月)など、(特に被害者1人の事件で)検察側が死刑を求刑した事件で死刑が回避される判決が相次いでいた<ref name="読売新聞2005-05-03">『読売新聞』2005年5月3日東京朝刊第二社会面30頁「[検察官]第1部 被害者を前に(7)『死刑求刑』異例の連続上告」(読売新聞東京本社)</ref>。その流れに危機感を強めた検察当局は、[[福山市独居老婦人殺害事件]]の控訴審判決(1997年2月/無期懲役刑の受刑者が[[仮釈放]]中に強盗殺人を[[累犯|再犯]]した事件)<ref>『[[中国新聞]]』1997年2月5日朝刊第17版第一社会面25頁「三原の独居老人強殺 2被告に『無期』判決 広島高裁 量刑適当と一審支持」([[中国新聞社]])</ref>について、「著しく正義に反している」として最高裁へ上告<ref name="読売新聞2005-05-03"/>。それ以降も1998年1月までに、死刑求刑に対し控訴審で言い渡された無期懲役判決4件<ref name="読売新聞1999-11-30 社説"/>(いずれも死刑求刑)<ref>『毎日新聞』1999年10月27日東京夕刊社会面8頁「死刑との線引きどこで 無期不服の検察が上告、最高裁が初判断--国立の強殺事件で」(毎日新聞東京本社 記者:小出禎樹)</ref>について、相次いで最高裁へ上告した<ref name="読売新聞1999-11-30 社説">『読売新聞』1999年11月30日東京朝刊三面「[社説]死刑か無期か、の重い問い」(読売新聞東京本社)</ref>。{{See also|福山市独居老婦人殺害事件#広島高検が死刑適用を求め上告|国立市主婦殺害事件#東京高検が死刑適用を求め上告}}}}をも考えあわせると、死刑をもって処断するにはなお躊躇を感じざるを得ない」として<ref name="判決要旨"/>、「被告人らには、犯行がいかに罪深いものであるかを自覚させつつ、終生、被害者の冥福を祈らせ、贖罪の道を歩ませるのが相当である」と結論づけた<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。

那覇地検は量刑不当を理由に、1998年3月30日付で[[福岡高等裁判所那覇支部]]へ[[控訴]]した<ref name="沖縄タイムス1998-03-31">『沖縄タイムス』1998年3月31日夕刊第2版第一社会面7頁「女子中学生ら致殺害 検察が控訴」(沖縄タイムス社)</ref>。一方、被告人2人は控訴しなかった{{Efn2|判決後、被告人側の<!--どちらの被告人 (Y・U) かは不明-->弁護人を務めた弁護士の池宮城紀夫は、「遺族の感情からすると死刑にならず不満が大きいかもしれないが、弁護団としては妥当な判決だ。死刑はそれ以外に選択の余地がない場合にのみ許されると思う。2人とも『取り返しのつかないことをした。極刑になっても臨む』と言っており、控訴しないのではないか」と述べていた<ref name="毎日新聞1998-03-17 2"/>。}}。


=== 控訴審 ===
=== 控訴審 ===
[[1999年]](平成11年)1月14日、福岡高裁那覇支部(岩谷憲一裁判長)で両被告人の控訴審初公判が開かれ、検察官は控訴理由をまとめた控訴趣意書と補充書を、両被告人の弁護人側は答弁書をそれぞれ提出した<ref name="沖縄タイムス1999-01-14">『沖縄タイムス』1999年1月14日夕刊第2版第一社会面5頁「女子中学生ら致殺害事件 控訴審で極刑求める」(沖縄タイムス社) - 『沖縄タイムス』縮刷版 1999年(平成11年)1月号477頁</ref>。控訴趣意書の内容は、「犯行は、役割分担や準備をした上での計画的犯行であり、態様も執拗・冷酷・残虐。遺族の処罰感情は以前強く、両被告人の更生可能性は認めがたいことなどを考えれば、刑事責任は重大。極刑をもって臨むほかない」として、原判決を破棄し、2人を死刑に処すよう求めるものだった<ref name="琉球新報1999-01-14">『琉球新報』1999年1月14日夕刊第2版第一社会面3頁「女子中学生拉致殺害事件 検察「無期破棄し極刑を」 福岡高裁那覇支部 控訴審初公判始まる」(琉球新報社)</ref><ref>{{Cite news|title=検察「無期破棄し極刑を」/女子中学生拉致殺害事件/控訴審初公判始まる/福岡高裁那覇支部|newspaper=琉球新報|date=1999-01-14|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9901/990114ee.html|author=|accessdate=2000-03-09|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000920000825/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9901/990114ee.html|archivedate=2000年9月20日}}</ref>。一方、弁護人側は、[[永山基準|最高裁判例]]や世界的な死刑制度の潮流、そして日本国内では死刑適用件数が1965年(昭和40年)以降、著しく減少していることなどを挙げ、「死刑の適用が許される基準を満たさない」として、検察官の控訴を棄却するよう求めた<ref name="琉球新報1999-01-14"/>。
検察は控訴審でも改めて死刑を求めたが<ref>{{Cite news|title=検察、再び死刑求刑/女子中学生殺害事件が結審|newspaper=琉球新報|date=1999-07-13|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9907/990713eb.html|author=|accessdate=2000-03-09|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000309012238/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9907/990713eb.html|archivedate=2000年3月9日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)は[[1999年]](平成11年)9月30日に、2被告人を無期懲役とした第一審判決を支持し、検察官の控訴を[[棄却]]する判決を言い渡した<ref name="琉球新報1999-09-30">{{Cite news|title=2被告に再び無期懲役/女子中学生拉致殺害事件控訴審|newspaper=琉球新報|date=1999-09-30|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|author=|accessdate=2000-09-19|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000919185006/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9909/990930ea.html|archivedate=2000年9月19日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref name="東京新聞1999-09-30">『東京新聞』1999年9月30日夕刊第一社会面11頁「沖縄の中3女子殺害 二審も『無期』 福岡高裁那覇支部」(中日新聞東京本社)</ref>。福岡高裁那覇支部 (1999) は判決理由で、「犯行は残忍・卑劣で酌量の余地はなく、被害者遺族の処罰感情も激しい。社会一般に与えた影響も無視できず、遺族が極刑を切実に希求する心情も十分に理解できるが、[[永山基準|最高裁判例が示す死刑適用基準]]に沿って検討すると、殺害された被害者は1人で、暴行にも場当たり的・杜撰な面があり、計画性が高いとは言い切れない。両被告人とも前科・前歴はなく、更生可能性は皆無ではないことを考慮すれば、極刑がやむを得ない(無期懲役は軽すぎる)とは言えない」と述べた<ref name="琉球新報1999-09-30"/>。


第2回公判(同年3月11日)から、裁判長は飯田敏彦に交代した<ref name="沖縄タイムス1999-03-12"/>。同日、検察側の証人として被害者Aの両親が出廷し{{Efn2|Aの両親の出廷は、第一審の第9回公判以来<ref>『琉球新報』1999年3月12日朝刊第1版第一社会面31頁「女子中生拉致殺害控訴審 被害者の両親極刑を求める」(琉球新報社)</ref>。}}、「1人も2人も人の命は一緒だ。数の問題ではない」「殺害現場は人里離れた場所で、計画性は完全にあったはずだ。そもそも計画性が問題ではなく、犯行内容やその結果を重視すべきだ」「犯罪者は法律で人権が守られているのに、亡くなったわが子や家族には人権はないのでしょうか」などと述べ、2人を死刑にするよう改めて求めた<ref name="沖縄タイムス1999-03-12">『沖縄タイムス』1999年3月12日朝刊第1版第一社会面29頁「女子中学生ら致殺害事件控訴審 両親が証人尋問であらためて死刑求める」(沖縄タイムス社) - 『沖縄タイムス』縮刷版 1999年(平成11年)3月号375頁</ref>。証人尋問後、検察官は目撃証人の出廷と、[[実況見分|現場検証]]を求めたが、裁判所はいずれも却下した<ref name="沖縄タイムス1999-03-12"/>。
同判決に対し、[[福岡高等検察庁那覇支部]]は[[上告]]するか否か検討したが、判例違反などの上告理由を見い出せなかったため、上告を断念<ref>『毎日新聞』1999年10月13日西部夕刊社会面「検察が上告を断念--沖縄の中学生拉致殺害事件」(毎日新聞西部本社)</ref>。弁護人も上告しなかった{{Efn2|被告人Xの弁護人を担当した弁護士・太田朝章は控訴審判決後に『毎日新聞』記者からの取材に対し「(控訴棄却は)予想していたが、被告人Xはそれまで『極刑にしてくれ』と言っており、判決を喜んではいないだろう。弁護人としては上告は考えていない」と説明した<ref>『毎日新聞』1999年9月30日西部夕刊社会面「女子中学生拉致殺害事件 福岡高裁那覇支部判決『確定的な殺意ない』」(毎日新聞西部本社)</ref>。}}<ref>『読売新聞』1999年10月14日西部朝刊第一社会面33頁「女子中学生拉致、殺害 2被告の無期判決が確定へ/沖縄」(読売新聞西部本社)</ref>ため、2人とも無期懲役が[[確定判決|確定]]した{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。

同年4月16日の公判では、被告人Uへの被告人質問が行われた。Uは弁護人からの質問に対し、「(死刑求刑に対し、無期懲役の判決を言い渡されたことについて)安堵感はあったが、本当にこれでいいのかとも思った」「責任の取り方として死刑になっても仕方ない」と答えた一方、検察官から拉致・殺害の計画性の有無を追及されると、「計画的ではなかった」と否定した<ref>『沖縄タイムス』1999年4月16日夕刊第1版第一社会面7頁「女子中学生ら致殺害 控訴審でU被告「死刑も仕方ない」」(沖縄タイムス社) - 『沖縄タイムス』縮刷版 1999年(平成11年)4月号545頁</ref>。

控訴審は同年7月13日の公判(最終弁論)で結審した。検察官は、Aのリュックサックからわずかな所持金を奪った行為を「強盗殺人に匹敵する悪質性を有する」と指摘した上で、犯行の計画性・残虐性や<ref name="沖縄タイムス1999-07-14">『沖縄タイムス』1999年7月14日朝刊第1版第一社会面21頁「女子中学生ら致殺害事件 控訴審でも死刑求刑 高検那覇支部」(沖縄タイムス社)</ref>、2人が真に反省しておらず、更生可能性が認められないこと<ref name="琉球新報1999-07-13">{{Cite news|title=検察、再び死刑求刑/女子中学生殺害事件が結審|newspaper=琉球新報|date=1999-07-13|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9907/990713eb.html|author=|accessdate=2000-03-09|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000309012238/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9907/990713eb.html|archivedate=2000年3月9日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、遺族の処罰感情が峻烈であり、一般社会の通念にも合致していることを主張し、「2人の刑事責任は重大で、一審判決は軽きに失し、極刑をもって臨むべき特別の必要性が高い事件である」と主張した<ref name="沖縄タイムス1999-07-14"/>。一方、両被告人の弁護人側は、「両親が被告人に死刑を望んでいる心情は十分に理解できる」とした上で<ref name="琉球新報1999-07-13"/>、2人が心から反省していることを主張<ref name="沖縄タイムス1999-07-14"/>。「国家によってなされる死刑は究極の峻厳な刑罰である」と位置づけた上で<ref name="琉球新報1999-07-13"/>、「死刑の適用可否は厳格に判断すべきで、適用の可能性があるか否かではなく、回避する可能性があるか否かを詳細に検討し、無期懲役の選択の可能性のある事情が一つでもあれば、回避すべきである」<ref name="沖縄タイムス1999-09-30"/>「(本事件は)過去の死刑適用例に当てはめても適用は許されない」と主張し、控訴棄却を求めた<ref name="沖縄タイムス1999-07-14"/>。

==== 無期懲役が確定 ====
福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)は1999年9月30日、2被告人を無期懲役とした第一審判決を支持し、検察官の控訴を[[棄却]]する判決を言い渡した<ref name="沖縄タイムス1999-09-30">『沖縄タイムス』1999年9月30日夕刊第3版総合面1頁「女子中学生拉致殺害事件 両被告に再び無期懲役 高裁那覇支部 一審判決を支持 控訴棄却「極刑に当たらず」」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1999-09-30">{{Cite news|title=2被告に再び無期懲役/女子中学生拉致殺害事件控訴審|newspaper=琉球新報|date=1999-09-30|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|author=|accessdate=2000-09-19|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000919185006/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9909/990930ea.html|archivedate=2000年9月19日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref name="東京新聞1999-09-30">『東京新聞』1999年9月30日夕刊第一社会面11頁「沖縄の中3女子殺害 二審も『無期』 福岡高裁那覇支部」(中日新聞東京本社)</ref>。福岡高裁那覇支部 (1999) は判決理由で、「犯行は残忍・卑劣で酌量の余地はなく、被害者遺族の処罰感情も激しい。社会一般に与えた影響も無視できず、遺族が極刑を切実に希求する心情も十分に理解できるが、[[永山基準|最高裁判例が示す死刑適用基準]]に沿って検討すると、殺害された被害者は1人で、暴行にも場当たり的・杜撰な面があり、計画性が高いとは言い切れない。両被告人とも前科・前歴はなく、更生可能性は皆無ではないことを考慮すれば、極刑がやむを得ない(無期懲役は軽すぎる)とは言えない」と述べた<ref name="琉球新報1999-09-30"/>。

同判決に対し、[[福岡高等検察庁那覇支部]]は[[上告]]するか否か検討したが、判例違反などの上告理由を見い出せなかったため、同年10月13日、上告を断念することを決めた<ref name="沖縄タイムス1999-10-14">『沖縄タイムス』1999年10月14日朝刊第1版第一社会面27頁「女子中学生ら致殺害事件 検察側が上告断念 2被告の無期確定」(沖縄タイムス社)</ref>。弁護人も上告しなかった{{Efn2|控訴審で被告人Yの弁護人を担当した弁護士の太田朝章は、控訴審判決後に『毎日新聞』記者からの取材に対し「(控訴棄却は)予想していたが、被告人Yはそれまで『極刑にしてくれ』と言っており、判決を喜んではいないだろう。弁護人としては上告は考えていない」と述べた一方<ref>『毎日新聞』1999年9月30日西部夕刊社会面「女子中学生拉致殺害事件 福岡高裁那覇支部判決『確定的な殺意ない』」(毎日新聞西部本社)</ref>、Yが被害者への慰謝の措置を講じておらず、それが判決で指摘されたことにも言及し、「弁護人として、何らかの慰謝をするようアドバイスしていきたい」と述べていた<ref name="琉球新報1999-09-30社会"/>。また、被告人Uの弁護人を務めた三宅俊司も「今のところ上告は考えていない。Uには一刻も早く刑に服して罪を償ってほしい」と述べていた<ref name="琉球新報1999-09-30社会">『琉球新報』1999年9月30日夕刊第2版社会面3頁「女子中学生拉致殺害事件 「被害者がかわいそう」 涙ぐむ傍聴者も 遺族は姿見せず」(琉球新報社)</ref>。}}<ref>『読売新聞』1999年10月14日西部朝刊第一社会面33頁「女子中学生拉致、殺害 2被告の無期判決が確定へ/沖縄」(読売新聞西部本社)</ref>ため、2人とも無期懲役が[[確定判決|確定]]した<ref name="沖縄タイムス1999-10-14"/>。


== 影響 ==
== 影響 ==
事件は沖縄県の教育関係者に大きな衝撃を与え、事件後、地元では日中でも両親が子供たちを車で送迎する姿が目立つようになった<ref name="砕かれた願い5">『沖縄タイムス』1997年1月8日朝刊第2版第一社会面21頁「砕かれた願い 女子中学生ら致殺害事件 <5> 教訓 青少年への影響懸念」(沖縄タイムス社)</ref>。Aの通っていた羽地中学校は事件後の夏休み前、三者面談で各生徒の通学路を点検し、危険な箇所を避けて通るように指導した<ref name="琉球新報1996-08-22"/>。また、県子ども会育成連絡協議会の事務局長を務めていた安田恵美子は、Aが道を尋ねてきた犯人たちに対し、親切に教えようとしたことを利用されて拉致されたことに言及し、事件がもたらした青少年への心理的影響(子どもたちの他人や大人に対する不信感)を懸念した<ref name="砕かれた願い4"/>。沖縄県教育庁は1997年1月3日の緊急課長会議で、児童生徒への安全指導について協議し、県内の各小中高校に対し、事件の再発防止に向けた体制確立(登下校の細かい指導や、声掛け運動など)を伝えたが<ref>『沖縄タイムス』1997年1月4日朝刊第1版第二社会面30頁「県教育庁が緊急課長会議 安全指導強化へ 全小中高校に伝達」(沖縄タイムス社)</ref>、同庁内部からは、学校の指導体制の限界を指摘する声や{{Efn2|羽地中では事件前、「知らない人にも挨拶をするように」と指導していたことから、同校の校長は「今後は(知らない人には)警戒するように指導せねばならない。教師側からも戸惑いが見える」と、仲里も「不審者を見かけたら友達や教員、近くの大人に連絡することが危機回避につながるが、学校では『人を見たら泥棒と思え』というような指導はできない」とそれぞれ述べていた<ref name="砕かれた願い5"/>。}}、「この種の事件は避けようがない。社会全体が連携せねば再発は防げない」という声も上がっていた<ref name="砕かれた願い5"/>。
[[名護市議会]]は事件発生直後(1996年6月24日)、(当時行方不明だった)被害者Aの捜索に参加するため、開会中の議会の一時休会を全会一致で決定した<ref name="経過"/>。また、事件発生から1か月となる同年7月15日、名護市商工会青年部はAの捜索を優先するため、同月26日から予定されていた「第20回[[名護夏祭り]]」の中止を決定した<ref>{{Cite news|title=名護市 女子中学生ら致事件で夏祭り中止|newspaper=琉球新報|date=1996-07-16|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960716ja.htm|author=|accessdate=1999-02-24|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990224083138/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960716ja.htm|archivedate=1999年2月24日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。


本事件をきっかけに、県北部における機動捜査力の脆弱性が判明したため、沖縄県警は名護市内に[[機動捜査隊]]・[[自動車警ら隊]]の分駐所を設置することを計画した<ref>『読売新聞』1997年2月4日西部朝刊第一社会面27頁「沖縄の女子中学生殺人 Y被告が拉致計画」(読売新聞西部本社)</ref>。
なお、名護市では1996年から年末年始に[[名護市立東江中学校|東江中学校]]出身の新成人らが、銭ケ森の斜面に「光文字」を点灯する行事を行っているが、1997年(2回目)は本事件の被害者を追悼する「花」の文字が点灯された<ref>{{Cite news|title=名護の光文字“20歳”で区切り 1月11日最後の点灯|newspaper=琉球新報|date=2014-12-29|url=https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-236592.html|author=嘉陽拓也|accessdate=2020-06-07|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607160832/https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-236592.html|archivedate=2020年6月7日}}</ref>。また、被害者Aの地元である羽地では「花バンド」が[[沖縄音楽|沖縄民謡]]を通じて人々を元気づけたり、[[空手]][[道場]]を開いて子供たちに[[護身術|自衛]]を教えたりなどの活動を開始した<ref>EGGHEADS LLCより発売されたDVD『MIYAGI PEACE -EGGHEADS IN OKINAWA-』(2010年7月7日発売 / 出演:EGGHEADS、花バンド、羽地警備隊、カクマクシャカなど)の商品紹介([https://www.amazon.co.jp/dp/B003RORHA2 Amazon.co.jp]より)。</ref>。


[[名護市議会]](議長:我喜屋宗弘)は事件発生直後の1996年6月24日、当時行方不明だった被害者Aの捜索に参加するため、開会中だった定例会を同月末まで一時休会し、捜索活動に専念することを<ref name="琉球新報1996-06-24">『琉球新報』1996年6月24日夕刊第1版第一社会面7頁「【名護】名護市議会、捜索協力で休会」(琉球新報社)</ref>、全会一致で決定した<ref name="読売新聞1997-01-03経過">『読売新聞』1997年1月3日西部朝刊第一社会面31頁「女子中学生殺人事件経過」([[読売新聞西部本社]])</ref>。また、事件発生から1か月となる同年7月15日、名護市商工会青年部はAの捜索を優先するため、同月26日から予定されていた「第20回[[名護夏祭り]]」の中止を決定した<ref name="琉球新報1996-07-16">{{Cite news|title=名護市 女子中学生ら致事件で夏祭り中止|newspaper=琉球新報|date=1996-07-16|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960716ja.htm|author=|accessdate=1999-02-24|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990224083138/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960716ja.htm|archivedate=1999年2月24日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。
被害者Aの父親は、「九州・沖縄犯罪被害者連絡会」(みどりの風)に所属し、同会により2016年・2019年にそれぞれ那覇市内で開催された「九州・沖縄犯罪被害者大会in沖縄」{{Efn2|2016年は第6回<ref name="琉球新報2016-05-23"/>、2019年は第8回<ref name="沖縄タイムス2019-10-06"/>。}}の大会実行委員長を務めた<ref name="琉球新報2016-05-23">{{Cite news|title=九州・沖縄犯罪被害者大会 7月16日に沖縄で初開催 参加を呼び掛け|newspaper=琉球新報|date=2016-05-23|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-284444.html|author=|accessdate=2020-06-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200610090705/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-284444.html|archivedate=2020年6月10日}}</ref><ref name="沖縄タイムス2019-10-06">{{Cite news|title=「いつ誰が犯罪被害に」 強盗致死や交通事故の遺族、思い語る 26日那覇で被害者大会 被害当事者の相談会も|newspaper=[[沖縄タイムス]]|date=2019-10-06|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/479634|author=|accessdate=2020-06-10|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200610091221/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/479634|archivedate=2020年6月10日}}</ref>。2003年(平成15年)12月7日付の『[[琉球新報]]』では、[[島尻郡]][[佐敷町 (沖縄県)|佐敷町]](現:[[南城市]])在住の女性が被害者Aの父親に対し、Aを追悼する歌2曲を収録した自主制作[[コンパクトディスク|CD]]を贈呈したことが報じられた<ref>{{Cite web|url=https://ssp.kaigiroku.net/tenant/nago/MinuteView.html?council_id=23&schedule_id=6&minute_id=92&tab=list|title=名護市 平成15年第133回名護市定例会 12月11日-05号|accessdate=2021-06-21|publisher=名護市|date=2003-12-11|website=名護市議会|quote=P.283 ◆質問 10番(宮里繁君)|language=ja}}</ref><ref>『琉球新報』2003年12月7日<!--朝刊か夕刊か、またページ数は不明-->「事件を忘れないで 名護の中学生拉致殺害、あなたは空になって生きている 佐敷町の〇〇さん 父親に自主CDを送る」(琉球新報社)</ref>。


事件発生を重視した[[島尻郡]][[南風原町]]議会は、1996年6月27日の本会議で「町民の安全を確立し、夜間での路上犯罪のない明るい町づくりを図る」とうたった「明るく安全な町づくり宣言」を決議した<ref>『琉球新報』1996年6月28日朝刊第1版第一社会面29頁「【南風原】「明るい町づくり宣言」決議 ら致事件で南風原町議会」(琉球新報社)</ref>。
遺棄現場(国頭村楚洲)<ref group="注" name="遺棄現場"/>には、事件後の1997年3月、ボランティア団体・子どもたちを守る会「花」{{Efn2|name="花"|「子どもたちを守る会・花」<ref name="琉球新報1998-03-17 3"/>「子ども達を守る会・花」との表記もある<ref name="琉球新報2021-06-21"/>。「花」は1997年2月、捜査に協力した被害者Aの父親の同僚たちや、地元の有志ら約20人により結成され、交代で下校時などのパトロールを行ったり<ref name="朝日新聞1998-01-09"/>、拉致現場付近に「すべてのこどもの心に花を」の看板を立てたりなどの地域活動を行っていた<ref name="琉球新報1997-04-23"/>。「花」の名前は「でぃんさぐぬ花」(親子が互いを思う内容)の民謡と、[[喜納昌吉]]の曲名から取ったものである<ref name="朝日新聞1998-01-09"/>。}}によって、被害者の慰霊と事件の再発防止を願い、「少女の涙に虹がかかるまで」と書かれた木製のモニュメント(標柱)が建てられた{{Efn2|また、周辺の草木も借り払われ、[[サクラ|桜]]などが植樹された<ref name="琉球新報1997-04-23"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-23">『琉球新報』1997年4月23日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生拉致殺害事件 現場に鎮魂の標柱 ボランティア団体が建立「二度とないように」」(琉球新報社)</ref>。また、同年6月には<ref name="朝日新聞1998-01-09"/>、被害者Aの遺族やボランティアにより<ref name="琉球新報1999-09-30"/>、白い御影石製の[[観音菩薩|観音像]]「悲母救花観音」(ひぼくげかんのん)も建立された<ref name="朝日新聞1998-01-09"/><ref>『朝日新聞』1998年1月13日東京夕刊第二社会面12頁「父のつぶやき:7「きっと助けてあげる」(絆 子どもたちへ)」(朝日新聞東京本社)</ref>。それ以降、Aの遺族や支援者らが献花・焼香を年2回行っている<ref name="県警2018">{{Cite web|url=https://www.police.pref.okinawa.jp/kouan/teireikako/H300816.pdf|title=沖縄県公安委員会定例会会議録|accessdate=2021-02-24|publisher=[[沖縄県警察]]|date=2018-08-16|format=PDF|page=1|quote=(3) 名護警察署と被害者支援ゆいセンターの連携による継続した被害者支援活動の実施について|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210224114034/https://www.police.pref.okinawa.jp/kouan/teireikako/H300816.pdf|archivedate=2021-02-24}}</ref>ほか、事件から25年が経過した[[2021年]]([[令和]]3年)6月時点では、名護署や事件発生時に捜査に携わった県警OBらも<ref name="琉球新報2021-06-21"/>、「沖縄被害者支援ゆいセンター」や<ref name="県警2018"/>、子どもたちを守る会「花」<ref group="注" name="花"/>と連携し<ref name="琉球新報2021-06-21">{{Cite news|title=中学生拉致殺害事件から25年 「風化させてはいけない」 支援者らが清掃活動|newspaper=琉球新報|date=2021-06-21|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1341715.html|accessdate=2021-06-21|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210621070330/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1341715.html|archivedate=2021年6月21日}}</ref>、慰霊と事件の風化防止のため、遺棄現場の周辺を清掃したり、献花・焼香を行ったりしている<ref name="県警2018"/>。

事件が沖縄県民ではなく、本土の人間(「ヤマトゥー」)の犯行と判明したことから、沖縄県民の間では「ヤマトゥーの仕業だったか」という憤りの声も出たが、これについて言及した『沖縄タイムス』 (1997) は「沖縄人(ウチナーンチュ)は、本土の人間を指す言葉として『ヤマトゥンチュ』と『ヤマトゥー』を使い分けるが、前者は社交的な敬意を込めた意味合い、後者は本土への反感や差別的意識が働いた蔑称としてのニュアンスが強い。ウチナーンチュが後者の言葉を使う背景には、ウチナーンチュが『ヤマトゥー』の残酷な犯行によって犠牲となったことへの怒りや憎しみの表れであると同時に、本事件や一昨年(1995年)9月に発生した[[沖縄米兵少女暴行事件|米兵による暴行事件]]など、外部の人間によって県民が犠牲になる事件が起きたり、犯罪だけでなく政治・経済など、様々な分野で本土から虐げられたりしてきた歴史の積み重ねが影響しているが、本事件により、『ヤマトゥー』ではない多くのヤマトゥンチュにまで好感を持つことのできない県民が増えてはならないと思う」と言及している<ref>『沖縄タイムス』1997年1月5日朝刊第1版総合面1頁「大弦小弦」(沖縄タイムス社)</ref>。

なお、名護市では1996年から年末年始に[[名護市立東江中学校|東江中学校]]出身の新成人らが、銭ケ森の斜面に「光文字」を点灯する行事を行っているが、1997年(2回目)は本事件の被害者を追悼する「花」の文字が点灯された{{Efn2|期間は同年1月15日 - 19日、および「名護さくら祭り」(同月31日以降開催)の期間中<ref>『琉球新報』1997年1月16日朝刊第1版第一社会面27頁「【名護】夜空にくっきり 花 新成人がメッセージ 光文字鮮やかに 名護市銭ケ森」</ref>。}}<ref>{{Cite news|title=名護の光文字“20歳”で区切り 1月11日最後の点灯|newspaper=琉球新報|date=2014-12-29|url=https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-236592.html|author=嘉陽拓也|accessdate=2020-06-07|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607160832/https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-236592.html|archivedate=2020年6月7日}}</ref>。また、被害者Aの地元である羽地では「花バンド」が[[沖縄音楽|沖縄民謡]]を通じて人々を元気づけたり、[[空手]][[道場]]を開いて子供たちに[[護身術|自衛]]を教えたりなどの活動を開始した<ref>EGGHEADS LLCより発売されたDVD『MIYAGI PEACE -EGGHEADS IN OKINAWA-』(2010年7月7日発売 / 出演:EGGHEADS、花バンド、羽地警備隊、カクマクシャカなど)の商品紹介([https://www.amazon.co.jp/dp/B003RORHA2 Amazon.co.jp]より)。</ref>。

=== 被害者遺族の活動 ===
被害者Aの父親は事件後、毎日のように自身で車を運転して県内を探し回り、白いワゴン車の目撃者から話を聞いて回った{{Sfn|女性セブン|1997|p=74}}。『[[女性セブン]]』記者の取材に対し、Aの母親は、夫(Aの父親)について「事件後、仕事のある日は仕事が終わってから、休日は朝7時ごろから夜10時ごろまで沖縄中の車が通れる道をすべて探し回っていた」と、近隣住民は「毎日のように夫婦でAを探していた。休日にはAの妹も一緒に出掛けていたが、妹は留守番する際、父に対し『お姉ちゃんを連れて帰ってきてね』と言っていた」と述べている{{Sfn|女性セブン|1997|p=74}}。彼は警察による組織的捜索が終わった7月以降も、娘の生存を信じて地元有志とともに、自主的な捜索活動を継続していた{{Sfn|週刊文春|1996|p=38}}。同年11月、Aの父は医師から[[自律神経失調症]]と診断されたため、上司に休職を勧められ{{Sfn|女性セブン|1997|p=74}}、同月初めには勤務先に休職願いを出したが、その後も娘を探し続けていた<ref name="朝日新聞1996-12-21">『朝日新聞』1996年12月21日西部朝刊第一社会面29頁「親と警察、執念の捜索 沖縄の女子中学生拉致から半年 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。同年12月、情報提供を求めるビラを配っていたAの両親に対し、親戚の女性が「Aちゃん、かわいそうに」と声を掛けたところ、Aの父は「Aはまだ生きてるんだから、そんなふうに言わないでください」と言っていた{{Sfn|週刊文春|1996|p=38}}。また、Aの伯父(本島中部在住)や兄弟も事件以降、仕事や学校を休んで捜索活動を行っていた<ref>『沖縄タイムス』1996年6月29日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生ら致事件 「早く娘を返して…」 父親が悲痛な訴え 地域住民「公開」に期待」(沖縄タイムス社)</ref>。

Aの父親は事件後、「九州・沖縄犯罪被害者連絡会」(みどりの風)に所属し、同会により2016年・2019年にそれぞれ那覇市内で開催された「九州・沖縄犯罪被害者大会in沖縄」{{Efn2|2016年は第6回<ref name="琉球新報2016-05-23"/>、2019年は第8回<ref name="沖縄タイムス2019-10-06"/>。}}の大会実行委員長を務めた<ref name="琉球新報2016-05-23">{{Cite news|title=九州・沖縄犯罪被害者大会 7月16日に沖縄で初開催 参加を呼び掛け|newspaper=琉球新報|date=2016-05-23|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-284444.html|author=|accessdate=2020-06-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200610090705/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-284444.html|archivedate=2020年6月10日}}</ref><ref name="沖縄タイムス2019-10-06">{{Cite news|title=「いつ誰が犯罪被害に」 強盗致死や交通事故の遺族、思い語る 26日那覇で被害者大会 被害当事者の相談会も|newspaper=[[沖縄タイムス]]|date=2019-10-06|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/479634|author=|accessdate=2020-06-10|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200610091221/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/479634|archivedate=2020年6月10日}}</ref>。2003年(平成15年)12月7日付の『[[琉球新報]]』では、[[島尻郡]][[佐敷町 (沖縄県)|佐敷町]](現:[[南城市]])在住の女性が被害者Aの父親に対し、Aを追悼する歌2曲を収録した自主制作[[コンパクトディスク|CD]]を贈呈したことが報じられた<ref>{{Cite web|url=https://ssp.kaigiroku.net/tenant/nago/MinuteView.html?council_id=23&schedule_id=6&minute_id=92&tab=list|title=名護市 平成15年第133回名護市定例会 12月11日-05号|accessdate=2021-06-21|publisher=名護市|date=2003-12-11|website=名護市議会|quote=P.283 ◆質問 10番(宮里繁君)|language=ja}}</ref><ref>『琉球新報』2003年12月7日朝刊第1版第一社会面29頁「【名護】事件を忘れないで 名護の中学生拉致殺害 「あなたは空になって生きてる」 佐敷町の○○さん 父親に自主CDを送る」(琉球新報社)</ref>。

遺棄現場(国頭村楚洲){{Efn2|name="遺棄現場"}}には、事件後の1997年3月、ボランティア団体・子どもたちを守る会「花」{{Efn2|name="花"|「子どもたちを守る会・花」<ref name="琉球新報1998-03-17 3"/>「子ども達を守る会・花」との表記もある<ref name="琉球新報2021-06-21"/>。「花」は1997年2月、捜査に協力した被害者Aの父親の同僚たちや、地元の有志ら約20人により結成され、交代で下校時などのパトロールを行ったり<ref name="朝日新聞1998-01-09"/>、拉致現場付近に「すべてのこどもの心に花を」の看板を立てたりなどの地域活動を行っていた<ref name="琉球新報1997-04-23"/>。「花」の名前は「でぃんさぐぬ花」(親子が互いを思う内容)の民謡と、[[喜納昌吉]]の曲名から取ったものである<ref name="朝日新聞1998-01-09"/>。}}によって、被害者の慰霊と事件の再発防止を願い、「少女の涙に虹がかかるまで」と書かれた木製のモニュメント(標柱)が建てられた{{Efn2|また、周辺の草木も借り払われ、[[サクラ|桜]]などが植樹された<ref name="琉球新報1997-04-23"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-23">『琉球新報』1997年4月23日朝刊第1版第一社会面25頁「女子中学生拉致殺害事件 現場に鎮魂の標柱 ボランティア団体が建立「二度とないように」」(琉球新報社)</ref>。また、同年6月には<ref name="朝日新聞1998-01-09"/>、被害者Aの遺族やボランティアにより<ref name="琉球新報1999-09-30"/>、白い御影石製の[[観音菩薩|観音像]]「悲母救花観音」(ひぼくげかんのん)も建立された<ref name="朝日新聞1998-01-09"/><ref>『朝日新聞』1998年1月13日東京夕刊第二社会面12頁「父のつぶやき:7「きっと助けてあげる」(絆 子どもたちへ)」(朝日新聞東京本社)</ref>。それ以降、Aの遺族や支援者らが献花・焼香を年2回行っている<ref name="県警2018">{{Cite web|url=https://www.police.pref.okinawa.jp/kouan/teireikako/H300816.pdf|title=沖縄県公安委員会定例会会議録|accessdate=2021-02-24|publisher=[[沖縄県警察]]|date=2018-08-16|format=PDF|page=1|quote=(3) 名護警察署と被害者支援ゆいセンターの連携による継続した被害者支援活動の実施について|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210224114034/https://www.police.pref.okinawa.jp/kouan/teireikako/H300816.pdf|archivedate=2021-02-24}}</ref>ほか、事件から25年が経過した[[2021年]]([[令和]]3年)6月時点では、名護署や事件発生時に捜査に携わった県警OBらも<ref name="琉球新報2021-06-21"/>、「沖縄被害者支援ゆいセンター」や<ref name="県警2018"/>、子どもたちを守る会「花」<ref group="注" name="花"/>と連携し<ref name="琉球新報2021-06-21">{{Cite news|title=中学生拉致殺害事件から25年 「風化させてはいけない」 支援者らが清掃活動|newspaper=琉球新報|date=2021-06-21|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1341715.html|accessdate=2021-06-21|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210621070330/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1341715.html|archivedate=2021年6月21日}}</ref>、慰霊と事件の風化防止のため、遺棄現場の周辺を清掃したり、献花・焼香を行ったりしている<ref name="県警2018"/>。

=== 被害者の実名報道など ===
『朝日新聞』 (1997) によれば、拉致事件を報道した1996年6月22日・23日は、新聞各紙(いずれも東京本社発行の最終版)は被害者Aを匿名で報道していたが、県警が公開捜査に切り替えたことを伝える同月29日付の記事で、[[実名報道]]に切り替わった<ref name="朝日新聞1997-04-15">『朝日新聞』1997年4月15日東京朝刊第三社会面33頁「[[宮崎勤]]被告めぐる報道に変化 [[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件|連続幼女誘拐殺人事件]]から8年」(朝日新聞東京本社)</ref>。しかし、遺体発見および犯人逮捕を報じた1997年1月3日・4日の記事では、『[[読売新聞東京本社|読売新聞]]』『[[産経新聞東京本社|産経新聞]]』が「乱暴した」という犯人Yの供述とともに、Aの実名・顔写真を紙面に掲載した一方、『[[毎日新聞東京本社|毎日新聞]]』『[[日本経済新聞東京本社|日本経済新聞]]』は「乱暴」という表現を使わず、『[[朝日新聞東京本社|朝日新聞]]』はAを匿名にした上でYの供述を掲載した<ref name="朝日新聞1997-04-15"/>。

なお、地元紙の『[[沖縄タイムス]]』『琉球新報』の場合、前者は6月28日の速報([[号外]])で初めてAの実名・顔写真・所属中学校などの情報を掲載した一方<ref name="沖縄タイムス1996-06-28速報"/><ref name="沖縄タイムス1996-06-29"/>、後者は6月29日の朝刊で初めてAの顔写真を掲載して以降も、匿名報道を続けていた<ref>『琉球新報』1996年6月29日朝刊第1版総合面1頁「名護 女子中学生ら致事件 被害者の写真など公開 県警 情報提供呼び掛け ポスター2万枚配布 依然有力手掛かりなく」(琉球新報社)</ref>。しかし、同年7月12日付の朝刊でAの実名を掲載して以降<ref>『琉球新報』1996年7月12日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致事件 きょう県内一斉捜索 知事が協力呼び掛け 25市町村で2万人」(琉球新報社)</ref>、Aの実名を掲載していた。その後、遺体発見を報じた際には両紙とも、Aの実名・顔写真を報じており<ref name="沖縄タイムス1997-01-04"/><ref name="琉球新報1997-01-04"/>、Uが逮捕された時点でもAは実名報道されていたが<ref name="沖縄タイムス1997-01-13"/><ref name="琉球新報1997-01-13"/>、起訴段階では『琉球新報』はAを引き続き実名で報じていた一方<ref name="琉球新報1997-01-26"/><ref name="琉球新報1997-02-03"/>、『沖縄タイムス』は匿名に切り替えていた<ref>『沖縄タイムス』1997年1月26日朝刊第1版第一社会面21頁「女子中学生ら致、殺害事件 Y容疑者を起訴」(沖縄タイムス社)</ref><ref>『沖縄タイムス』1997年2月3日朝刊第1版第一社会面21頁「女子中学生ら致、殺害事件 U容疑者を起訴 那覇地検 殺人、死体遺棄罪で」(沖縄タイムス社)</ref>。第一審の初公判を報じた際(1997年4月24日)は、両紙ともAを匿名で報じている<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/><ref name="琉球新報1997-04-24"/>。


== 評価 ==
== 評価 ==
第一審判決宣告(1998年3月17日)の際、沖縄県警刑事部長・田場一彦は「沖縄県の犯罪史上まれにみる凶悪な犯行。事件の教訓を生かし、北部地域の治安強化のため、初動捜査体制の充実{{Efn2|『朝日新聞』は1996年7月27日夕刊で「沖縄は地縁・血縁の固い絆が健在で、隣人のことも知らない大都会とは違い、聞き込み捜査も容易だ。警察も地元マスコミも、事件がこれほど長引くとは思っていなかったようだ」と評している<ref>『朝日新聞』1996年7月27日夕刊第一総合面1頁「少女の行方(窓・論説委員室から)」([[朝日新聞社]])</ref>。}}など、再発防止策を推進している」とのコメントを出した{{Efn2|『読売新聞』那覇支局記者田川憲一は、事件後に「県北部における緊急配備態勢の脆弱さや、(7月に犯行車両を見つけながら事件と関連付けられなかった)見通しの誤りなど、いくつもの教訓を残した事件だった」と回顧した<ref>『読売新聞』1997年1月17日西部夕刊第二社会面8頁「[ひまわり]捨てがたい」(読売新聞西部本社・那覇支局 田川憲一)</ref>。また、本事件をきっかけに、県北部における機動捜査力の脆弱性が判明したため、沖縄県警は名護市内に[[機動捜査隊]]・[[自動車警ら隊]]の分駐所を設置することを計画した<ref>『読売新聞』1997年2月4日西部朝刊第一社会面27頁「沖縄の女子中学生殺人 X被告が拉致計画」(読売新聞西部本社)</ref>。}}<ref>『毎日新聞』1998年3月17日西部夕刊社会面「女子中学生殺害2被告に無期晴らせぬ」(毎日新聞西部本社 記者:野沢俊司)</ref>。
第一審判決宣告(1998年3月17日)の際、沖縄県警刑事部長・田場一彦は「沖縄県の犯罪史上まれにみる凶悪な犯行。事件の教訓を生かし、北部地域の治安強化のため、初動捜査体制の充実{{Efn2|『朝日新聞』 (1996) は「沖縄は地縁・血縁の固い絆が健在で、隣人のことも知らない大都会とは違い、聞き込み捜査も容易だ。警察も地元マスコミも、事件がこれほど長引くとは思っていなかったようだ」と評している<ref>『朝日新聞』1996年7月27日東京夕刊第一総合面1頁「少女の行方(窓・論説委員室から)」(朝日新聞東京本社)</ref>。}}など、再発防止策を推進している」とのコメントを出した{{Efn2|『読売新聞』那覇支局記者田川憲一は、事件後に「県北部における緊急配備態勢の脆弱さや、(7月に犯行車両を見つけながら事件と関連付けられなかった)見通しの誤りなど、いくつもの教訓を残した事件だった」と回顧した<ref>『読売新聞』1997年1月17日西部夕刊第二社会面8頁「[ひまわり]捨てがたい」(読売新聞西部本社・那覇支局 田川憲一)</ref>。}}<ref name="毎日新聞1998-03-17 2">『毎日新聞』1998年3月17日西部夕刊社会面「女子中学生殺害2被告に無期晴らせぬ」(毎日新聞西部本社 記者:野沢俊司)</ref>。『琉球新報』社会部記者の斎藤学は、控訴審判決を受け、「国が生命を奪う刑である死刑と、無期懲役(当時、判決確定から仮釈放の時期は20年前後とされていた)の落差は被害者遺族からすれば雲泥の差で、被害者救済も立ち遅れている。(控訴審判決は)改めて刑の均衡([[終身刑]]の導入など)や、被害者・遺族の救済、死刑制度など、司法のあり方を考えるきっかけとなった」と評している<ref>『琉球新報』1999年9月30日夕刊第1版総合面2頁「解説 終身刑求める声も 「死刑」の可否問い掛ける」(琉球新報社 社会部・斎藤学)</ref>。


沖縄県には[[在日米軍]]基地{{Efn2|米軍基地の敷地内[[日米地位協定]]により米国の排他的管理権が認められており[[日本の警察]]は[[アメリカ合衆国]]側の同意がなければ立ち入ることができない<ref>{{Cite news|title=<社説>米軍属再逮捕 基地内の捜査権を認めよ|newspaper=琉球新報|date=2016-06-10|url=https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-295301.html|accessdate=2020-06-07|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607160129/https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-295301.html|archivedate=2020年6月7日}}</ref>。この点も初動捜査の妨げになり{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}名護市の近隣に位置する[[宜野座村]]・[[金武町]]はそれぞれ米軍側に[[キャンプ・ハンセン]]への立ち入り捜索許可や米軍基地2か所の捜索を求めたが、いずれも断られた<ref name="AERA"/>。『[[AERA]]』([[朝日新聞出版|朝日新聞社出版本部]])は事件解決前、「目撃証言では『犯人は日本人風』とされており、米軍基地との関連は不明だが、沖縄県警は米軍基地を『治外法権下』と拡大解釈て初めら自己規制し、米軍基地をことさら腫れもの扱いすることで、基地への捜査の努力を放棄している」と指摘した<ref name="AERA"/>。}}の大半(約75%)が集中している一方、過去に米軍兵士による強姦・暴力事件が多発していた{{Efn2|本事件の前年(1995年9月)には[[沖縄米兵少女暴行事件|沖縄県内で米兵3人による少女拉致・暴行事件]]が発生していた<ref name="AERA"/>。}}ため、「今回も同様の事件では」との疑念が挙がり、結果的に事件解決まで時間を要した原因になった{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。また、事件当初は沖縄県警のヘリコプターが[[オーバーホール]]中だったため、その代わりに[[自衛隊]]が救難ヘリコプターを捜索のため、本事件が発生した[[沖縄本島]]北部へ発進させようとしていたが、当時の沖縄県知事・[[大田昌秀]]は発進を許可しなかった{{Sfn|惠隆之介|2013}}。[[隆之介]]は月刊誌『[[諸君!]]』([[文藝春秋]]・1996年10月号)にて、沖縄県警・県知事の対応を「完全な初動捜査ミスで、自衛隊機発進を許可しなかった県知事の責任は重い」と批判したほか、自著 (2013) で本事件について「沖縄の主要2紙(『琉球新報』『[[沖縄タイムス]]』)や婦人団体は、米軍兵士が事件を起こすと大きく報道して厳罰を要求するが、この(無期懲役)判決については単純に客観報道で一切抗議しなかった{{Efn2|ただし、『沖縄タイムス』『琉球新報』の両紙は、第一審判決当日(1998年3月17日)の夕刊で、『沖縄タイムス』朝刊では、死刑を強く望んでいた遺族や地元住民らの声を取り上げ、「死刑を回避した判決に対し、遺族は無念の意を露にし、地元住民らも疑問を呈している」といった論調の記事を掲載<ref>『沖縄タイムス』1998年3月17日夕刊第2版第一社会面7頁「女子中学生ら致殺害事件 にじむ不満 晴れぬ心 父「娘かわいそう」 両被告、目を閉じ息飲む」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-03-17 3">『琉球新報』1998年3月17日夕刊第2版第一社会面3頁「女子中学生拉致殺害事件 「娘の無念 晴らせない」 「無期」に唇かむ父親 最後まで納得いかず 表情こわばる両被告」(琉球新報社)</ref>。また、前者は翌日(3月18日)の朝刊でも同様の論調の記事を掲載した<ref name="沖縄タイムス1998-03-18">『沖縄タイムス』1998年3月18日朝刊第1版第一社会面21頁「ニュース近遠景 女子中学生ら致殺害事件判決 無念さにじむ父親 極刑望んだのに…待合室で1人涙流す」(社会部・金城雅貴)「なお残る恐怖心 地元住民 判決を疑問視」(沖縄タイムス社)</ref>ほか、後者の社会部記者である米倉外昭も判決当日の夕刊で「凶悪犯罪をめぐる刑の均衡や、死刑制度の是非を論じるきっかけとなった事件だが、被害者救済は不十分だ。被害者救済の視点からも、司法のあり方や制度を考えることも必要である」と指摘している<ref name="米倉"/>。}}。同種の事件でも犯人が米兵か否かで事件の扱いに差が出ている」と指摘している{{Sfn|惠隆之介|2013}}。
[[惠隆之介]]は、事件当時1機しかなかった沖縄県警のヘリコプターが[[オーバーホール]]中だったことから、その代わりに[[自衛隊]]が救難ヘリコプターを捜索のため、本事件が発生した本島北部へ発進させようとしていたが、当時の大田県知事発進を許可しなかった旨を主張している{{Sfn|惠隆之介|2013|p=103}}。その上で、惠は月刊誌『[[諸君!]]』([[文藝春秋]])で、「もし太田知事が(自衛隊)出動を要請しいれば少女殺害時刻の1時間前には、すでに自衛隊ヘリが現場上空に達していたのだ。」と主張し{{Sfn|惠隆之介|1998|p=134}}、自著 (2013) で県知事の対応を「完全な初動捜査ミスで、自衛隊機発進を許可しなかった県知事の責任は重い」と批判したほか、「沖縄の主要2紙(『琉球新報』『沖縄タイムス』)や婦人団体は、米軍兵士が事件を起こすと大きく報道して厳罰を要求するが、この(無期懲役)判決については単純に客観報道で一切抗議しなかった{{Efn2|ただし、『沖縄タイムス』『琉球新報』の両紙は、第一審判決当日(1998年3月17日)の夕刊で、『沖縄タイムス』朝刊では、死刑を強く望んでいた遺族や地元住民らの声を取り上げ、「死刑を回避した判決に対し、遺族は無念の意を露にし、地元住民らも疑問を呈している」といった論調の記事を掲載<ref>『沖縄タイムス』1998年3月17日夕刊第2版第一社会面7頁「女子中学生ら致殺害事件 にじむ不満 晴れぬ心 父「娘かわいそう」 両被告、目を閉じ息飲む」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-03-17 3">『琉球新報』1998年3月17日夕刊第2版第一社会面3頁「女子中学生拉致殺害事件 「娘の無念 晴らせない」 「無期」に唇かむ父親 最後まで納得いかず 表情こわばる両被告」(琉球新報社)</ref>。また、前者は翌日(3月18日)の朝刊でも同様の論調の記事を掲載した<ref name="沖縄タイムス1998-03-18">『沖縄タイムス』1998年3月18日朝刊第1版第一社会面21頁「ニュース近遠景 女子中学生ら致殺害事件判決 無念さにじむ父親 極刑望んだのに…待合室で1人涙流す」(社会部・金城雅貴)「なお残る恐怖心 地元住民 判決を疑問視」(沖縄タイムス社)</ref>ほか、後者の社会部記者である米倉外昭も判決当日の夕刊で「凶悪犯罪をめぐる刑の均衡や、死刑制度の是非を論じるきっかけとなった事件だが、被害者救済は不十分だ。被害者救済の視点からも、司法のあり方や制度を考えることも必要である」と指摘している<ref name="米倉"/>。}}。同種の事件でも犯人が米兵か否かで事件の扱いに差が出ている」という旨を指摘している{{Sfn|惠隆之介|2013|p=104}}。なお、惠 (2013) は「1956年(昭和31年)9月3日に米海兵隊士が沖縄女児を殺害した事件」を引き合いに出し、その事件では「犯人の米兵は[[軍法会議]]で死刑を言い渡され、間もなく執行されていた」として、犯人2人が無期懲役に処された本事件の判決の不当性を主張しているが{{Sfn|惠隆之介|2013|p=104}}、その引き合いに出されている女児殺害事件([[由美子ちゃん事件]])の発生年は[[1955年]](昭和30年)であり、また同事件の犯人である米兵は軍法会議で[[アメリカ合衆国における死刑|死刑]]を言い渡されたものの、刑を執行されることはなく、後に[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]令により、[[仮釈放]]を認めない条件付きで重労働45年の刑に減刑されたばかりか、最終的には「仮釈放を認めない」という条件さえ反故にされている<ref>『沖縄タイムス』2021年9月23日朝刊第1版総合面1頁「【[[ジョン・ミッチェル (ジャーナリスト)|ジョン・ミッチェル]]特約通信員】55年嘉手納幼女暴行殺害 死刑の米兵 22年で仮釈放 嘆願書に「政治の犠牲」 政府 墓石提供」(沖縄タイムス社)
* ウェブ版(紙面と同一の内容) - {{Cite news|title=死刑の米兵22年で仮釈放されていた 沖縄の幼女殺害 「政治の犠牲」と主張 米政府は墓石を提供|newspaper=沖縄タイムス|date=2021-09-23|author=ジョン・ミッチェル特約通信員|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/835298|accessdate=2021-09-23|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210923152443/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/835298|archivedate=2021年9月23日}}</ref>。
{{Main|由美子ちゃん事件}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
'''書籍'''
* {{Cite book|和書|title=日本凶悪犯罪大全 SPECIAL|series=|publisher=[[イースト・プレス]](発行人:芝崎浩司)|date=2011-09-01|author=犯罪事件研究倶楽部|editor=圓尾公佑|edition=初版第1刷発行|isbn=978-4781606637|pages=68-69|chapter=沖縄女子中学生強姦殺人事件|ref={{SfnRef|犯罪事件研究倶楽部|2011}}}}
* {{Cite book|和書|title=日本凶悪犯罪大全 SPECIAL|series=|publisher=[[イースト・プレス]](発行人:芝崎浩司)|date=2011-09-01|author=犯罪事件研究倶楽部|editor=圓尾公佑|edition=初版第1刷発行|isbn=978-4781606637|pages=68-69|chapter=沖縄女子中学生強姦殺人事件|ref={{SfnRef|犯罪事件研究倶楽部|2011}}}}
* {{Cite book|和書|title=裁判員裁判における量刑評議の在り方について|publisher=[[法曹会]]|date=2012-10-20|ref={{SfnRef|司法研修所|2012}}|editor=[[司法研修所]]|edition=第1版第1刷発行|isbn=978-4908108198|series=司法研究報告書|volume=63|issue=3}} - 司法研究報告書第63輯第3号(書籍番号:24-18)。本事件の被告人2人に対する判決の概要は「事件一覧表」236-237頁(整理番号:190・191)に収録。
* {{Cite book|和書|title=裁判員裁判における量刑評議の在り方について|publisher=[[法曹会]]|date=2012-10-20|ref={{SfnRef|司法研修所|2012}}|editor=[[司法研修所]]|edition=第1版第1刷発行|isbn=978-4908108198|series=司法研究報告書|volume=63|issue=3}} - 司法研究報告書第63輯第3号(書籍番号:24-18)。本事件の被告人2人に対する判決の概要は「事件一覧表」236-237頁(整理番号:190・191)に収録。
** 協力研究員 - [[井田良]]([[慶應義塾大学]]大学院教授)
** 協力研究員 - [[井田良]]([[慶應義塾大学]]大学院教授)
** 研究員 - [[大島隆明]]([[金沢地方裁判所]]所長判事 / 委嘱時:[[横浜地方裁判所]]判事)・園原敏彦([[札幌地方裁判所]]判事 / 委嘱時:[[東京地方裁判所]]判事)・辛島明([[広島高等裁判所]]判事 / 委嘱時:[[大阪地方裁判所]]判事)
** 研究員 - [[大島隆明]]([[金沢地方裁判所]]所長判事 / 委嘱時:[[横浜地方裁判所]]判事)・園原敏彦([[札幌地方裁判所]]判事 / 委嘱時:[[東京地方裁判所]]判事)・辛島明([[広島高等裁判所]]判事 / 委嘱時:[[大阪地方裁判所]]判事)
* {{Cite book|和書|title=沖縄が中国になる日|publisher=[[扶桑社]]|date=2013-03-19|author=[[惠隆之介]]|edition=電子版|isbn=978-4594067885|pages=|ref={{SfnRef|惠隆之介|2013}}}}
* {{Cite book|和書|title=沖縄が中国になる日|publisher=[[育鵬社]]・[[扶桑社]](発売:扶桑社、発行者:[[久保田榮一]])|date=2013-04-02|pages=102-104|ref={{SfnRef|惠隆之介|2013}}|author=[[惠隆之介]]|edition=第1刷発行|isbn=978-4594067885|NCID=BB12457321|chapter=第3章 沖縄制政策を迷走させる虚言 > 2報道されない少女暴行殺人・遺体遺棄事件 犯人が米兵でなければ報道しない沖縄マスコミ|id={{国立国会図書館書誌ID|024307118}}}}
'''雑誌記事'''
<!--* {{Cite book|和書|title=日本凶悪犯罪大全217|series=[[文庫ぎんが堂]]|publisher=[[イースト・プレス]]|date=2019-08-10|author=犯罪事件研究倶楽部|edition=電子版|isbn=978-4781671871|pages=|ref={{SfnRef|犯罪事件研究倶楽部|2019}}}}-->
* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊文春]]|title=ワゴン車に消えた「中学3年」沖縄美少女の「生死」 異例の公開搜査|volume=38|date=1996-07-11|issue=26|pages=30-33|publisher=[[文藝春秋]]|DOI=10.11501/3376651|id={{NDLJP|3376651/16}}|ref={{SfnRef|週刊文春|1996}}}} - 1996年7月11日号(通巻:第1889号)。
* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|title=特集 沖縄基地の「重圧」と言う反戦地主と少女誘拐現場の「目撃者」|volume=41|date=1996-08-08|issue=30|pages=128-131|publisher=[[新潮社]]|DOI=10.11501/3378936|id={{NDLJP|3378936/65}}|ref={{SfnRef|週刊新潮|1996}}}} - 1996年8月8日号(通巻:第2066号)。
* {{Cite journal|和書|journal=[[AERA]]|author=長谷川熙(編集部)|title=沖縄 少女誘拐で見せた県警の事大主義 基地内捜索の要請に二の足|volume=9|date=1996-08-12|issue=33|pages=15-17|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版本部]]|ref={{SfnRef|AERA|1996}}}} - 1996年8月12日号(通巻:第443号)。
* {{Cite journal|和書|journal=[[諸君!]]|author=惠隆之介|title=暴走する「沖縄の英雄」 大田琉球国王に反乱す|volume=28|date=1996-10-01|issue=10|pages=26-34|publisher=文藝春秋|DOI=10.11501/3368742|id={{NDLJP|3368742/15}}|ISSN=0917-3005|ref={{SfnRef|惠隆之介|1996}}}} - 平成8年10月号。
* {{Cite journal|和書|journal=[[宝島 (雑誌)|宝島]]|title='96事件ファイル あの未解決事件の謎 4 忽然と消えた美少女 〈沖縄・名護市〉中3少女拉致・誘拐事件 国際的な「人身売買」組織が日本を跋扈か|volume=24|date=1996-12-25|issue=26|publisher=[[宝島社]]|ref={{SfnRef|宝島|1996}}}} - 1996年12月25日号(通巻:第363号)。
* {{Cite journal|和書|journal=週刊文春|title=沖縄美少女殺人事件 父親が慟哭告白 「A、私の手で探してやりたかった」|volume=39|date=1997-01-16|issue=2|pages=37-39|publisher=文藝春秋|DOI=10.11501/3376676|id={{NDLJP|3376676/19}}|ref={{SfnRef|週刊文春|1997}}}} - 1997年1月16日新春特別号(通巻:第1914号)。
* {{Cite journal|和書|journal=[[アサヒ芸能]]|title=拉致・失踪7カ月目に白骨遺体を発見 沖縄 中3少女を凌辱殺害したワル2人組「鬼畜の供述」!|volume=52|date=1997-01-16|issue=2|pages=24-25|publisher=[[徳間書店]]|ref={{SfnRef|アサヒ芸能|1997}}}} - 1997年1月16日新春特大号(通巻:第2595号)。
* {{Cite journal|和書|journal=[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]|title=犯行使用車は警察がシロと発表していた!沖縄女子中学生殺人事件の“兇悪”と“ナゾ”|volume=14|date=1997-01-14|issue=4|pages=14-15|publisher=[[講談社]]|ref={{SfnRef|FRIDAY|1997}}}} - 1997年1月14日号(通巻:第670号)。
* {{Cite journal|和書|journal=[[FOCUS]]|title=優男とパチンコ狂「沖縄女子中学生殺人」二人の流れ者――行きずりの凶行|volume=17|date=1997-01-15|issue=3|publisher=新潮社|ref={{SfnRef|FOCUS|1997}}}} - 1997年1月15日号(通巻:第771号)。
* {{Cite journal|和書|journal=[[女性セブン]]|author=文/河野浩一(取材/三谷俊之)|title=沖縄女子中学生ら致殺害事件――父と母の捜索195日 慟哭インタビュー 白骨の遺体を前に父は叫んだ「これは違う。Aはどこかで生きている!」|volume=35|date=1997-01-30|issue=4|pages=70-75|publisher=[[小学館]]|ref={{SfnRef|女性セブン|1997}}}}
* {{Cite journal|和書|journal=諸君!|author=惠隆之介|title=特別企画 怪しげな「言説の流布」に警鐘乱打 この20人を大論破! 4 大田昌秀 「本土」に甘えられた頃はよかったが…|volume=30|date=1998-02-01|issue=2|pages=132-135|publisher=文藝春秋|DOI=10.11501/3368758|id={{NDLJP|3368758/68}}|ISSN=0917-3005|ref={{SfnRef|惠隆之介|1998}}}} - 平成10年2月号。

== 関連項目 ==
* [[郊外型犯罪]]

== 外部リンク ==
* {{Cite news|title=ら致されたAさん、遺体で発見 国頭村奧の山中に遺棄され半年|newspaper=[[沖縄タイムス]]|date=1997-01-04|url=http://www.okinawatimes.co.jp/day/199701041700.html|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19970220161504/http://www.okinawatimes.co.jp/day/199701041700.html|archivedate=1997年2月20日}} - 被害者Aの遺体発見と、犯人Yの逮捕を伝える記事。


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2022年1月17日 (月) 04:06時点における版

名護市女子中学生拉致殺害事件
地図
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8 km
2
1
拉致現場[注 1]および殺害・死体遺棄現場[注 2]
1
拉致現場(名護市伊差川)
2
殺害・死体遺棄現場(国頭郡国頭村楚洲)
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拉致現場[注 1]および殺害・死体遺棄現場[注 2]
1
拉致現場(名護市伊差川)
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殺害・死体遺棄現場(国頭郡国頭村楚洲)
場所

日本の旗 日本沖縄県沖縄本島

標的 女性[14]
日付 1996年平成8年)6月21日
19時5分ごろ(被害者Aが拉致された時間)[15] – 21時30分ごろ(殺害時刻)[7] (UTC+9)
概要 男2人組が白いワゴン車(ワンボックスカー)を用い、名護市の農道で帰宅途中の女子中学生を拉致した[16]。2人は国頭村で少女を乱暴した上で、林道上で絞殺し、遺体を山中に遺棄した[7]
攻撃手段 紐で首を絞める[7]
攻撃側人数 2人[7]
武器 海辺で拾った紐(長さ約2 m、太さ約9 mm[17]
死亡者 1人(被害者A)
被害者 帰宅途中の女子中学生A(事件当時15歳[注 3]名護市立羽地中学校3年生) - 名護市我部祖河在住[6]
損害 約200円(加害者2人が被害者から奪った現金)[18]
犯人 元建設作業員の男2人(本文中Y・U)[19]
容疑 殺人罪死体遺棄罪わいせつ目的誘拐罪婦女暴行罪窃盗罪[18]
動機
  • 乱暴目的(拉致の動機)[20]
  • 拉致の発覚を恐れたため(殺害の動機)[21]
対処 加害者2人を逮捕[11][22]起訴[10][23]
謝罪 あり[24][25]
刑事訴訟 2人とも無期懲役確定[26]
影響 沖縄県内で官民挙げての大捜索が展開され、名護市議会の一時休会[27]名護夏祭りの中止[28]などの影響が出た。
遺族会 「九州・沖縄犯罪被害者連絡会」(みどりの風) - 被害者Aの父親が参加している[29]
管轄
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名護市女子中学生拉致殺害事件(なごしじょしちゅうがくせいらちさつがいじけん)は、1996年平成8年)6月21日沖縄県沖縄本島)で発生した殺人死体遺棄わいせつ目的誘拐婦女暴行窃盗事件[18]名護市伊差川の農道で[注 1]、帰宅途中の女子中学生A(当時15歳[注 3]市立羽地中学校3年生)が[6]、犯人の男2人組(本文中「Y」および「U」)によってワゴン車(白いワンボックスカー)で拉致された[16]。Aは国頭郡国頭村の山中で、2人から暴行を受けて殺害され、遺体を国頭村楚洲の山中に遺棄された[注 2][7]。犯人2人はその後、約半年間にわたって逃亡を続けていたが、同年12月に犯行車両を盗んだとして指名手配されていた犯人の1人 (Y) が自首し、Aを殺害して遺棄した旨を自供したことで、1997年(平成9年)1月1日にAの遺体が発見され[6]、残る1人 (U) も同月に逮捕された[22]沖縄女子中学生強姦殺人事件と呼称される場合もある[30]

殺人罪などの被告人として起訴された犯人2人は、刑事裁判でいずれも死刑求刑されたが[31]第一審那覇地裁)・控訴審(福岡高裁那覇支部)ともに無期懲役判決を言い渡され[12][13]1999年(平成11年)10月に無期懲役が確定している[26]

本事件は、沖縄県内では類を見ない凶悪事件として、大きな衝撃を与えた[32]。事件発生から、Aの遺体が発見されるまでの約半年間に、沖縄県警のみならず、地元住民や学校教職員らも(当時行方不明だった)Aを捜索する活動に加わり、大規模かつ長期的な捜査が展開されたが、600人規模の特別捜査本部の設置[33]、被害者の情報を公表した公開捜査[注 4][34]、全県での地元住民らによる一斉捜索[35]県知事(当時は大田昌秀)による事件捜査への協力の呼び掛けなどは[36]、いずれも沖縄県内で発生した事件としては異例のものだった。また、那覇地裁 (1998) は判決理由で、「地元や県のみならず、社会一般に不安・恐怖を与えた事件」と判示している[7]

略年表

事件経緯の概略
事件前
段階 月日 出来事
事件前 1995年(平成7年) 3月 犯人Uが沖縄に渡ってくる[37]。その後、ホームレス生活を送っていたが、那覇市内の人材派遣会社に誘われ、日雇いの建設作業員として働き始める[38]
1996年(平成8年) 1月 借金を抱えた犯人Yが沖縄に渡ってくる[37]。その後、Uと同じ会社で働き始める[38]
6月14日 SとY(以下「犯人2人」)が那覇市内のホテル駐車場で[39]、勤務先の経営者が所有していた白いワンボックスカー(犯行車両)を盗む[37]
その後、2人は辺戸岬(国頭村)付近の海岸で車中泊をするようになる[18]
6月19日 犯人2人が辺戸岬の海岸で、立ち往生していた観光客の車を助け、記念撮影を受ける[40]
一方で2人はこのころ、女性を拉致して強姦することを計画し始める[14]
事件当日
拉致 1996年(平成8年) 6月21日 犯行前 朝、被害者Aが通学していた名護市立羽地中学校の校門前で、犯行車両に似た車が目撃される[41]
犯行直前、羽地中の校門前で犯行車両が目撃される[41]
19時5分 犯人2人、名護市の農道[注 1]で下校途中の被害者Aを犯行車両(白いワンボックスカー)に押し込んで拉致[15]
19時9分 拉致の様子を見ていた住民が110番通報[2]
3分後(19時12分)、沖縄県警が名護市内などで緊急配備を実施したが[2]、犯行車両は検問に掛からなかった[20]
強姦 20時ごろ 犯人2人、国頭村の私道上などでAを暴行。その後、財布から200円を奪い、Aを殺害することを決める[18]
殺害・死体遺棄 21時30分ごろ 犯人2人、国頭村の山中でAを殺害し、死体を山中に遺棄[注 2][7]
犯行後、2人は翌22日に犯行車両を辺戸岬付近に放置し、同日から徒歩やヒッチハイクなどで本島を南下。同月26日、浦添市に到達した[42]
捜査の経緯
段階 月日 捜査機関 出来事
捜査 1996年(平成8年) 6月22日 沖縄県警 県警や地元住民らにより、本格的な捜索活動が開始される[43]
翌23日、県警は名護署に捜査本部[44]、市民対策本部が設置される。
6月25日 沖縄県教育長の仲里長和、県民に捜査への協力を呼び掛ける[45]。同日、県警は捜索範囲を本島中部にも拡大[46]
6月27日 県警、全県を捜索対象に拡大。また、捜査本部を特別捜査本部(特捜本部)に強化し、各警察署に「女子中学生ら致事件対策室」を設置[33]
翌28日、特捜本部が被害者Aの氏名や顔写真などを公開[47]
7月5日 辺戸岬付近で、盗難車として届け出られていた犯行車両が発見されるが、特捜本部は同日、「事件との関連性は薄い」と発表[48]
一方で18日、那覇署は犯人2人を窃盗容疑で全国に指名手配[19]
7月11日 - 21日 11日、大田昌秀県知事が県民に対し捜索活動への協力を呼び掛ける[35]
翌12日と21日、2度にわたる県内一斉捜索が展開されたが、手掛かりは得られず[35][49]
8月 県警、指名手配中の被疑者Yの故郷(種子島)や、家族の在住地(愛知県)に捜査員を派遣[50]
一方、Yは同月下旬にフェリーで鹿児島まで渡り、同年12月下旬まで中国・四国地方を転々とする[42]
12月15日 市民対策本部、沖縄2紙(『沖縄タイムス』『琉球新報』)の朝刊に特別広告を掲載。犯人に対しAの解放を、市民に対し捜査への協力をそれぞれ喚起[51][52]
逮捕 12月28日 - 31日 28日にYが鹿児島県警に出頭し、窃盗容疑で逮捕される。翌29日に那覇署へ移送され、31日にAを殺害して山中に遺棄した旨を自供[11]
1997年(平成9年) 1月1日 - 3日 1日、特捜本部が国頭村の山中を捜索し、Aの白骨遺体や遺留品などを発見。
同本部は3日、Yを殺人・死体遺棄などの容疑で逮捕(同月5日に送検)、Uを殺人・死体遺棄などで全国に指名手配[11]
1月11日 - 12日 11日深夜、浦添市内の野球場でUを発見。12日未明に殺人などの容疑で逮捕(13日に送検)[53]。特捜本部は2月3日に解散[54]
起訴 1月25日 那覇地検 那覇地検がYを殺人・死体遺棄・わいせつ目的誘拐・婦女暴行・窃盗の罪で那覇地裁に起訴[10]
2月2日 那覇地検がUを殺人・死体遺棄などの罪で起訴[23]
裁判の経緯
審級 月日 裁判所 出来事
第一審 1997年(平成9年) 4月24日 那覇地裁 那覇地裁(長嶺信栄裁判長)で初公判が開かれ、被告人2人は起訴事実を認める[24]
その後、2人は犯行の主導性や計画性などを争う。
1998年(平成10年) 2月 同月10日の論告求刑公判で、検察官は2被告人に死刑を求刑[31]。24日の公判で結審[55]
3月 同月17日、那覇地裁(林秀文裁判長)は2被告人を無期懲役とする判決を宣告[12]
那覇地検は同月30日、判決を不服として福岡高裁那覇支部に控訴[56]
控訴審 1999年(平成11年) 1月14日 福岡高裁那覇支部 福岡高裁那覇支部(岩谷憲一裁判長)で控訴審初公判[57]
7月13日 控訴審が結審。検察官は原判決破棄(2被告人への死刑適用)を、2被告人の弁護人はそれぞれ控訴棄却を求めた[58]
9月30日 福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)、検察官の控訴を棄却する判決(2被告人を無期懲役とした原判決を支持)[13]。10月13日、福岡高検那覇支部上告断念を決めたため[26]、上告期限が切れた時点で2人の無期懲役が確定

犯人

本事件の加害者は、鹿児島県種子島出身の男Y・S逮捕当時38歳[注 5]:以下「Y」)と[11]北海道網走市出身の男U・M(逮捕当時37歳[注 6]:以下「U」)の2人である[22]。過去に交通違反がある以外、2人とも目立った前科・前歴はなかった[37]

Yは、中学時代まで種子島の熊毛郡中種子町で過ごした[61]。中学校を卒業後、愛知県名古屋市の鉄工所に就職し、溶接資格を取得した[37]。その後は職を転々としつつも、一定の収入を得ており[37]、鉄工職から港湾作業員に転職[62]。名古屋市港区内の荷役会社に務めるようになり[61]、逮捕の18年前(1979年ごろ)、同じ九州出身の女性と結婚[62]。妻の両親が建てた市内の一戸建て住宅で[62]、妻や3人の子供[注 7]、そして妻の両親とともに、7人家族で生活していた[64]。当時はフォークリフト運転手として、年収700万円弱を稼いでいたが[64]、多額の借金を抱え[注 8]、その返済のため、自身を可愛がっていた義母[注 9]から買い与えられていた自家用車を売却したほか、数回にわたって家出したこともあった[62]。そして、事件の約4年前に突然家出して以降は家に帰らず[64]、1996年1月に沖縄に来た[37]。種子島の家族に対しては、事件の4年前に「元気で働いている」という電話を掛けて以降、音信不通になっていた[65]。なお、逃走中の1996年10月には妻の訴えで、離婚が成立している[64]

Uは1959年昭和34年)[66]、4人兄弟の末っ子として[62]、網走市で生まれた[66]。中学校時代は人付き合いが苦手で、目立たない生徒だった[66]。中学時代はバレーボール部に在籍していたが、先輩たちとの人間関係がうまく行かず、半年ほどで退部[66]。中学卒業後[注 10]、本土に渡った[66]。愛知県の運送会社に就職して結婚し、子供ももうけたが、突然会社を辞め、1995年(平成7年)3月に沖縄へ渡っていた[37]。Uの母親は、『FOCUS』(新潮社)の記者からの取材に対し、「毎年、正月には両親宛に2万円ずつ送金してくれる優しい子だったが、逮捕の3年前(1994年ごろ)からは音信不通になり、心配して捜索願を出していた」と話している[62]

事件前の経緯

Yは沖縄に来て以降、しばらくは職に就かず、那覇市内の公園などでホームレス生活をしていたが[39]、那覇市若狭の公園で、日雇いの建設作業員を斡旋していた那覇市内の人材派遣会社の関係者から、「うちで働く気はないか」と声を掛けられた[38]。その会社では当時、同じように公園にいたところを誘われたUが働いていた[38]。Yは、Uら数人とともに、会社が借り上げた那覇市首里のアパートで暮らしつつ、那覇市を中心に、建設現場で働いていた[39]。作業内容は、ブロック作りや道路工事などの作業だった[37]。2人は、現場は別々だったが、宿舎では同室で暮らしており[37]、互いに親しくなっていた[18]。また、国頭郡内の作業現場で働いたことがあったため、犯行現場には少し土地勘があった[67]

しかし、2人が勤めていた建設作業員派遣会社は事実上倒産状態で、給料も未払いだった[67]。給与の支払い遅延などから、会社の経営者に不満を抱いた2人は[37]、退職して姿をくらまそうとし[18]、1996年6月14日、那覇市安里のホテル駐車場から[39]、経営者が所有していた白いワンボックスカーを盗んだ[注 11][37]。犯行車両は目撃証言によれば、トヨタ・ハイエースのロング型に似たワゴン車で[68]、車両後部の窓には白いペンキが塗られていたか、白いフィルムが貼られていた[41]。沖縄は日差しが強いため、このように白い塗装で、日除けのフィルムを貼った車は珍しくなかった[69]

その後、2人は辺戸岬付近の宇佐浜海岸(国頭郡国頭村)で車中泊をしていた[注 12][18]。事件2日前(6月19日)、2人は辺戸岬付近の浜辺で、乗用車の車輪を砂浜にはめてしまった観光客の夫婦から頼まれ、車を後部から押してやっていたが、その礼として夫婦からビデオカメラで記念撮影されていた[40]。一方、Uは同日ごろ、国頭村の海岸で遊びに来ていた観光客の女性を見かけたことをきっかけに、Uに対し「女性を拉致して乱暴しよう」と持ち掛けたとされている[注 13][14]。Uもこれに同意し、2人で女性を拉致して強姦することを計画した[14]。また、事件の2、3日前には、拉致現場(名護市伊差川)付近のガソリンスタンドで給油していた[39]。Aを絞殺した際に用いた凶器の紐(長さ約2 m、太さ約9 mm)は、このころに海辺で拾ったものだった[17]

事件当日

2人は事件数日前から、標的とする女性を探したが、見つけられなかった[24]。本事件の被害者である少女A(当時15歳:中学3年生)[注 3]は、名護市立羽地中学校に通学していたが[6]、その校門付近では、事件当日(6月21日)の朝、(犯行車両に似た)白色系のワゴン車が駐車してあるのを、市民が目撃していた[41]。また、2人は犯行直前、同校の校門前で女子生徒を物色していたが、その姿を男子生徒に見られ、不審がられていた[39]。当時、校門付近に駐車してあった白いワゴン車を目撃していた生徒は7人で、彼らの目撃証言を総合すると、車に乗っていた人物は、「頭に“剃り込み”を入れた、怖そうなお兄さん」だった[41]

拉致

地図
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150 m
5
4
3
2
1
拉致現場 (1) 付近の略地図[注 1]。Aの家(名護市我部祖河)[6]は、拉致現場から西方へわずか約500 m[2]、ないし約600 mの地点だった[6]。そのほぼ中間地点に、県道71号との交差点 (4) があり、同地点で左折して南進すると、国道58号との交差点 (5) に到達する。その交差点 (5) を左折し、国道58号を北西方向に進むと、殺害・遺棄現場のある国頭村に到達する。
『AERA』 (1996) に拉致現場と、目撃者が住んでいた名護市営住宅 (2) (現場から川を隔てて約50 m離れた地点)を写した写真が掲載されている[3]
1
拉致現場
2
Aが拉致される場面を目撃した住民が住んでいた団地
(名護市営住宅)
3
Aが同級生(甲)と最後に別れた橋の袂
4
農道と県道71号の交差点
5
県道71号と国道58号の交差点

その後、2人は名護市伊差川の農道で[注 1][24]、自転車に乗った2人連れの女子中学生を見つけた[18]。そのうちの1人がAで、もう1人の少女(甲)は[51]、Aの同級生だった[注 14][72]。彼女たち2人は、バレーボール部の練習をいつもより早く終え、下校のチャイムが鳴る直前の18時45分、自転車に乗って校門を出ており、Aは通学路の途中にあった小さな橋の袂で、「じゃあ、また明日」と別れた直後、Yたちによって拉致された[73]。拉致された当時、Aはバレーボール部のユニフォームを着ており[74]、制服はリュックサックに入れていた[75]

YとUは、彼女たちを尾行し[17]、農道のT字路付近で待ち伏せた[73]。事件当日(6月21日)は夏至[注 15][73]、事件発生時刻の19時5分ごろ[15]、現場周辺はまだ昼間のように明るかった[76][71]。2人は、友人と別れて1人になったAが、車の脇を通り過ぎようとしたところで降車し[77]、Aに「名護の市街地にはどう行くの?」などと道を尋ねるふりをして、Aを犯行車両に無理矢理押し込めた[17]。この一部始終は、現場付近[注 16]の団地3階の住民に目撃されており、この住民はAの「キャー」という悲鳴を聞いたため、車に向かって大声で呼び掛けたが[2]、男たちのうち1人が車から降り[73]、Aを慌てて車内に押し込んだ[78]。そして、車内にいたもう1人の男が車外に出て[73]、Aの自転車を川べりに投げ捨てた[47]。そして、2人は車で県道71号方面(拉致現場から西方)へ走り去った[2]

犯行車両はAを拉致した直後、軽自動車と衝突しかけているが、その軽自動車のドライバーが最後の目撃者である[2]。ただし、このドライバーは犯行車両に乗っていた人物の人相や、車のナンバーまでは記憶していなかった[79]

殺害

2人は県道71号に出ると、左折して国道58号に入り[17]、同道を猛スピードで北上し[80]、20時ごろ、国頭村の私道上でAを暴行した[注 17][18]。その後、犯行の発覚を免れるため、Aを殺害して死体を遺棄することを決意し[81]、奥2号林道へ移動した[18]

移動後、2人はさらにAを暴行し、財布から200円を奪った上で、殺害を最終的に確認[18]。同日21時30分ごろ、国頭村楚洲の林道上で[12][7]、2人で紐を使い、Aの首を絞めて殺害した[14][18]。そして、2人で遺体をガードレール越しに投げ捨てた[注 2][18]。遺棄現場の林道やその近辺は、造林関係者など一部を除き、地元住民でもほとんど入らないような場所だった[82]

犯行後の逃避行

犯行後、2人はAの名前入りの制服や、教科書などが入ったリュックサックを、遺体遺棄現場から西方約800 m地点に遺棄した[16]。さらに、車からナンバープレートを取り外し[18]、同日夜は国頭村宇佐浜の砂浜で車中泊した[83]

2人は翌22日朝、辺戸岬付近の農道で車を放棄し[42]、歩きながらヒッチハイクし、名護市内在住の女性の車に乗せてもらい、名護市まで行くと、同夜は公園で一泊した[84]。さらに、6月23日からは歩いて南下し、沖縄市内の公園で2泊したが、市民の捜索が大掛かりに行われていることを知り、さらに歩いて南下し、26日に浦添市勢理客の公園(後にUが逮捕された場所)[注 18]で野宿した[42]。2人が別行動を取るようになった時期については、「6月26日以降」[42]「7月上旬」[85]「7月12日以降」[84]などの報道があるが、検察官の冒頭陳述によれば、2人は(7月5日に)犯行車両が発見されたことを知ったことなどから、別行動を取るようになったとされている[18]

それ以来、Yは沖縄県内(宜野湾市北谷町の公園など)を転々とした[42]。この間、パチンコで逃走資金を稼ぎ[84]、8月下旬にフェリーで鹿児島に渡ると、広島岡山香川県と移動した[42]。Yは香川でしばらく働いた後、同月12月上旬に鹿児島へ戻り、同月下旬に出身地の種子島へ渡った[42]。また、Uは犯行車両が発見されたことを新聞で知り、公園を転々としつつ、断続的に日雇い労働をしながら、(後に逮捕された場所である)浦添市内の伊奈武瀬球場(浦添市勢理客)[注 18]付近で生活していた[84]。同年12月、Uは人材派遣会社を通じ、「仲村公一」という偽名を使い、安謝新港(那覇市)などで臨時雇の荷役作業に従事して[86]、生活費を稼いでいた[注 19][84]。実際にUの逮捕後、潜伏していた伊奈武瀬球場のバックネット裏では、Uが使っていたとみられた赤い婦人用自転車や衣類・作業服などとともに、「仲村」と書かれた給料袋や日当、支払い者のサインなどが記載された給料袋2つが発見されている[87]。同球場に隣接していた消波ブロック製作所の警備員は、同月6日以降、Uが逮捕された1997年1月12日までに、4、5回にわたって球場内で寝泊まりしていたUの姿を目撃していたが、Uが殺人容疑で公開手配されて以降も、当時のUの風貌が指名手配写真と大きく異なっていたこともあって、「よくいる浮浪者だ」と思い、特に気に留めていなかった[88]。また、Uを雇用した人材派遣会社の関係者も「『仲村』(=U)はとても明るく元気で、仕事も真面目で、殺人事件を起こして逃亡しているようには見えなかった。Uの指名手配写真が公開されて以降も、『仲村』がUとはまったく気づかなかった」という旨を述べている[86]

捜査

沖縄県警察は事件直後から緊急配備を張り、その後も「犯人は沖縄県内に潜伏している可能性が高い」として[89]、犯行車両の絞り込みなどを続けていた[90]後述)。犯行現場や犯行手口から「地元の地理に詳しい人物が、計画的にAを狙って犯行におよんだ」と推測された[91]。しかし、目撃者の少なさや[90]、目撃証言の曖昧さ[92](犯行車両のナンバーは目撃されておらず、類似車両も多かった)[76]本島北部に広がる広大な森林地帯が障壁になったこと[93]、そして犯人像を絞り込めなかったことから、捜査は難航し、事件解決まで約半年を要した[50]。また、事件直後の緊急配備体制や、後に犯行車両と判明した車の鑑識作業など、当時の捜査体制に問題があったのではないかとする指摘がある[94]

初動捜査

19時9分、被害者Aが拉致される瞬間を目撃していた近隣住民が、県警に110番通報した[2]。これを受け、沖縄県警は19時12分、所轄署の名護警察署や、近隣の警察署へ緊急配備の司令を出し[2]、19時25分に配備が完了[67]。名護市から南へ抜ける要所で検問を行った[2]

しかし、実際に犯人2人が向かった方向は逆(北方)で、拉致現場から北側の検問は、約10 km離れた国道58号の1か所[67](国頭郡大宜味村津波)[注 20]のみだった[95][20]。この地点は、拉致現場から約10 km離れた場所にあり、拉致現場から時速60 km/hで走行した場合、10分で通過できる[20]。また、拉致現場から幹線道路を経由して本島北端(殺害現場方面)へ向かうと必ず通る地点でもあり[20]国道331号など、西海岸に抜けるルートもチェックできる地点だったが、この地点の緊急配備を担当したのは、同地点から約15 km北方に位置する名護警察署辺土名交番勤務の署員で[48]、検問を開始した時間は、他の地点より13分ほど遅い19時25分ごろだったため、2人は検問開始より先に同地点を通過していた可能性が高いことが指摘されている[20]。名護署の管轄区域は、県北部の名護市など1市3町(約550 m2:沖縄本島の約45%)におよぶ一方、当時の署員数は98人と少なく、かつ事件当日は金曜日の当直時だったため、事件発生当時は当直員約15人と、手薄な時間帯だった[40]。また、同日には、本島南部で別の事件[注 21]が発生していたため、県警は捜査員のうち、半分をそちらの事件に回すことを余儀なくされた[68]

特別捜査本部長を務めた県警刑事部長の久高常良は6月27日、記者会見で「初動捜査の在り方に問題はなかったか」との問いに対し、「目撃者の通報後、直ちに緊急配備を敷いており、立ち上がりに問題はない」と回答した[33]。また、久高ら捜査幹部は、『琉球新報』記者からの取材に対し、「犯人が事件後、中南部(人目が多く、夕方の渋滞に巻き込まれやすい市街地方面)に逃走した可能性は低い」と説明したが[2]、久高は1997年1月3日に記者会見で「限られた人員・地理的な状況を踏まえ、『早い時間に大宜味村津波を押さえれば、包囲網が敷ける』と判断して検問を張ったが、結果的に加害者2人は配備前に検問場所を通過していた可能性が高い」と説明した[20]。『週刊文春』 (1997) は、県警担当の社会部記者の「事件発生後の緊急配備がもう少し早かったらAちゃんは救い出せた可能性が高い」という証言を報道している[94]。また、惠隆之介 (2013) は、「県警は『(本島北部で発生した)本事件は犯人が被害者を連れ、車で本島中部に南下するだろう』と推測して名護市内に非常線を張ったが、実際には被害者は拉致現場よりさらに北方の山中で殺害されていた」と述べている[96]

犯人像についての捜査

拉致現場を目撃した住民の証言によれば、男はいずれも20歳前後の日本人とみられる人物で[97]、第一報では「1人は緑色の七分のズボンを、もう1人は白の上着とカーキ色の作業ズボンをそれぞれ着用していた」とされていたが、服装に関しては後に「1人は緑色の上着に青の短いズボンを、もう1人は緑の半袖シャツにジーンズの半ズボンを着用していた」と訂正された[98]。犯人に関する情報は、その犯行時の服装に関する情報を除くと、「1人は身長160 - 170 cm程度で、色は浅黒く、中肉」という情報だけで、人相など身体的特徴に関しては全く手掛かりはなかった[99]。このため、被疑者のモンタージュ写真は作成できなかった[91]

実際の犯人(YおよびU)は、いずれも本土から流れてきた人間だったが[100]、犯人像について、県警は当初「近所のチンピラの犯行」と睨んで捜査しており、地元住民たちも犯人や犯行車両をその線で捜索していた[63]。犯人は当初から、日本人風の男とされていたが[101][92]、当時の沖縄は、前年(1995年)9月に発生した米兵による少女暴行事件の記憶が生々しく、県民の在日米軍に対する感情が悪化していたことから、「アジア系の顔をした米兵ではないか?」という見方をする市民もいた[92]。一方、米軍基地の敷地内は日米地位協定により、米国の排他的管理権が認められているため、日本の警察アメリカ合衆国側の同意がなければ立ち入ることができず[102]、名護市の近隣に位置する宜野座村金武町は、7月21日の一斉捜索を控え、それぞれ米軍側にキャンプ・ハンセンや、米軍の訓練場2か所(ブルービーチギンバル)への立ち入り捜索許可を求めたが、いずれも認められなかった[103]。また、名護市もキャンプ・シュワブ北部訓練場の内部の捜索を申請したが、後者は1時間しか許可されなかった[103]。このことを踏まえ、『AERA』(朝日新聞社出版本部)編集部の長谷川熙は、事件解決前に、「目撃証言では『犯人は日本人風』とされており、米軍基地との関連は不明だが、沖縄県警は米軍基地を『治外法権下』と拡大解釈して初めから自己規制し、米軍基地をことさら腫れもの扱いすることで、基地への捜査の努力を放棄している」と指摘していた[101]。一方、久高は外国人による犯行説について、否定的な考えを示していた[104]

また、目撃者がいても意に介さない大胆な犯行手口から、「犯人は東南アジア方面の人身売買の国際的な誘拐団で、日本人少女を誘拐するため、最初から緻密な計画を練り、逃走経路を確保した上で犯行におよんだ。犯人グループは犯行直後、船で日本を脱出し、車は日本国内の協力者に処分させた」という見方もされていた[105]

公開捜査

名護署は事件当時、目撃証言から、「身代金目的誘拐の可能性もある」として捜査していたが、被害者Aの自宅には何の連絡もなかったため、拉致事件と断定[106]。同署や県警捜査一課[107]、翌22日7時から、警察官180人、学校関係者や住民200人が[71]、本格的な捜索活動を開始[43]。被害者Aの保護を第一に[108]、車両検問や、現場周辺での聞き込み捜査を行った[97]

また、県警は機動捜査隊自動車警ら隊を投入したほか、本島中・南部でも検問・検索を実施し[78]、県内のモーテル・車が入れる山道などを重点的に捜索した[106]。しかし、Aの発見・保護には至らず、事件2日後(6月23日)の21時、名護署に「女子中学生ら致事件捜査本部」を設置し、県警本部や各所から動員した150人を専従捜査員として配置[44]。24日には、鹿児島県警察から応援のヘリコプターが駆けつけ、本島全域や離島(伊江島伊是名島伊平屋島など)の上空から捜索を行った[109]

周辺道路で実施された検問に犯行車両が引っかからなかったことから、県警は事件後、しばらくは「犯人は沖縄本島北部の捜査網の中にいる」として[68]、本島北部に重点を置いて捜索した[110]。しかし、県警が参考人として多数の若者を事情聴取し[63]、地元住民を含めた捜索を行っても、手掛かりは得られなかったため[68]、6月25日には捜索範囲を本島中部にも拡大した[46]

事件6日後(6月27日)、県警は全県を捜索対象とした[68]。そして同日、捜査体制を強化するため、捜査本部を、先島(宮古島署八重山署)を除く本島11の警察署や、県警本部の捜査員らによって構成される特別捜査本部(以下「特捜本部」、本部長:久高常良)に格上げした上で、専従捜査員も150人から650人[33](県警職員の4分の1)に増員した[90]。県警は同時に、各警察署にも「女子中学生ら致事件対策室」を設置し、特捜本部と連携を図りながら、本島全域でAの保護や、犯行車両の発見に全力を挙げた[33]。また、被害者Aの名前・顔写真・特徴などについては[68]、Aの人権や、犯人を刺激する危険性に配慮し、当初は非公開で捜査を続けていたが[111]、捜査に進展が見られないまま1週間以上が経過したことから、特捜本部はAの家族から同意を得た上で、同月28日(事件発生から8日目)の15時、公開捜査に踏み切った[34]。当時、県警が刑事事件で、600人規模の特捜本部を設置したことや、被害者の顔写真や氏名を公表する公開捜査を行ったことは、いずれも極めて異例のことで[注 4][33][34]、翌29日にはAの顔写真や、犯行車両の特徴などを記したポスター10,000枚が、人が集まる場所(商店街・給油所・病院・銀行など)に貼り出された[112]。さらに7月1日には、Aの所持品の類似品(制服や体操着など)を公開した[75]。公開捜査開始後、特捜本部には7月11日8時までに、県内外から328件の情報(主に犯行車両に関する情報)が提供されたが、これでも決定的な手掛かりは得られず、県警内部からは「情報量そのものが少ない」という指摘もされていた[113]

名護市消防本部も名護漁港近海や、A宅付近の「内原ダム」でダイバーによる水中での捜索活動や[114]、名護市内(天仁屋・辺野古為又など)にある農業用ダム15か所などでゴムボートを用いた捜索活動を行ったり[115]本部町今帰仁村消防組合との合同で、運天港・湧川マリーナ近海の捜索を実施したりした[116]。遺体発見現場となった国頭村の林道沿いの山中も、県警の機動隊・白バイ隊や[82]、地元住民、市民対策本部が何度も捜索を行っていたが、林道沿いの崖に密生するススキや、広大な森林に阻まれ、車両からの捜索が中心となっていた[50]。この林道について、同現場に近い国頭村奥の地区長は「普段から人が通らない場所だから、地元住民が何度も重点的に捜索していたが、(捜索した当時は)ススキと藪に阻まれて何も発見できなかった」と[63]、『週刊文春』から取材を受けた社会部記者も「(遺体は)生い茂ったススキに埋もれて道からは見えなかった」と、それぞれ述べている[117]

民間の捜索活動

事件発生直後の20時30分、一部学校関係者が徹夜で捜索を開始し、翌22日7時以降、学校関係者が本格的に捜索活動を行った[43]。地元住民中学校のPTAや地元住民[97]、同級生らも捜索活動に加わった[108]

発生2日後の6月23日21時、地元に市民対策本部が正式に設置され[注 22][43]、以降約1か月間で33,800人の市民が捜索活動に参加[119]。防災無線で捜索への協力が呼び掛けられ、自治会やPTA[注 23]関係者、自治体職員らが巡回活動を展開した[120]。当初の参加者数は約800人だったが、次第に各地から協力者が加わり[110]、沖縄県教育長の仲里長和が臨時記者会見で、県民に捜査への協力を求めるコメントを発した6月25日には[45]、地元住民約1,000人が大捜索を展開[47]。26日には1,400人以上で、県内全域の捜索が実施され[110]、公開捜査が開始された28日には、早朝から名護市民約3,000人が、市内55の集落で一斉捜索を実施した[34]。以降、同月30日(日曜日)まで、8日連続で1,000人以上の市民による捜索活動が展開され[121]、市民たちは連日気温が30度を超える炎天下で、朝9時ごろから夜19時過ぎまで捜索活動を続けた[69]。NTTは捜索現場と市民対策本部の連絡用に、携帯電話10台を供与した[69]

捜索場所は、サトウキビ畑、空き家、倉庫[122]、草むら、排水路[123]、山中、小さな路地[124]、本島の東西双方の海岸(辺戸岬以南)[125]などにおよび、ゴミ袋や放置物なども調べられた[122]。また、捜索への協力を呼び掛けるビラ配り[126][112][114]、ポスターの配布といった活動や[127]、釣り船による海の捜索[128]、キャンプ・シュワブの黙認耕作地一帯[129]、そして北部訓練場内の捜索も行われた[49]。仕事を休んで捜索に協力する住民も多く[130]、中には、出勤扱いで捜索に協力した地元企業もあった[118]。このような市民による捜索活動に対し、情報提供を求めるポスターのコピー代のカンパや、飲み物などの差し入れも多く寄せられた[69]

沖縄県教育庁は同月2日、沖縄県教職員組合(沖教組)からの要請を受け、県人事委員会の承認を得た上で、「捜索活動への自発的意思に基づく協力は、人道的見地からも有意義なもの」として、捜索活動に協力する教職員について、職務に専念する義務を免除し勤務扱いとする「職専免」を適用することを決定した[116]。これは、北部地域の学校教職員らが捜索活動に追われるようになったことを受け、その動きを全県に広げるための措置だった[116]。県も同月5日、同様に捜索活動に参加する県職員を「職専免」の対象とすることを決め[131]、市町村会の呼び掛けにより、名護市以外にも国頭郡(恩納村本部町[76]今帰仁村[132])、沖縄市[133]、宜野湾市[134][135]、那覇市[136][137]、浦添市[128][138]中頭郡西原町[139]与那城町[140])、島尻郡南風原町[141]知念村東風平町[142][143]豊見城村[144])、糸満市[145]、そして遺体発見現場となった国頭村[146][147]などでも、一般市民や自治体職員らによる捜索活動が展開された。このほか、事件現場に近い名桜大学の職員・学生や[146]、「沖縄子ども会育成連絡協議会」[148]、県出店事業組合[149]なども、近隣の捜索や、市民へのチラシ配布などの活動を行った。

このように、地元住民による熱心な捜索活動が繰り広げられた背景について、『週刊文春』 (1996) は1人の地元住民の声を取り上げ、「1994年12月、名護市内で幼児3人が行方不明になり、約20日後に散水車のタンク内から遺体で発見された“タンク事件”があった。この事件の際、約7,000人の市民が自主的に捜索活動に参加し、今回と同様に広範囲で捜索を行ったが、遺体は子供たちの自宅の至近距離に放置されていた散水車から発見された[注 24]。この時の苦い経験から、市民は慎重に同じ場所を何度も捜索している」と[69]、『女性セブン』 (1997) は「沖縄に根強く残る『ゆういまる』(助け合う)の精神の影響」と報じている[151]。一方で山中を捜索する場合、一般市民だけでは遭難やハブに襲われる危険性があるため、森林組合など山林事情に詳しい人物の協力を得て、道から目につく箇所を探す程度しかできなかったが、手掛かりがつかめないことに加え、7月以降はハブが産卵期に入り、危険性が増大することから、山中の捜索は困難を極めつつあった[79]。このことから、県民に対し、県外から「ハブによる被害を恐れて、本格的な山狩りをしなかったのではないか」という冷ややかな声も上がったが、遺体発見現場に近い国頭村奥の村民は、「山を知っている山原地区の人間なら、ハブは夜行性で昼間の捜索には邪魔にならないことを知っているはずだ」と述べている[63]。結局、1か月近くの大規模な捜索活動でも手掛かりは得られず、長引く捜索に対する市民たちの疲れもあって、捜索活動への参加者は徐々に減少していき、24時間体制を維持していた市民対策本部も、7月13日以降は当直を残して午前0時で待機を切り上げるようになった[152]

県内一斉捜索

同年7月12日には、県内25の市町村[153](離島を含む県全域[36])で、住民や教職員による県内一斉捜索が行われ、住民や教職員、自治体職員らが参加した[153]。これは、県や県教育委員会などの主催で、同日に22市町村で開催された「青少年の深夜徘徊防止県民一斉行動」の住民大会に合わせて実施されたもので[35]、住民大会が開催された22市町村以外でも、3町村で捜索活動が展開された[36]。その前日(同月11日)には県知事大田昌秀が記者会見で県民に対し、捜索への協力を呼び掛けたが、事件に関連して全県一斉の捜索が行われることや[35]、知事が事件の捜索への協力を呼び掛けたことは、いずれも異例のことだった[36][154]

同日の捜索活動の参加人数は、公式発表では「25市町村で約25,000人」とされているが、対策本部長を務めた男性は「実際は、その数倍の人たちが協力してくれたはず」と述べている[151]。この大規模な捜索活動を受け、Aの両親は県民へのお礼や、犯人に対し「一刻も早く娘を返してほしい」と訴える内容の文書を書き、同月14日の「沖縄2紙」(『沖縄タイムス』および『琉球新報』)の朝刊にその文書が掲載された[155][156]

事件発生から1か月目となる7月21日には、2度目の県内一斉捜索が行われた。これは、捜索に当たっていた市民の焦りや疲れが頂点に達していたことから、市民対策本部が「1つの節目」として、本島北部(12市町村)で改めて一斉捜索を行うことを検討したものだが[157]、同月17日に緊急で開かれた北部市町村総務課長会議の結果、中南部にも協力を求め、それぞれの地域で一斉捜索を行うことが決まった[158]。しかし、この日の捜索でも有力な手掛かりは得られず、名護市長の比嘉鉄也は同日、「組織的な捜索はきょうで打ち切り、今後は警察の捜査を見守りたい」と表明した[49]。これは、情報が得られない中で、市民対策本部が人員を確保し、組織立った捜索活動を継続することが困難になったためだった[159]。7月22日までに、投入された捜査員は21,808人、捜索に参加した住民の人数は33,831人に上った[89]

その後も捜査の進展はなく、事件発生から2か月となる8月時点では[注 25]、それまでに特捜本部に約840件の情報が提供されていたものの[160]、新たに寄せられる情報の件数は1日に1、2件程度に激減[161]。一方で8月ごろには、本島中南部から被害者であるAを無根拠に誹謗中傷するような憶測や噂も流れていた[160]。11月時点ではAの父親の同僚や、名護市職員、PTAらが交代しながら24時間体制で、情報提供を受け付けていたが、この時点では事件関連の情報は皆無になっていた[162]。同年12月15日には、沖縄2紙の朝刊に、名護市民対策本部が「Aさんをすぐ帰して下さい。」という題名の特別広告を掲載[51][52]。この広告は、協力への感謝と、今後の情報提供を呼び掛ける内容で[118]、Aが拉致される直前まで一緒に下校していた女子生徒(甲)や、Aの父親がそれぞれ、以下のようなメッセージを寄せていた。

〔A〕、〔甲〕だよ。早く会いたい。そして一緒に話して一緒に笑いたい。いっぱい話したいことあるから早く帰っておいで。 — Aが拉致される直前まで一緒に下校していた女子生徒(甲)、[51][52]
犯人に対して言いたいことは、罪を犯していつまでも逃げとおすことはできません。(中略)あなた達にも家族がいるのであれば、私たちの気持ちが分ると思います。一刻も早く、〔A〕を解放して自首することをすすめます。 — Aの父親、[51][52]

Aは生前、動物好きで、獣医になることを夢見ていた[163]。家族たちは、遺体発見までAの無事を信じ続け、事件前にAが可愛がっていた犬が家から姿を消して以降、「Aが帰ってきたときに寂しい思いをする」との考えから、新たに犬と猫を飼い始めていた[164]。また、Aのクラスメートや、彼女が所属していた羽地中学校のバレーボール部員たちも、それぞれAの無事を祈っていた[165][166]

2人を窃盗容疑で指名手配

一方、県警は犯行に使用された車両(白いワンボックスカー)や、不審人物(前科・前歴のある人物や非行少年、変質者など)について調べ続けた[167]。前者(犯行車両)については、目撃証言に近い車種はトヨタ・ハイエースだったが[168]、色や形状を問わず、車検の登録番号を基に、すべてのワゴンタイプの車を調査対象とした[113]。7月の第2週以降は、トヨタ以外の他メーカーの車種である可能性も考慮し、調査対象台数を一万数千台増やしたが[168]、その対象台数は、約80,000台に上った[162]

調査対象の膨大さや、登録証だけでは形式や色の明確な区別ができないこともあって、特捜本部は全メーカーの同型車種を点検することを強いられ[169]、既に登録を抹消されているはずの車が使われ続けているケースや、車庫登録を他の市町村で行っている例が多いことも、確認作業の支障になっていたが[168]、特捜本部は少しでも不審な点があった車(事件発生直後、検問や検索で職務質問を受けた車両など)を繰り返し調べ直すなど[99]、地道な捜査を続けた。結果、県内の陸運事務所に登録されていた類似車両約56,000台については、事件から1か月後の7月22日時点で、93%の確認を終え[104]、12月20日時点では、未確認の車両は約15台となっていた[注 26][90]。また、後者(不審人物)に関する捜査でも、「拉致現場付近の建築工事現場で働いていた1人が、事件翌日から姿を消した」などの情報を把握[99]。約1,000人近くを事情聴取し、そのうち数人を有力な被疑者としてピックアップしたが、いずれもアリバイが確認されるなどしたため、捜査線上から消えた[90]

難航する捜査の中で、特捜本部が「比較的有力」と見ていた車は、ワンボックス型の盗難車両2台だった[113]。そのうちの1つが[113]、6月25日に石川市石川(現:うるま市石川)で発見された白いワンボックスカーで[46]、もう1台が、7月5日午前、辺戸岬近くの農道で発見され[171][172]、後に犯行車両と判明した白いワンボックスカーである。特捜本部や、地元の対策本部はそれぞれ、車両番号・車両の特徴を記したビラを「緊急情報」として配布し、この2台の車の捜索を続けていた[113]

後者のワンボックスカーは発見当時、ナンバープレートを取り外された状態で[19]、茂みに隠すように放置されていた[93]。発見現場は、地元住民でもほとんど入らない農道の奥で、鬱蒼と草木が茂っていた[48]。単に盗んだ車を放置したにしては、念の入った隠匿工作がされていたことや[48]、中で飲食した形跡があることなど、不審な点が多くみられたため[93]、特捜本部が鑑識を行うこととなり、名護市役所羽地支所に設置されていた対策本部も「被疑車両か?」と色めき立った[171]

しかし、県警は同日夜、この車について「事件との関連は薄い」との見解を示した[173]。これは、車内に残されていた遺留品の調査や、車内鑑定などの結果[173]、被害者Aの指紋・遺留品が見つからなかったことや[50]、目撃者が「犯行車両はこの車と違い、側面と後部の窓が鉄板のようなもので覆われ、中が見えないようにしてあった」と述べ、この車と事件との関連を否定したためだった[73]。当時、この車の鑑識や、科学捜査研究所による車両鑑定は、計3度行われたが、結果的に犯人2人 (Y・U) の指紋は検出されたものの、被害者Aの指紋は発見されず、車内から発見された毛髪も、Aとは結びつかなかった[48]。しかし、後にこの車が犯行車両と判明したことから、事件解決後には市民の間から、「もっと慎重に車を調べるべきだった。(その日のうちにシロと発表せず)引き続き市民の立場から協力でき、Aの発見も早まっただろう」など、警察の捜査に対する厳しい意見が出た[注 27][119]。また、『FRIDAY』は犯行車両の中に、使いかけのティッシュの箱やビニール袋が残っていたことを挙げ、鑑識活動が不十分だった可能性を指摘している[64]。法医学の専門家である医師の上野正彦は、「検査結果が出るまでに3、4日ほどかかるため、車を発見した当日中に『何もなかった』と発表するのは不可解。遺体発見現場も、車で通れる道から10 m未満の場所にあるため、車内で殺された可能性が高いが、そうだとすれば遺留品が出てこないということは考えがたい」[64]「(拉致現場から遺体発見現場まで)50 kmあるが、それだけ乗車していれば髪やフケなど何らかの遺留品が出るし、Aが車内で暴れれば当然その量も増える。現時点では鑑識は失敗だったと言えるのではないか」と、当時の捜査状況に疑問を呈している[94]

一方、県警はその後も、この車と本事件との関連を調べ続けていた[注 28][90]。この車内の遺留品・指紋などから、Y・Uの2人が浮上したため[19]、(この車について窃盗の被害届を受理していた)那覇警察署は同月18日[19]、「事件に関与した可能性が捨てきれない」として、2人を窃盗(ワゴン車を盗んだ容疑)で全国に指名手配[50]。特別班を設置し[48]、同年8月[50]、被疑者Yの実家があった種子島(熊毛郡中種子町)や[174]、Yの肉親が住んでいた愛知県に捜査員を派遣していた[50]。2人には、拉致現場近く(名護市伊差川)での足取りがあったため[73]、その後も県警は「完全には(嫌疑が)捨てきれない」と行方を追い続けていたが[90]、彼らを「本命視」していた捜査幹部は少なく、あくまで「有力というわけではなく、(疑いを)消すための捜査」という意味合いが強かった[50]。また、この車が発見されたことを受け、6月19日にYとUによって砂浜で立ち往生していたところを助けられていた夫婦は、同年9月に沖縄県警に対し、2人の姿が映ったビデオテープを提出していた[40]

逮捕

通常、捜査本部の継続期間は15 - 20日とされるが、県警は捜査が長期化する中、事件に対する県民の強い関心を受け、650人の捜査体制を維持し続けた[注 29][91]。しかし、事件から半年が経過した12月時点でも、有力な手掛かりは得られておらず、犯行車両と同型の県内の登録車両の捜査がほぼ完了したこともあって、専従態勢は650人から200人に縮小されていた[90]

一方、Yは同年12月28日、種子島に帰郷したところ、実家で家族から「刑事が調べに来ている」と言われた[65]。「逃げられない」と思ったYは[65]、逃走に疲れたこともあって[18]、同日11時32分、種子島警察署(鹿児島県警)の中種子交番に出頭[65]。同日13時26分に逮捕され、同日中に鹿児島中央警察署へ身柄を移されると[65]、翌29日には那覇署に移送された[11]。Yは同署で、本事件の特捜本部の捜査員から窃盗容疑で取り調べを受けたが、その取り調べが一段落した同月31日19時過ぎ、捜査員が「窃盗以外に悪いことをしたんじゃないか」と尋ねると[37]、Yは「Uと共謀し、Aを殺害して国頭村の山中に遺棄した」と自供した[11]。このため、特捜本部が1997年(平成9年)1月1日早朝から、Yを立ち会わせ、国頭村の山中を捜索したところ[11]、同日15時23分、国頭村の林道脇の崖下で、Aの制服や教科書などが入ったリュックサックが発見された[175]。そして16時過ぎ、リュックサックの発見地点から約800 m東方の林道脇斜面で、白骨遺体が発見され、歯型の鑑定により、Aの遺体と確認された[16]。遺体は発見当時、Aが拉致された際に着ていたバレーボール部のユニフォームを着た状態で、凶器の紐が絡みついていた[82]。遺体は翌日(1月2日)午前、琉球大学医学部で司法解剖された後、遺族に引き渡され、名護市内の火葬場で火葬された[175]。同日、Yは身柄を那覇署から、特捜本部の置かれていた名護署に移送された[176]

Yの自供通りAの遺体が発見されたことを受け、特捜本部は同月3日0時55分、Yと指名手配中だったUの両被疑者について、殺人死体遺棄などの容疑で逮捕状を取り、同日11時、Uの指名手配容疑を窃盗から殺人・死体遺棄などに切り替えた[176]。また、同日16時30分、Yは名護署に殺人・死体遺棄などの容疑で再逮捕され[176]、5日午後、那覇地方検察庁へ身柄を送検された[177]。Yは取り調べに対し、「Aが逃げようとしたので殺した」「逃げないようロープで縛っていたら、死んでいた」など、供述を二転三転させたが、特捜本部は拉致当初から殺害を計画していた可能性もあると睨み、追及を行った[178]

一方、指名手配されたUについては、特捜本部が顔写真入りのポスター50,000枚を制作して全国に配布し[注 30]、行方を追跡していた[180]。同月11日23時20分ごろ、「2日前、Uに似た男を浦添市営伊奈武瀬球場[注 18](浦添市勢理客)で見た」という110番通報が入った[53]。県警自動車警ら隊などが同球場に駆けつけたところ[22]、翌日(1月12日)0時ごろ、警察官がダグアウト内ベンチ[注 31]で寝ていた男を発見した[53]。男は手配写真のUと異なり、丸刈り頭で、眼鏡を掛けておらず[22]、「Uだな」と職務質問してきた警ら隊の警察官に対し、本人であることを強く否定したが、警察官は、Uの特徴の1つだった右眉の上のほくろを見逃さなかった[184]。県警が那覇署で指紋照合を行ったところ、男はU本人であることが確認できたため、県警はUを名護署に任意同行し、同日2時20分に逮捕した[53]。当時、Uの所持金はわずか60円だった[22]。その後、Uは石川警察署に移送されて取り調べを受け[22]、翌日(1月13日)、那覇地検に送検された[185]

一方、1月4日には被害者Aの告別式が開かれ、クラスメイト・学校関係者、捜索に参加した市民や、県出身の国会議員、東門美津子(県副知事)、仲里県教育長[186]、久高県警刑事部長、饒平名長良(名護署長)、我喜屋宗弘名護市議会議長ら、約2,000人が参列した[187]。Aが拉致される直前まで一緒に下校していた甲は、弔辞でAが生前好きだったスピッツの楽曲「空も飛べるはず」の歌詞を読み上げ[187]、「できることならもう一度話をしたい」などと述べている[188]

起訴

那覇地検は同年1月25日、殺人・死体遺棄・わいせつ目的誘拐・婦女暴行・窃盗の罪で、被疑者Yを那覇地方裁判所起訴した[10][189]。また、Yについても同年2月2日付で、殺人・死体遺棄など5つの罪で起訴した[23]

同年2月3日、特捜本部は解散[54]。投入された捜査員の総数は、延べ148,000人に上った[15]

刑事裁判

司法研修所 (2012) は、1970年度(昭和45年度)以降に判決が宣告され、1980年度(昭和55年度) - 2009年度(平成21年度)の30年間にかけて死刑や無期懲役が確定した死刑求刑事件(全346件/うち193件で死刑が確定)[注 32]を調査し[191]、殺害された被害者が1人の殺人事件(強盗殺人は含まない)で死刑が確定した事件は全48件中18件[注 33](全体の38%)と発表している[195]。本事件のようにわいせつ・姦淫目的で誘拐した後の殺人(被害者1人/強盗殺人は含まない)は計10件(被告人は計10人)あるが、いずれも一連の犯行に着手する前に被害者への殺意を抱いていた事例ではなく、死刑確定は10件中3件(3人)[注 34]にとどまり、本事件の加害者2人を含む7件(7人)[注 35]は無期懲役が確定している[200]

そのような事情の中でも、那覇地検は本件犯行を「計画的で残虐、凶悪な犯行」と位置づけた上で、被害者が非力な女子中学生だった点や、遺族の被害感情を酌み取り、社会に与えた深刻な影響も指摘した上で、死刑を求刑した[194]。しかし、第一審控訴審とも、殺害された被害者が1人である点や[13][8]、犯行の計画性が高くない点[13][8][204]被告人2人に目立った前科がない点[7]などが考慮され、死刑適用は回避された[7][8]

第一審

争点表
各々の主張/争点 両被告人の役割・主従関係 殺害の計画性および、殺害を決意した時期 情状面など
検察官 Yが先に女性を拉致・強姦することを提案し、Uも同意した上で、2人で計画・準備をした[14]
UはYに対し、Aの拉致を思いとどまるよう進言したが、聞き入れられなかった[24]
殺意は犯行現場の移動中に発生していた[193]
事前に拉致した被害者を殺害することまで計画していた[14] 拉致から死体遺棄まで、当初の計画通りわずか2時間半で終了しており、極めて計画的な犯行。Aの首にロープをかけて2人で一気に引っ張って殺害するなど、犯行は冷酷・残虐だ[205]
公判中、2人はそれぞれ「殺害は突発的だった」 (Y) 、「Yからの指示でやった」 (U) など、それぞれ主張の一部を翻しているが、これらは刑の軽減を狙った虚偽供述で、反省の様子など全く見られない[206]
被告人Y 犯行前、女性を拉致することを相談したが、犯行の役割は事前には決めていなかった[207]
事件前、Uに冗談交じりで「女性を強姦して山に捨てよう」[208]「拉致して殺せばいい」[193]と持ちかけたら、Uも「そうだな」と応じた[208]。当時の会話は、犯罪意識のない冗談だった[193]
殺害は犯行2日前から計画したものではなく、犯行直前に思い立った[14]。殺意を明確に抱いたのは犯行直前、凶器のロープを手にした時だった[193]
殺害計画を自白した両被告人の捜査段階の供述調書は信用性に欠ける[193]
2人の事前謀議は拉致のみで[55]、Aに顔を見られていたことや、(拉致した際に目撃者から)「おーい」と声を掛けられていたことから、殺さないといけないと思った[207]。現場に到着後[55]、Aの首にロープを巻いた時に殺害を決意した[208]
遊び半分で[208]、「どちらが殺すか決めよう」と言ってじゃんけんをしたが、結局は2人でAの首に巻き付けたロープの両端を引っ張り合って殺害した[207]
Uは自分に従属的な立場ではなく、自分に対し、Aの拉致を断念することや、犯行後にAを解放することは進言していない[59]
最高裁が示した死刑選択の一般的基準に照らし、死刑選択は許されないケースである[193] (弁護人)事件後に交番に出頭したことから、自首が成立する[55]
被告人U Yに終始従属的な立場で、Aを拉致する直前、Yに「子供だからやめよう」と言った[209] Yの言う「じゃんけん」はしていない[209]。拉致した後も、Aを殺害する意思は直前までなかったが、Yから「拉致現場を目撃されている」と聞かされ、殺害を決意した[209]
事件後、Yは新たな犯罪を自分に持ち掛けていた[210]
(弁護人)UはYとの対比で、明らかに量刑事情に差異がある[55]
判決の認定 Yが多少主導した面もないではないが、Uもほぼ同等の実行行為を分担しており、主従関係・刑事責任とも差をつけがたい[81] 拉致などについては場当たり的な犯行で、殺害・死体遺棄を決意したのは犯行現場の移動中だった[12]
計画性そのものは認められるが、当初から被害者の殺害を確定していた事件(身代金目的誘拐殺人など)と比較すると、悪質性の程度は若干の差異があることを否定できず、この事件の殺人・死体遺棄に限れば、計画性は高くない[204]
犯行態様は残忍で、動機に酌量の余地はない[12]。事件の悲惨な結果、遺族の峻烈な処罰感情などから、2被告人に同情すべき事情はなく、刑事責任は極めて重大だ[12]
死刑適用には慎重でなければならず、近年の死刑適用事情を合わせ考えると、死刑を持って処断するには躊躇を感じざるを得ない[12]

刑事訴訟規則では、法定刑が死刑、無期刑または3年以上の懲役刑となる事件の場合、弁護人がいなければ公判を開けないことになっている[注 36]が、2被告人に私選の弁護人はおらず、国選弁護人の選任も難航した[212]沖縄弁護士会は、本事件が重大事件であり、弁護人の負担が重くなる可能性を考慮して[213]、2被告人にそれぞれ複数の国選弁護人を選任する[注 37]方向だったが、1月31日までに弁護士会内から希望者は現れなかった[212]。同弁護士会ではそれまで、会員弁護士会の名簿順に国選弁護人を受任しており、このように選任が難航した事例は異例だったが[212]、その背景には、県民から国選弁護人に対し、「なぜこのような犯人を弁護するのか」という冷ややかな視線が注がれていた事情もあった[214]。最終的には、起訴当時の県弁護士会執行部員4人(副会長2人・理事2人)が国選弁護人に就任し[214]、YとUにそれぞれ2人ずつ弁護人が就く形になった[32]。初公判が開かれた1997年4月24日には、沖縄弁護士会(会長:伊志嶺善三)が県民への理解を求め、地元紙に「県民としては到底許せない事件であっても、国民の基本的人権を守ることが憲法で定められている以上どうしても(弁護を)引き受けざるを得ない事件だ」という会長コメントを掲載した[214]

初公判

第一審の公判は、初公判から判決公判まで計14回にわたって開かれた[215]

初公判は1997年4月24日、那覇地方裁判所(長嶺信栄裁判長)で開かれた[24][18]。同日、罪状認否で2被告人はそれぞれ起訴事実を全面的に認めた上で、被告人Uは「被害者やその両親に対し大変申し訳ない。素直に刑を受けたい」と陳述し、Yも「Uと同じ意見です」と述べた[24]

検察官は、冒頭陳述で「被告人Yは1996年6月19日(事件2日前)、国頭村の海岸に遊びに来ていた観光客の女性を見て、被告人Uに対し、『女性を拉致して暴行しよう』と持ち掛け、Uもこれに同意した。2人は役割分担を決めた上で、盗んだワンボックスカーに女性を連れ込み、ガムテープで縛ったり、金品を奪ったりした上で、発覚を防ぐため、殺害して死体を捨てることなどを計画した」[14]「計画を立てて以降、2日間にわたって北部地域で女性を探した」[18]「Aを拉致する際、UはYに対し、相手が女子中学生であることから犯行を思いとどまるように言ったが、Yは聞き入れなかった」と主張した[24]

一方、両被告人は互いに「殺害は犯行2日前から計画したものではなく、犯行直前に思い立ったものだ」と主張[14]。被告人Uは「各行為は被告人Yの主導でなされた」と主張した[18]が、被告人Yは「主従関係はなかった」と強調した[14]上で、「Yの出頭は自首に当たる」と主張した[注 38][18]。また、検察官は被害者Aの両親の調書の要旨を陳述したほか、両被告人の供述調書と、学校・地域関係者の調書を証拠申請したが、両被告人の弁護人はすべて不同意とし、役割分担・情状などについて争う姿勢を見せた[217]

公判の推移

第2回公判(1997年5月21日)では、拉致の様子を目撃した男性と、2人が被害者Aの自転車を捨てる模様を目撃した女性の2人が、それぞれ証人尋問として出廷した[218]。第3回公判(6月25日)で、検察官からの被告人質問を受けたYは、「遊び半分で、『どっちが殺すかじゃんけんで決めよう』と言った」と証言した一方[208]、続く第4回公判(7月15日)でUは、「『じゃんけん』の話は一切なかった。YはAの首を手で絞める真似をしながら、自分に殺害を持ちかけたが、その時は真剣だった」と主張した[210]

また、Uは第4回公判(同年7月15日)で[210]、弁護人からの被告人質問に対し、「Aを拉致する直前、『子供だからやめよう』と言った」「朝になったら(Aを)帰そうと思っていたが、Yから『拉致現場を目撃されている』と聞かされ、殺害を決意した」[209]「当初は殺害の意思はなかったが、Yに誘われて殺害に加わった」「Yは犯行後、女性が運転していた車をヒッチハイクした後、自分に『(車を運転していた女性の)首を絞めて金を取ればよかったと考えなかったか』と発言したり、安謝港(那覇市)で『1人殺すも2人殺すも同じだ。もう1回やるか』と持ち掛けたりしていた」などと主張[210]。一方、Yは第5回公判(同年8月27日)で、それらのUの主張をすべて否定し、「Uは犯行前、『観光客を狙おう』と言うなど、殺害に至るまでの犯行に自主的に加わっていた。自分がAを絞殺するためにロープを差し出した際も、Uは素直に受け取っていた」と主張した[219]。第6回公判(同年9月11日)では弁護人がUを[60]、第7回公判(同年10月14日)では検察官がY・U両被告人を、それぞれ再度尋問したが、2人は従前通り、「殺害前に『じゃんけん』をした」 (Y) 、「犯行直前まで殺意はなかったが、Yに迫られて殺害におよんだ」 (U) といった主張を繰り返した[220]。なお、裁判長を務めていた長嶺は、公判中の1997年10月31日付で定年退官[221]。それ以降の公判では、林秀文が裁判長を務めた[222][12]

第9回公判(同年12月19日)では、検察官の証人として、被害者Aの両親が出廷した[222][223]。Aの父親は、両被告人に対し「お前たちは、私たち家族を苦しめるっていう犯罪を今も続けているんだ。お前たちに生きる資格はない」[4]「早く(あの世に)行って(娘に)謝ってこい」と陳述したほか、裁判官に対しても両被告人への死刑適用を求めた[222][215]。また、Aの母親も、夫(Aの父親)が事件後、「夢を見たい」と言い、夏でも娘が生前使っていた毛布で寝ていることなどを証言した上で、裁判所に対し、「裁判は被害者のためにあるものと信じます」[222]「娘の苦しみをいやすような判決をお願いします」と陳述した[223]

一方、1998年(平成10年)1月20日の第10回公判では[224]、被告人Uの父親(北海道在住)が情状証人[注 39]として出廷し、被害者や遺族への謝罪の言葉を述べ、息子に対し「きちんと罪を償ってほしい」と語りかけた[225]。Uの父は公判の休憩時間中に、検察官と弁護人の計らいで、被害者Aの父親と対面し、土下座して泣き叫びながら謝罪している[215]。第11回公判(同月29日)で[226]、裁判官・検察官・弁護人による最後の被告人質問が行われたが、両被告人の主従関係や、殺害を決意した時期などに関する証言は最後まで食い違ったままだった[226][227]

2人に死刑求刑

1998年2月10日に、那覇地裁(林秀文裁判長)で論告求刑公判が開かれ、検察官は2被告人に死刑を求刑した[31][228][229]。沖縄県内での死刑求刑は当時、暴力団抗争・2警官殺害事件(1997年10月に無期懲役判決)[注 40]以来だった[234]

検察官は論告で、両被告人の主従関係や、犯行行為の役割分担について、「2人の罪に責任の軽重はなく、同等である。Uの『主犯はYで、自分は従犯だった』という主張は卑劣な弁解で、犯行態様から見れば決して従属的な立場ではなかった」と[31]、殺意や計画性についても「拉致から死体遺棄まで、当初の計画通りわずか2時間半で終了しており、極めて計画的な犯行」[235]「捜査段階での自供通り、両被告人とも事前に殺害を計画していた。公判で2人が『殺意は突発的だった』と主張を翻したのは、罪の軽減を狙ったもので、反省も見られない」と主張した[236]。また、Yの弁護人が自首の成立を主張した点についても、「Yは出頭した時点で殺害について供述しておらず、沖縄に連行された後、取調べ中に自白したのであって、自首は成立しない」と主張した[31]。その上で、犯行を「何の落ち度もない非力な少女を狙って殺害した最も極悪非道な部類に属する犯罪で、その罪質は極めて凶悪・重大」と非難し[31]、動機に酌量の余地がない点や[228]、遺族の被害感情の峻烈さ、そして教育現場・県民全体に与えた多大な衝撃などについても言及し、「罪刑の均衡、一般予防の見地からも、永山判決やその後の最高裁判例が示した死刑選択の基準からも、極刑をもって臨むしかない」と結論づけた[31]

次回公判(同月24日)で弁護人の最終弁論が行われ[31]、第一審の審理は結審した[55][237]。両被告人の弁護団は、それぞれ殺害の計画性を否定した上で、「殺害・死体遺棄については、計画性がないなど、情状酌量の余地がある」と主張し、死刑についても、「永山判決」以降、被害者1人で死刑が確定した事例は、強盗殺人や身代金目的誘拐殺人、被告人に重大前科があった場合などに限られていることを挙げ[注 33]、「最高裁が示した死刑選択の一般的基準に照らし、死刑選択は許されないケースである」[193]死刑制度は公権力による殺人であり、憲法違反」などと主張[237]。このほか、Yの弁護人は、殺害・死体遺棄に関して自首が成立する点[237]、両被告人の立場が対等であった点を主張した一方、Uの弁護人は「Uは終始Yに従属的で、殺害直前までその意思はなかった」と主張した[55]。最終意見陳述で、両被告人はそれぞれ被害者や遺族への謝罪の言葉を述べた[237]

無期懲役の判決

1998年3月17日に判決公判が開かれ、那覇地裁(林秀文裁判長)は死刑求刑を受けた2被告人を無期懲役に処す判決を言い渡した[12][7][238]

那覇地裁 (1998) は判決理由で、殺人の共謀が成立した時期について、「殺害場所を求めて第二現場(殺害現場)に向かったと考えるのが自然だ。第一現場から第二現場へ移動を開始する時点で、犯行の発覚を免れるためには殺害・死体遺棄しかないと考え、殺害の共謀を暗黙のうちに遂げた」と認定[81]。また、Y側が主張していた自首の成立については、「Yは本事件について、ポリグラフ検査を受けた際に、『犯人であることが明らかにならないようにしよう』という姿勢で臨み、その後自白したため、自発的な申告とは言えない」として、自首の成立を認めなかった[7]

量刑理由では、両被告人の役割分担や、刑事責任の差について「被告人Yが多少主導した面もないわけではないが、Y・Uの両者とも、ほぼ同等の実行行為を分担しているため、両者に主従関係や、刑事責任の差はつけ難い」という判断を示した上で、「犯行は極めて卑劣・非情。被害者が死亡したと確信するまで首を執拗に絞め続け、殺害直後、何の躊躇いもなく遺体を投げ捨てた。平和な農村地帯で起きた本事件は、教育現場・地域社会を震撼させ、地元や県全体に不安と恐怖を与えた」と指摘[81]。そして、遺族の被害感情や、検察官の死刑求刑については、「何の落ち度もない被害者が夢多い将来を永久に奪われた事件であり、遺族の悲しみ・絶望・怒りは絶大で、極刑を望んでいることも無理からぬものがある。両名の刑事責任は極めて重大で、検察官の死刑求刑にも相応の理由がある」と理解を示した[81]

しかしその一方で、被告人らにとって有利な事情として、拉致などについては場当たり的な犯行である点や[12]、殺人・死体遺棄に限れば計画性は高くなく[注 41]、拉致を行った時点では殺害を漠然と考えていたに過ぎない点を挙げ、「当初から殺害を確定していた身代金目的誘拐殺人のような事例と比較すると、悪質さの程度には若干の差異がある」と指摘した[81]。その上で、Y・Uの両名とも、前科・前歴はなく、逮捕後には犯行を自白し、反省・謝罪の念を深めていることについても言及し、「犯罪傾向が強いとも言い難く、更生可能性は肯定できる」と判示した[81]

そして、「死刑は、罪責が誠に重大で、罪責の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合に選択が許される究極の刑罰であり、その適用には慎重でなければならない。被告人らにとって有利に斟酌すべき事情がないとまでは言えず、近年死刑の適用に慎重になっている量刑の実情[注 42]をも考えあわせると、死刑をもって処断するにはなお躊躇を感じざるを得ない」として[81]、「被告人らには、犯行がいかに罪深いものであるかを自覚させつつ、終生、被害者の冥福を祈らせ、贖罪の道を歩ませるのが相当である」と結論づけた[12]

那覇地検は量刑不当を理由に、1998年3月30日付で福岡高等裁判所那覇支部控訴した[56]。一方、被告人2人は控訴しなかった[注 43]

控訴審

1999年(平成11年)1月14日、福岡高裁那覇支部(岩谷憲一裁判長)で両被告人の控訴審初公判が開かれ、検察官は控訴理由をまとめた控訴趣意書と補充書を、両被告人の弁護人側は答弁書をそれぞれ提出した[57]。控訴趣意書の内容は、「犯行は、役割分担や準備をした上での計画的犯行であり、態様も執拗・冷酷・残虐。遺族の処罰感情は以前強く、両被告人の更生可能性は認めがたいことなどを考えれば、刑事責任は重大。極刑をもって臨むほかない」として、原判決を破棄し、2人を死刑に処すよう求めるものだった[246][247]。一方、弁護人側は、最高裁判例や世界的な死刑制度の潮流、そして日本国内では死刑適用件数が1965年(昭和40年)以降、著しく減少していることなどを挙げ、「死刑の適用が許される基準を満たさない」として、検察官の控訴を棄却するよう求めた[246]

第2回公判(同年3月11日)から、裁判長は飯田敏彦に交代した[248]。同日、検察側の証人として被害者Aの両親が出廷し[注 44]、「1人も2人も人の命は一緒だ。数の問題ではない」「殺害現場は人里離れた場所で、計画性は完全にあったはずだ。そもそも計画性が問題ではなく、犯行内容やその結果を重視すべきだ」「犯罪者は法律で人権が守られているのに、亡くなったわが子や家族には人権はないのでしょうか」などと述べ、2人を死刑にするよう改めて求めた[248]。証人尋問後、検察官は目撃証人の出廷と、現場検証を求めたが、裁判所はいずれも却下した[248]

同年4月16日の公判では、被告人Uへの被告人質問が行われた。Uは弁護人からの質問に対し、「(死刑求刑に対し、無期懲役の判決を言い渡されたことについて)安堵感はあったが、本当にこれでいいのかとも思った」「責任の取り方として死刑になっても仕方ない」と答えた一方、検察官から拉致・殺害の計画性の有無を追及されると、「計画的ではなかった」と否定した[250]

控訴審は同年7月13日の公判(最終弁論)で結審した。検察官は、Aのリュックサックからわずかな所持金を奪った行為を「強盗殺人に匹敵する悪質性を有する」と指摘した上で、犯行の計画性・残虐性や[58]、2人が真に反省しておらず、更生可能性が認められないこと[251]、遺族の処罰感情が峻烈であり、一般社会の通念にも合致していることを主張し、「2人の刑事責任は重大で、一審判決は軽きに失し、極刑をもって臨むべき特別の必要性が高い事件である」と主張した[58]。一方、両被告人の弁護人側は、「両親が被告人に死刑を望んでいる心情は十分に理解できる」とした上で[251]、2人が心から反省していることを主張[58]。「国家によってなされる死刑は究極の峻厳な刑罰である」と位置づけた上で[251]、「死刑の適用可否は厳格に判断すべきで、適用の可能性があるか否かではなく、回避する可能性があるか否かを詳細に検討し、無期懲役の選択の可能性のある事情が一つでもあれば、回避すべきである」[13]「(本事件は)過去の死刑適用例に当てはめても適用は許されない」と主張し、控訴棄却を求めた[58]

無期懲役が確定

福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)は1999年9月30日、2被告人を無期懲役とした第一審判決を支持し、検察官の控訴を棄却する判決を言い渡した[13][8][252]。福岡高裁那覇支部 (1999) は判決理由で、「犯行は残忍・卑劣で酌量の余地はなく、被害者遺族の処罰感情も激しい。社会一般に与えた影響も無視できず、遺族が極刑を切実に希求する心情も十分に理解できるが、最高裁判例が示す死刑適用基準に沿って検討すると、殺害された被害者は1人で、暴行にも場当たり的・杜撰な面があり、計画性が高いとは言い切れない。両被告人とも前科・前歴はなく、更生可能性は皆無ではないことを考慮すれば、極刑がやむを得ない(無期懲役は軽すぎる)とは言えない」と述べた[8]

同判決に対し、福岡高等検察庁那覇支部上告するか否か検討したが、判例違反などの上告理由を見い出せなかったため、同年10月13日、上告を断念することを決めた[26]。弁護人も上告しなかった[注 45][255]ため、2人とも無期懲役が確定した[26]

影響

事件は沖縄県の教育関係者に大きな衝撃を与え、事件後、地元では日中でも両親が子供たちを車で送迎する姿が目立つようになった[256]。Aの通っていた羽地中学校は事件後の夏休み前、三者面談で各生徒の通学路を点検し、危険な箇所を避けて通るように指導した[160]。また、県子ども会育成連絡協議会の事務局長を務めていた安田恵美子は、Aが道を尋ねてきた犯人たちに対し、親切に教えようとしたことを利用されて拉致されたことに言及し、事件がもたらした青少年への心理的影響(子どもたちの他人や大人に対する不信感)を懸念した[118]。沖縄県教育庁は1997年1月3日の緊急課長会議で、児童生徒への安全指導について協議し、県内の各小中高校に対し、事件の再発防止に向けた体制確立(登下校の細かい指導や、声掛け運動など)を伝えたが[257]、同庁内部からは、学校の指導体制の限界を指摘する声や[注 46]、「この種の事件は避けようがない。社会全体が連携せねば再発は防げない」という声も上がっていた[256]

本事件をきっかけに、県北部における機動捜査力の脆弱性が判明したため、沖縄県警は名護市内に機動捜査隊自動車警ら隊の分駐所を設置することを計画した[258]

名護市議会(議長:我喜屋宗弘)は事件発生直後の1996年6月24日、当時行方不明だった被害者Aの捜索に参加するため、開会中だった定例会を同月末まで一時休会し、捜索活動に専念することを[27]、全会一致で決定した[259]。また、事件発生から1か月となる同年7月15日、名護市商工会青年部はAの捜索を優先するため、同月26日から予定されていた「第20回名護夏祭り」の中止を決定した[28]

事件発生を重視した島尻郡南風原町議会は、1996年6月27日の本会議で「町民の安全を確立し、夜間での路上犯罪のない明るい町づくりを図る」とうたった「明るく安全な町づくり宣言」を決議した[260]

事件が沖縄県民ではなく、本土の人間(「ヤマトゥー」)の犯行と判明したことから、沖縄県民の間では「ヤマトゥーの仕業だったか」という憤りの声も出たが、これについて言及した『沖縄タイムス』 (1997) は「沖縄人(ウチナーンチュ)は、本土の人間を指す言葉として『ヤマトゥンチュ』と『ヤマトゥー』を使い分けるが、前者は社交的な敬意を込めた意味合い、後者は本土への反感や差別的意識が働いた蔑称としてのニュアンスが強い。ウチナーンチュが後者の言葉を使う背景には、ウチナーンチュが『ヤマトゥー』の残酷な犯行によって犠牲となったことへの怒りや憎しみの表れであると同時に、本事件や一昨年(1995年)9月に発生した米兵による暴行事件など、外部の人間によって県民が犠牲になる事件が起きたり、犯罪だけでなく政治・経済など、様々な分野で本土から虐げられたりしてきた歴史の積み重ねが影響しているが、本事件により、『ヤマトゥー』ではない多くのヤマトゥンチュにまで好感を持つことのできない県民が増えてはならないと思う」と言及している[261]

なお、名護市では1996年から年末年始に東江中学校出身の新成人らが、銭ケ森の斜面に「光文字」を点灯する行事を行っているが、1997年(2回目)は本事件の被害者を追悼する「花」の文字が点灯された[注 47][263]。また、被害者Aの地元である羽地では「花バンド」が沖縄民謡を通じて人々を元気づけたり、空手道場を開いて子供たちに自衛を教えたりなどの活動を開始した[264]

被害者遺族の活動

被害者Aの父親は事件後、毎日のように自身で車を運転して県内を探し回り、白いワゴン車の目撃者から話を聞いて回った[265]。『女性セブン』記者の取材に対し、Aの母親は、夫(Aの父親)について「事件後、仕事のある日は仕事が終わってから、休日は朝7時ごろから夜10時ごろまで沖縄中の車が通れる道をすべて探し回っていた」と、近隣住民は「毎日のように夫婦でAを探していた。休日にはAの妹も一緒に出掛けていたが、妹は留守番する際、父に対し『お姉ちゃんを連れて帰ってきてね』と言っていた」と述べている[265]。彼は警察による組織的捜索が終わった7月以降も、娘の生存を信じて地元有志とともに、自主的な捜索活動を継続していた[266]。同年11月、Aの父は医師から自律神経失調症と診断されたため、上司に休職を勧められ[265]、同月初めには勤務先に休職願いを出したが、その後も娘を探し続けていた[170]。同年12月、情報提供を求めるビラを配っていたAの両親に対し、親戚の女性が「Aちゃん、かわいそうに」と声を掛けたところ、Aの父は「Aはまだ生きてるんだから、そんなふうに言わないでください」と言っていた[266]。また、Aの伯父(本島中部在住)や兄弟も事件以降、仕事や学校を休んで捜索活動を行っていた[267]

Aの父親は事件後、「九州・沖縄犯罪被害者連絡会」(みどりの風)に所属し、同会により2016年・2019年にそれぞれ那覇市内で開催された「九州・沖縄犯罪被害者大会in沖縄」[注 48]の大会実行委員長を務めた[29][268]。2003年(平成15年)12月7日付の『琉球新報』では、島尻郡佐敷町(現:南城市)在住の女性が被害者Aの父親に対し、Aを追悼する歌2曲を収録した自主制作CDを贈呈したことが報じられた[269][270]

遺棄現場(国頭村楚洲)[注 2]には、事件後の1997年3月、ボランティア団体・子どもたちを守る会「花」[注 49]によって、被害者の慰霊と事件の再発防止を願い、「少女の涙に虹がかかるまで」と書かれた木製のモニュメント(標柱)が建てられた[注 50][273]。また、同年6月には[4]、被害者Aの遺族やボランティアにより[8]、白い御影石製の観音像「悲母救花観音」(ひぼくげかんのん)も建立された[4][274]。それ以降、Aの遺族や支援者らが献花・焼香を年2回行っている[275]ほか、事件から25年が経過した2021年令和3年)6月時点では、名護署や事件発生時に捜査に携わった県警OBらも[272]、「沖縄被害者支援ゆいセンター」や[275]、子どもたちを守る会「花」[注 49]と連携し[272]、慰霊と事件の風化防止のため、遺棄現場の周辺を清掃したり、献花・焼香を行ったりしている[275]

被害者の実名報道など

『朝日新聞』 (1997) によれば、拉致事件を報道した1996年6月22日・23日は、新聞各紙(いずれも東京本社発行の最終版)は被害者Aを匿名で報道していたが、県警が公開捜査に切り替えたことを伝える同月29日付の記事で、実名報道に切り替わった[276]。しかし、遺体発見および犯人逮捕を報じた1997年1月3日・4日の記事では、『読売新聞』『産経新聞』が「乱暴した」という犯人Yの供述とともに、Aの実名・顔写真を紙面に掲載した一方、『毎日新聞』『日本経済新聞』は「乱暴」という表現を使わず、『朝日新聞』はAを匿名にした上でYの供述を掲載した[276]

なお、地元紙の『沖縄タイムス』『琉球新報』の場合、前者は6月28日の速報(号外)で初めてAの実名・顔写真・所属中学校などの情報を掲載した一方[47][34]、後者は6月29日の朝刊で初めてAの顔写真を掲載して以降も、匿名報道を続けていた[277]。しかし、同年7月12日付の朝刊でAの実名を掲載して以降[278]、Aの実名を掲載していた。その後、遺体発見を報じた際には両紙とも、Aの実名・顔写真を報じており[11][16]、Uが逮捕された時点でもAは実名報道されていたが[22][53]、起訴段階では『琉球新報』はAを引き続き実名で報じていた一方[10][23]、『沖縄タイムス』は匿名に切り替えていた[279][280]。第一審の初公判を報じた際(1997年4月24日)は、両紙ともAを匿名で報じている[24][18]

評価

第一審判決宣告(1998年3月17日)の際、沖縄県警刑事部長・田場一彦は「沖縄県の犯罪史上まれにみる凶悪な犯行。事件の教訓を生かし、北部地域の治安強化のため、初動捜査体制の充実[注 51]など、再発防止策を推進している」とのコメントを出した[注 52][245]。『琉球新報』社会部記者の斎藤学は、控訴審判決を受け、「国が生命を奪う刑である死刑と、無期懲役(当時、判決確定から仮釈放の時期は20年前後とされていた)の落差は被害者遺族からすれば雲泥の差で、被害者救済も立ち遅れている。(控訴審判決は)改めて刑の均衡(終身刑の導入など)や、被害者・遺族の救済、死刑制度など、司法のあり方を考えるきっかけとなった」と評している[283]

惠隆之介は、事件当時、1機しかなかった沖縄県警のヘリコプターがオーバーホール中だったことから、その代わりに自衛隊が救難ヘリコプターを捜索のため、本事件が発生した本島北部へ発進させようとしていたが、当時の大田県知事が発進を許可しなかった旨を主張している[96]。その上で、惠は月刊誌『諸君!』(文藝春秋)で、「もし太田知事が(自衛隊に)出動を要請していれば、少女殺害時刻の1時間前には、すでに自衛隊ヘリが現場上空に達していたのだ。」と主張し[284]、自著 (2013) で県知事の対応を「完全な初動捜査ミスで、自衛隊機発進を許可しなかった県知事の責任は重い」と批判したほか、「沖縄の主要2紙(『琉球新報』『沖縄タイムス』)や婦人団体は、米軍兵士が事件を起こすと大きく報道して厳罰を要求するが、この(無期懲役)判決については単純に客観報道で一切抗議しなかった[注 53]。同種の事件でも、犯人が米兵か否かで事件の扱いに差が出ている」という旨を指摘している[286]。なお、惠 (2013) は「1956年(昭和31年)9月3日に米海兵隊士が沖縄女児を殺害した事件」を引き合いに出し、その事件では「犯人の米兵は軍法会議で死刑を言い渡され、間もなく執行されていた」として、犯人2人が無期懲役に処された本事件の判決の不当性を主張しているが[286]、その引き合いに出されている女児殺害事件(由美子ちゃん事件)の発生年は1955年(昭和30年)であり、また同事件の犯人である米兵は軍法会議で死刑を言い渡されたものの、刑を執行されることはなく、後に米大統領令により、仮釈放を認めない条件付きで重労働45年の刑に減刑されたばかりか、最終的には「仮釈放を認めない」という条件さえ反故にされている[287]

脚注

注釈

  1. ^ a b c d e f 拉致現場は当時、国道58号から約200 m入った小川沿いの砂利道(普段は近隣住民が通る程度の農道)で[1]、その農道の長さは約400 mだった[2]。その川沿いの農道から、北方へ伸びる細い道が分岐する地点の、電柱の前付近が拉致現場である(南方には、川を挟んで目撃者が住んでいた名護市営団地がある)[3]。周辺には当時、サトウキビ畑が広がっていたが[4]、事件後、並行する河川の改修工事に伴い、生い茂っていた雑草は刈り払われ、道も整備された[5]
  2. ^ a b c d e f 死体遺棄現場(国頭村楚洲の林道脇斜面)は[8]県道70号から[9]、細い林道を約4 km登った地点[8]。殺害現場から約6 m下の斜面である[10]。遺体発見直後の報道では「国頭村奥」とされていたが[6][11]、判決によれば国頭村楚洲である[12][7][13][8]
  3. ^ a b c 被害者の少女A(15歳没)は、1981年(昭和56年)4月23日生まれ[71]
  4. ^ a b 従来の公開捜査は、指名手配被疑者の場合がほとんどだったという[34]。また、『沖縄タイムス』は「650人の捜査体制は、県警史上例のない大量動員だった」と報じている[91]
  5. ^ Yは逮捕時点(1997年1月1日)で38歳[11]、初公判(同年4月24日)および論告求刑(1998年2月10日)の時点で39歳[24][31]、第一審の最終弁論(同年2月24日)および判決公判(同年3月17日)時点で40歳[55][12]
  6. ^ Uは逮捕時点(1997年1月12日)および初公判(同年4月24日)、第5回公判(同年8月27日)の時点で37歳[22][24][59]。第6回公判(同年9月11日)や、論告求刑および第一審判決の時点で38歳[60][31][12]
  7. ^ Yの子供3人は事件解決当時、18 - 14歳だったが、末っ子である娘は被害者Aとほぼ同世代(中学2年生)だった[63]
  8. ^ 「Yはパチンコ麻雀で数百万円の借金を抱えた」という元近隣住民の証言と[62]、「パチンコは好きだったが、借金は共済や同僚から少し借りる程度だった」という元上司の証言がある[64]
  9. ^ Yの義母は、若くして結婚したYのため、自宅のローンを肩代わりし、家計の裁量も全て任せていた[62]
  10. ^ 『琉球新報』は「中学卒業後、1年ほどは職に就かず、網走市内で暮らしていたが、その後、4年ほど建設作業員として働き、本土に渡った」と[66]、『沖縄タイムス』は「高校を卒業後、愛知県で就職した」と[37]、『FOCUS』は「市内の建設関係の専門学校を卒業後、道内で建設作業に従事し、(事件の)10年ほど前から名古屋の鉄骨会社で働いていた」と報じている[62]
  11. ^ 車を盗んだ動機について、加害者Yは逮捕後に「遊ぶため」と供述したが、捜査員は『毎日新聞』(毎日新聞西部本社)記者からの取材に対し「給料を払ってくれない(会社への)腹いせも要因ではないか?」と証言していた[67]
  12. ^ 『毎日新聞』 (1997) は「2人は盗んだワゴン車に寝泊まりしながら、国頭村のビーチなどで遊んでいた」と報道している[67]
  13. ^ Yは逮捕当初、「犯行の数時間前、Uが(犯行の)話を持ちかけてきた」と供述していた[70]
  14. ^ 彼女とAは幼稚園からの幼馴染で、同じバレーボール部に在籍していた[72]
  15. ^ 同日の名護市内の日没時刻は19時24分[76]
  16. ^ 拉致現場から、道路と川を隔てて約40 m[68]、あるいは直線距離で約50 m離れた場所[3]
  17. ^ 起訴状によれば、2人がAを暴行した地点は、国頭村辺戸の私道など[10]
  18. ^ a b c 伊奈武瀬球場は、浦添市伊奈武瀬一丁目8番1号に所在する野球場[181]。同地の住所はかつて、浦添市字勢理客555番地25だったが、2001年(平成13年)11月26日付で住居表示を実施し、現行の住所となった[182][183]
  19. ^ 発見された給料袋によれば、期間は12月6日 - 18日までの2週間分で、日当は7,000円から7,500円(2週間で合計92,500円)[87]
  20. ^ 『読売新聞』 (1997) は「大宜味村塩屋」と報じている[40]
  21. ^ 惠隆之介 (2013) は「被害者Aが拉致されたのとほぼ同時刻に、本島南部で全裸の女子中学生が民家に助けを求めて駆け込む事件が発生していた」と述べている[96]
  22. ^ 設置当初、本部は中学校に設けられていたが、事件から3日後に名護市役所羽地支所内に移転した[118]
  23. ^ 羽地中のPTAは同年9月、臨時総会でAの救出のため、捜査の強化を求める要望書を採択し、名護署に提出した[118]
  24. ^ 当時、約6,000人態勢での捜索が実施されたが、タンクに入ったことを想定して捜索した人物はおらず、結果的に偶然タンクを使おうとした市民によって遺体が発見された[150]
  25. ^ 対策本部は8月12日以降、県内全域に「情報はがき」を配布し、情報提供を求めたが、返信は同月20日時点で2通しかなかった[91]
  26. ^ 県警は「車は海に投棄された可能性もある」として、本島周辺の海域を魚群探知機で調べたほか、フェリーもくまなく調べた[170]
  27. ^ 捜索に参加した住民は、『沖縄タイムス』の取材に対し、後に反抗車両と判明した車が発見直後に「犯行車両の可能性は低い」と発表されたことで、「(Aは)この辺り(辺戸岬周辺)にはいないのではないか」という心証を抱いたという旨を述べている[50]
  28. ^ 特捜本部長を務めた久高は、「鑑識結果が出ないことは過去のケースでも有り得ること」と説明している[48]
  29. ^ 県警幹部は11月時点で、『沖縄タイムス』記者の取材に対し、「この事件が解決しないことには、正月はない。解決までは、捜査体制の縮小はないだろう」と話していた[162]
  30. ^ 配布先は北海道(出身地)と愛知県(Uが長年生活していた)に各10,000部、沖縄県内に3,000部など[179]
  31. ^ Uが発見された場所は、球場内にあるグラウンド2面のうち、海岸寄りのグラウンドの一塁側ベンチだった[88]
  32. ^ 本事件(事件一覧表における整理番号:190・191)は共犯事件ではあるが、それぞれ被告人1人につき1件として数えている[190]
  33. ^ a b 1980年 - 2009年にかけ、被害者1人の殺人事件で死刑が確定した18人のうち、無期懲役刑の仮釈放中に殺人を再犯した被告人が5人いるほか、事前に被害者の殺害を計画していた身代金目的誘拐殺人(5人)および保険金殺人(2人)もある[192]。また、1983年7月の「永山判決」から、1998年3月(第一審判決の直前)までに死刑が言い渡された被害者1人の殺人事件(強盗殺人を含む)は計14件だったが[193]、うち13件は単独犯で、複数犯の死刑が確定した事例はわずか1件だった[194]
  34. ^ 群馬女子高生誘拐殺人事件[196](「事件一覧表」における整理番号:287番)[197]三島女子短大生焼殺事件[198](整理番号:288番)[197]奈良小1女児殺害事件[196](整理番号:331番)[199]の計3件(3人)[200][201]。3件とも殺害前に姦淫行為が既遂に達している(群馬事件および三島事件)か[198][196]、わいせつ行為におよんでいる(奈良事件)事件で[196]、うち奈良事件の犯人は女児に対する強制わいせつおよび同致傷の前科があり[200]、殺害後に死体損壊および被害者の親への脅迫行為におよんでいるほか、群馬事件の犯人(前科なし)[196]は被害者を殺害後、被害者の両親に身代金を要求して受け取っている[202]。また、三島事件の犯人は強盗致傷などの前科があり、被害者を強姦後、犯行の隠蔽と「早く覚醒剤を打ちたい」との考えから、被害者を生きたまま焼き殺した[198]
  35. ^ 本事件以外の例:江東マンション神隠し殺人事件(整理番号:331)[203]
  36. ^ 刑事訴訟規則第177条・第178条を参照[211]
  37. ^ 国選弁護人は通常、1被告人につき1人選任される[213]
  38. ^ Yの弁護人は、初公判の閉廷後に今後の弁護方針について「拉致・強姦容疑などについては、Yが自主的に供述したもので、自首に当たることを立証したい」[216]「事件に使用された車は、目撃証言とは異なったもので、自主的供述に当たる」と述べていた[14]
  39. ^ Yの情状証人はいなかった[225]
  40. ^ 1990年11月23日夜、三代目旭琉會錦一家の隠れアジト近く(沖縄市胡屋)で、暴力団抗争の警戒に当たっていた沖縄県警の警部(当時43歳)と警部補(同42歳)が、同組の組員により、対立組織の組員と勘違いされて射殺された事件[230]。同事件では、1997年7月8日の第50回公判で、那覇地検が死刑を求刑した一方[231]、弁護人は無罪を主張していたが、那覇地裁(長嶺信栄裁判長)が同年10月30日に無期懲役の判決を言い渡し[232]、確定した[233]
  41. ^ 弁護人は判決後、「当初から殺害の共謀があったと認定されたら極刑もあり得たかもしれない」と話している[239]
  42. ^ 本事件の第一審判決以前には、名古屋アベック殺人事件(1988年発生)の控訴審判決(1996年12月:犯行時少年で、第一審で死刑判決を受けていた被告人に無期懲役判決)や[240]甲府信金OL誘拐殺人事件(1993年発生)の控訴審判決(1996年4月)など、(特に被害者1人の事件で)検察側が死刑を求刑した事件で死刑が回避される判決が相次いでいた[241]。その流れに危機感を強めた検察当局は、福山市独居老婦人殺害事件の控訴審判決(1997年2月/無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に強盗殺人を再犯した事件)[242]について、「著しく正義に反している」として最高裁へ上告[241]。それ以降も1998年1月までに、死刑求刑に対し控訴審で言い渡された無期懲役判決4件[243](いずれも死刑求刑)[244]について、相次いで最高裁へ上告した[243]
  43. ^ 判決後、被告人側の弁護人を務めた弁護士の池宮城紀夫は、「遺族の感情からすると死刑にならず不満が大きいかもしれないが、弁護団としては妥当な判決だ。死刑はそれ以外に選択の余地がない場合にのみ許されると思う。2人とも『取り返しのつかないことをした。極刑になっても臨む』と言っており、控訴しないのではないか」と述べていた[245]
  44. ^ Aの両親の出廷は、第一審の第9回公判以来[249]
  45. ^ 控訴審で被告人Yの弁護人を担当した弁護士の太田朝章は、控訴審判決後に『毎日新聞』記者からの取材に対し「(控訴棄却は)予想していたが、被告人Yはそれまで『極刑にしてくれ』と言っており、判決を喜んではいないだろう。弁護人としては上告は考えていない」と述べた一方[253]、Yが被害者への慰謝の措置を講じておらず、それが判決で指摘されたことにも言及し、「弁護人として、何らかの慰謝をするようアドバイスしていきたい」と述べていた[254]。また、被告人Uの弁護人を務めた三宅俊司も「今のところ上告は考えていない。Uには一刻も早く刑に服して罪を償ってほしい」と述べていた[254]
  46. ^ 羽地中では事件前、「知らない人にも挨拶をするように」と指導していたことから、同校の校長は「今後は(知らない人には)警戒するように指導せねばならない。教師側からも戸惑いが見える」と、仲里も「不審者を見かけたら友達や教員、近くの大人に連絡することが危機回避につながるが、学校では『人を見たら泥棒と思え』というような指導はできない」とそれぞれ述べていた[256]
  47. ^ 期間は同年1月15日 - 19日、および「名護さくら祭り」(同月31日以降開催)の期間中[262]
  48. ^ 2016年は第6回[29]、2019年は第8回[268]
  49. ^ a b 「子どもたちを守る会・花」[271]「子ども達を守る会・花」との表記もある[272]。「花」は1997年2月、捜査に協力した被害者Aの父親の同僚たちや、地元の有志ら約20人により結成され、交代で下校時などのパトロールを行ったり[4]、拉致現場付近に「すべてのこどもの心に花を」の看板を立てたりなどの地域活動を行っていた[273]。「花」の名前は「でぃんさぐぬ花」(親子が互いを思う内容)の民謡と、喜納昌吉の曲名から取ったものである[4]
  50. ^ また、周辺の草木も借り払われ、などが植樹された[273]
  51. ^ 『朝日新聞』 (1996) は「沖縄は地縁・血縁の固い絆が健在で、隣人のことも知らない大都会とは違い、聞き込み捜査も容易だ。警察も地元マスコミも、事件がこれほど長引くとは思っていなかったようだ」と評している[281]
  52. ^ 『読売新聞』那覇支局記者の田川憲一は、事件後に「県北部における緊急配備態勢の脆弱さや、(7月に犯行車両を見つけながら事件と関連付けられなかった)見通しの誤りなど、いくつもの教訓を残した事件だった」と回顧した[282]
  53. ^ ただし、『沖縄タイムス』『琉球新報』の両紙は、第一審判決当日(1998年3月17日)の夕刊で、『沖縄タイムス』朝刊では、死刑を強く望んでいた遺族や地元住民らの声を取り上げ、「死刑を回避した判決に対し、遺族は無念の意を露にし、地元住民らも疑問を呈している」といった論調の記事を掲載[285][271]。また、前者は翌日(3月18日)の朝刊でも同様の論調の記事を掲載した[215]ほか、後者の社会部記者である米倉外昭も判決当日の夕刊で「凶悪犯罪をめぐる刑の均衡や、死刑制度の是非を論じるきっかけとなった事件だが、被害者救済は不十分だ。被害者救済の視点からも、司法のあり方や制度を考えることも必要である」と指摘している[239]

出典

(当事者の実名は本文中で使用されている仮名に置き換えている)

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書籍

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関連項目

外部リンク