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* [[フランソワ・ドルレアン (ジョアンヴィル公)|フランソワ]]([[1818年]] - [[1900年]]) - ジョアンヴィル公爵
* [[フランソワ・ドルレアン (ジョアンヴィル公)|フランソワ]]([[1818年]] - [[1900年]]) - ジョアンヴィル公爵
* シャルル([[1820年]] - [[1828年]]) - パンティエーヴル公爵
* シャルル([[1820年]] - [[1828年]]) - パンティエーヴル公爵

2021年9月17日 (金) 22:30時点における版

ルイ=フィリップ1世
Louis-Philippe Ier
フランス人の王
ルイ=フィリップ1世(フランツ・ヴィンターハルター画、1839年)
在位 1830年8月9日1848年2月24日
別号 アンドラ大公
オルレアン公爵(1793年 - 1830年)

全名 Louis-Philippe
ルイ=フィリップ
出生 (1773-10-06) 1773年10月6日
フランス王国パリパレ・ロワイヤル
死去 (1850-08-26) 1850年8月26日(76歳没)
イングランドの旗 イングランドサリークレアモント
埋葬 1876年6月9日
フランスの旗 フランス共和国ドルードルー王室礼拝堂
配偶者 マリー・アメリー・ド・ブルボン
子女
家名 ブルボン=オルレアン家
王朝 オルレアン朝
父親 オルレアン公ルイ・フィリップ2世
母親 ルイーズ・マリー・ド・ブルボン=パンティエーヴル
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン
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ルイ=フィリップ1世フランス語: Louis-Philippe Ier1773年10月6日 - 1850年8月26日)は、オルレアン朝フランス国王(在位: 1830年 - 1848年)。爵位はヴァロワ公爵、シャルトル公爵、ヌムール公爵オルレアン公爵など。

生涯

生い立ち

ブルボン家の支流であるオルレアン家ルイ・フィリップ2世(フィリップ・エガリテ、フィリップ平等公)と、パンティエーヴル公爵ルイ・ジャン・マリーの娘ルイーズ・マリーの間の長男として、パレ・ロワイヤルで生まれた。

1782年からフランスの文筆家で教育者のジャンリス夫人英語版に教育を受け、彼女から自由主義を学ぶ。おそらくこの間にヴォルテール啓蒙主義に若干傾倒したカトリック主義を信奉するようになったと考えられる。1785年の祖父ルイ・フィリップ1世の死後父ルイ・フィリップ2世がオルレアン公爵位を襲爵する。フランス革命直前の1788年、若いルイ=フィリップは自由主義に同調し、モン・サン=ミシェルの監獄の扉を破壊して開放した。この時ジャンリス夫人も同伴していた。1788年10月から1789年10月の間、パリにあるオルレアン公爵邸(パレ・ロワイヤル)は革命の会議場として使われた。

その後ジャコバン・クラブに入り、フランス軍に入隊した。フランス革命戦争が始まると、1793年にシャルル・フランソワ・デュムーリエの下でオランダに出征した。デュムーリエ率いるフランス軍は、1792年のヴァルミーの戦いプロイセン軍に勝利するが、1793年のネールウィンデンの戦いではフリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いるオーストリア軍に敗北した。デュムーリエはオーストリア軍のカール・マック・フォン・ライベリヒ英語版との交渉の末、敵軍に寝返って国民公会転覆のためにパリ進軍を謀り、これにルイ=フィリップも巻き込まれた。4月4日、同じく従軍していたルイ=ニコラ・ダヴー中佐はこの裏切りに憤激し、オーストリア軍陣地に向けて発ったデュムーリエとルイ=フィリップに対して妨害と反撃を行った。国民公会による逮捕から免れるために、ルイ=フィリップはデュムーリエと共にオーストリア軍に身を投じた。デュムーリエは再びパリ進軍を謀るが、ルイ=フィリップは同調しなかった。

オルレアン公

1793年、父ルイ・フィリップ2世はデュムーリエの裏切りによってジャコバン派から共和国転覆の嫌疑をかけられて財産を没収され、パリの革命裁判所により11月6日の夕刻に革命広場で処刑された。これにより、20歳でオルレアン公位を襲爵したルイ=フィリップはスイスへ亡命し、地理学・数学・近代文学の教師として薄給で暮らす。1795年にはハンブルク、1795年から1796年までスカンディナヴィア諸国、さらに1797年から1799年までアメリカ合衆国へと移り、1801年から1807年にはロンドン郊外のトゥイッケナムに住んだ。

7月王政

ナポレオン1世失脚後の1814年に、同じく亡命していた妹のアデライードとフランスに帰国した。1830年の7月革命ブルボン朝復古王政が倒れると、ラ・ファイエットら自由主義者や大資本家、銀行家をはじめとするブルジョワジーに擁立されて国王となり、1830年憲章に基づく7月王政が成立した。ルイ=フィリップ1世は「フランスの王」(roi de France)ではなく「フランス人(フランス国民)の王」(roi des Français)を称し、政治体制は絶対王政を否定して立憲君主制が採られた。1831年、オルレアン家の代々の邸宅パレ・ロワイヤルからテュイルリー宮殿の公邸に移り、また責任内閣制を導入してアドルフ・ティエールフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーらを首相に登用し、さらに国内の安定と繁栄をはかるために経済の奨励を行ってフランスに産業革命をもたらした。

ルイ=フィリップ1世
(1842年撮影)

対外政策においては、後のフランス帝国主義政策に先鞭をつけた。北アフリカでは、1830年に始まるアルジェリア出兵を引き継ぎ、1834年にはアルジェリアを併合した。また、ナポレオン戦争期から続く青壮年男性人口の減少・伸び悩みを踏まえ、アルジェリア出兵による自国民の死傷者を軽減するため、今に続くフランス外人部隊の設立勅書を1831年に出した。ラテンアメリカでは、当時政情不安定であったメキシコに介入し、1838年に菓子戦争を起こして勝利した。極東では、アヘン戦争で敗れたに対して1844年に黄埔条約を自国に有利な形で締結し、海禁政策を採るインドシナ阮朝大南国に対しては1847年にダナン港を砲撃して圧力をかけた。一方、2度のエジプト・トルコ戦争ではいずれもエジプトを支持して地中海地域への影響力の強化を狙ったが、1840年のロンドン条約列強にこれを阻止されるなど、ヨーロッパでは東方問題をめぐって国際的に孤立した。

7月王政期のフランスは市民革命の成果として自由主義の確立と資本主義の発達を見たが、選挙権を上層ブルジョワジーに限る制限選挙が維持され、産業革命によって形成された小ブルジョアプロレタリアートによる普通選挙実現の要求が高まるようになると、政府はこれを弾圧した。また1846年以来の恐慌の影響もあって社会不安が高まった。このような状況の中、選挙法改正をはじめとする政治改革を謳う「改革宴会」と呼ばれる宴会が催されるようになったが、1848年2月22日開催予定の改革宴会が政府によって開催禁止処分を受けると、これに反発した民衆が蜂起し、2月革命に発展した。ルイ=フィリップ1世は2月23日にギゾー首相を更迭してこれに対処したものの事態の収拾はつかず、2月24日に退位してイギリスに亡命した。同日パリでは共和主義者と社会主義者によって組織された臨時政府によって共和政が宣言され、第二共和政が成立した。亡命先のイギリスではヴィクトリア女王からクレアモントの居館をあてがわれたが、2年半後に同地で客死した。

フランスから脱出するルイ
(1848年の版画)[1]

こうして7月王政は終わり、オルレアン朝は1代で終わった。7月王政を打倒した2月革命は諸国民の春としてヨーロッパ諸国に波及し、ウィーン体制の崩壊を招いた。また900年余り続いた、ユーグ・カペーに始まるカペー朝とその支流によるフランスの王政は、ここにその幕を閉じた。

子女

第一帝政期の1809年に、ナポリ国王フェルディナンド4世(後の両シチリア国王フェルディナンド1世)の娘マリア・アメリアと結婚した。2人は6男4女を儲けた。

脚註

参考文献

関連項目

外部リンク