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「長広郡」の版間の差分

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[[宋 (南朝)|南朝宋]]のとき、長広郡は不其・長広・[[文登区|昌陽]]・挺の4県を管轄した<ref>『[[宋書]]』州郡志二</ref>。
[[宋 (南朝)|南朝宋]]のとき、長広郡は不其・長広・[[文登区|昌陽]]・挺の4県を管轄した<ref>『[[宋書]]』州郡志二</ref>。


[[北魏]]のとき、長広郡は昌陽・長広・不其・挺・[[即墨区|即墨]]・[[州市|当利]]の6県を管轄した<ref>『[[魏書]]』地形志二中</ref>。
[[北魏]]のとき、長広郡は昌陽・長広・不其・挺・[[即墨区|即墨]]・[[州市|当利]]の6県を管轄した<ref>『[[魏書]]』地形志二中</ref>。


[[583年]]([[開皇]]3年)、隋が郡制を廃すると、長広郡は廃止されて、[[萊州|光州]]に編入された<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。
[[583年]]([[開皇]]3年)、隋が郡制を廃すると、長広郡は廃止されて、[[萊州|光州]]に編入された<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。

2021年12月14日 (火) 09:12時点における版

長広郡(長廣郡、ちょうこう-ぐん)は、中国にかつて存在した晋代から初にかけて、現在の山東省青島市および煙台市にまたがる地域に設置された。

概要

277年咸寧3年)、斉郡東部を分割して、長広郡が立てられた。郡治は長広県に置かれた。晋の長広郡は青州に属し、不其・長広・の3県を管轄した[1]

南朝宋のとき、長広郡は不其・長広・昌陽・挺の4県を管轄した[2]

北魏のとき、長広郡は昌陽・長広・不其・挺・即墨当利の6県を管轄した[3]

583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、長広郡は廃止されて、光州に編入された[4]

脚注

  1. ^ 晋書』地理志下
  2. ^ 宋書』州郡志二
  3. ^ 魏書』地形志二中
  4. ^ 隋書』地理志中