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| 氏名 = 土御門久脩
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幼き時より[[天文道]]や[[暦道]]を学ぶ。[[元亀]]3年([[1572年]])に元服し、天正元年([[1573年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]・14歳の時に、朝廷[[陰陽寮]]の長官・陰陽頭となる。
幼き時より[[天文道]]や[[暦道]]を学ぶ。[[元亀]]3年([[1572年]])に元服し、天正元年([[1573年]])[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]・14歳の時に、朝廷[[陰陽寮]]の長官・陰陽頭となる。


当時、土御門家と並んで[[陰陽道宗家]]の双璧であった[[賀茂氏#地祇系|賀茂氏]][[勘解由小路家#賀茂氏系 勘解由小路家|勘解由小路家]]の当主・[[勘解由小路在富|在富]]の唯一の息子である[[賀茂在昌]]は、[[永禄]]7年([[1564年]])に妻子を連れて京を出奔して、[[キリシタン]]となって[[府内 (豊後国)|豊後府内]]に留学していた。在富は後継者が不在のまま、永禄8年([[1565年]])死去。嗣子がないため、久脩の祖父・[[土御門有春]]の四男で久脩の叔父に当たる福寿丸(1553-1575・13歳)を[[勘解由小路在高]]として養子に入れて相続していた<ref name="tajima-akitaka">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b4%aa%b2%f2%cd%b3%be%ae%cf%a9%ba%df%b9%e2 勘解由小路在高]</ref>が、在高は[[天正]]3年([[1575年]])に23歳で夭折してしまう。
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これを受けて同年、16歳で久脩は勘解由小路在綱(かでのこうじ あきつな)と改姓改名して、勘解由小路家を嗣ぐことになった<ref name="tajima-akitsuna"/>。同年、[[従五位|従五位上]]・[[馬寮|左馬助]]に叙任される。
これを受けて同年、16歳で久脩は勘解由小路在綱(かでのこうじ あきつな)と改姓改名して、勘解由小路家を嗣ぐことになった。同年、[[従五位|従五位上]]・[[馬寮|左馬助]]に叙任される。


しかしそれも束の間、天正5年([[1577年]])[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]、父・土御門有脩が死亡してしまう。これに伴い、唯一の嫡子である久脩改め在綱は、同年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]、土御門久脩へと復姓復名し、土御門家当主を嗣いだ<ref name="tajima-akimasa">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b2%ec%cc%d0%ba%df%be%bb 賀茂在昌]</ref>
しかしそれも束の間、天正5年([[1577年]])[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]、父・土御門有脩が死亡してしまう。これに伴い、唯一の嫡子である久脩改め在綱は、同年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]、土御門久脩へと復姓復名し、土御門家当主を嗣いだ。


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徳川幕府では家康、[[徳川秀忠|秀忠]]、[[徳川家光|家光]]と徳川家三代の将軍宣下に伴う、また[[後陽成天皇]]、[[後水尾天皇]]の即位に伴う[[六道冥官祭|天曹地府祭]]を執行している(後陽成天皇の天曹地府祭は即位後15年を経た慶長6年([[1601年]])[[1月30日]]に斎行<ref name="tensouchifu">{{Cite web|url=http://www.tatara.net/ETC/eki/onmyo.html|title=宗教としての陰陽道─陰陽道の即位儀礼、天曹地府祭|author=黒岩重人|accessdate=2019-10-04}}</ref>)。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2022年1月23日 (日) 11:55時点における版

 
土御門久脩
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄3年(1560年
死没 寛永2年1月18日1625年2月24日
別名 勘解由小路在綱
官位 従三位非参議陰陽頭左衛門佐
主君 正親町天皇後陽成天皇後水尾天皇
織田信長豊臣秀吉徳川家康秀忠家光
氏族 安倍氏嫡流土御門家
父母 父:土御門有脩 母:不詳
兄弟 久脩勧修寺晴豊
三淵晴員
泰重倉橋泰吉五辻斉仲など
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土御門 久脩(つちみかど ひさなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿陰陽師陰陽頭土御門有脩[注 1]の子。官位従三位非参議陰陽頭左衛門佐安倍氏土御門家31代当主。

経歴

幼き時より天文道暦道を学ぶ。元亀3年(1572年)に元服し、天正元年(1573年12月28日・14歳の時に、朝廷陰陽寮の長官・陰陽頭となる。

当時、土御門家と並んで陰陽道宗家の双璧であった賀茂氏勘解由小路家の当主・在富の唯一の息子である賀茂在昌は、永禄7年(1564年)に妻子を連れて京を出奔して、キリシタンとなって豊後府内に留学していた。在富は後継者が不在のまま、永禄8年(1565年)死去。嗣子がないため、久脩の祖父・土御門有春の四男で久脩の叔父に当たる福寿丸(1553-1575・13歳)を勘解由小路在高として養子に入れて相続していたが、在高は天正3年(1575年)に23歳で夭折してしまう。

これを受けて同年、16歳で久脩は勘解由小路在綱(かでのこうじ あきつな)と改姓改名して、勘解由小路家を嗣ぐことになった。同年、従五位上左馬助に叙任される。

しかしそれも束の間、天正5年(1577年1月2日、父・土御門有脩が死亡してしまう。これに伴い、唯一の嫡子である久脩改め在綱は、同年3月26日、土御門久脩へと復姓復名し、土御門家当主を嗣いだ。

その後、織田信長豊臣秀吉と仕え、天正8年(1580年)には21歳で正五位下天文博士に叙任された[1]が、天文博士は陰陽頭の格下であり、位階こそ昇格しているものの、官職の上では降格である。また、その後は長らく官位昇進が無かった。

天正10年(1582年)、織田信長の推挙により「公家成り」を果たし、以後、土御門家は地下から堂上公家となる(江戸時代に「半家」とされた堂上公家)。同年、次の閏月を天正11年(1583年)閏1月とするべきだとする陰陽寮が作成した京暦と、それとは異なる天正10年(1582年)閏12月とするべきだという伊豆国三嶋大社が作成した三島暦とで改暦問題が発生した。久脩は信長に呼び出されて安土城に向かい、論争をしたが決着は付かなかった。しかし、信長は三島暦にするように朝廷に働きかけを行っている。公家衆は無論京暦を支持したのであるが、信長は6月1日に上洛すると再びこの話を持ち出している。ところが、翌日に本能寺の変が発生して信長が自刃したためにこの話は立ち消えとなった(改暦#天正10年の例参照)。

久脩は文禄4年(1595年)に秀吉の怒りを買ってしまい、多数の陰陽師とともに尾張国配流された[2]。これは豊臣秀次の事件に連座したものといわれている[3]

慶長5年(1600年関ヶ原の戦いののちの11月、勅命により再び上洛。翌年には代々の所領で別邸のある若狭国名田庄を引き上げ、京郊外の梅小路村(梅林寺稲住神社円光寺付近)に邸宅を構えた。徳川家康陰陽道宗家と認められ、183石6斗の家禄を与えられた。また、公家昵懇衆として家康に仕えた。

徳川幕府では家康、秀忠家光と徳川家三代の将軍宣下に伴う、また後陽成天皇後水尾天皇の即位に伴う天曹地府祭を執行している(後陽成天皇の天曹地府祭は即位後15年を経た慶長6年(1601年1月30日に斎行[4])。

慶長16年(1611年)、15年ぶりに官位昇進して従四位下左衛門権佐に叙任され、慶長18年(1613年)には従四位上左衛門佐元和2年(1616年)には正四位下に叙任されている[1]

元和5年(1619年)9月、2代将軍・徳川秀忠の娘である和子入内を目前にして発覚した宮中内の不祥事(特におよつ御寮人事件)に伴い、「禁中並公家諸法度」違反とされ、京都所司代板倉勝重を通して幕府より内裏への出仕停止・謹慎を申し渡される[注 2]

後水尾天皇は一連の処分に激しく不満を示し、弟の近衛信尋への譲位までほのめかした。これを諫めるため、公家側は元関白・近衛前久や現職の関白九条忠栄[注 3]、幕府側は和子入内における朝廷との折衝役であった藤堂高虎が仲介・奔走。結局、幕府に不満を持っていた新上東門院崩御に伴って、和子入内に積極的であった天皇生母中和門院(中和門院は九条家出身)が台頭したこと、朝廷から和子入内の確約を幕府に示すことで久脩らは赦免・再出仕となる[注 4]

元和7年(1621年)に従三位非参議に叙せられ、公卿に列格している。

系譜

家族

末裔

土御門久脩を経て伝わってきた安倍晴明の男系血脈は、宇多源氏綾小路家[5][注 5]の子で倉橋家(土御門久脩の末裔・安倍氏支流)の養子となった倉橋有儀1738年 - 1784年[6]と、その息子で土御門家の養子となった土御門泰栄1758年 - 1806年[7]の代で断絶しており、現在の土御門家[8]・倉橋家[9]当主はいずれも更に養子相続を繰り返した結果、久脩の父・有脩から数えて共に4回も女系を経た遠縁となってしまっている[8][9][注 6]

一方、久脩の血筋は、5代目の男系子孫・倉橋泰章1687年 - 1753年[10]の娘が萩原員領[11]の妻になり子を残しているため、卜部氏萩原家[12][注 7][注 8]とそこから養子に出た幾つかの堂上公家華族の子孫に受け継がれている。これに由来し、その後も男系相続された(女系を1回のみしか経ていない)末裔に限っても、岩倉具視とその玄孫の京都大学教授岩倉具忠岩倉家[13][注 9][注 10]春日大社宮司花山院弘匡ら花山院家[14][注 11]太秦家[15][注 12]などが現存する。

明治時代の土御門家当主・子爵土御門晴榮も、萩原家から養子に出た卜部氏錦織家[16]からの養子のため、この系譜に連なる[注 13]

脚注

注釈

  1. ^ 永禄5年(1563年)に正式に土御門を称する。
  2. ^ 幕府によれば宮中に女歌舞伎遊女を呼んで昼間から酒宴を開き、山椒茶をすすり、茗荷を食して再び酒宴に明け暮れ、囲碁歌留多賭博に興じた等々の罪状が挙げられた。
  3. ^ 忠栄の妻・完子(豊臣完子)は徳川秀忠夫人・於江(崇源院)と夫人の前夫・豊臣秀勝との子であり、和子の異父姉となる。
  4. ^ 『泰重卿記』によれば、久脩らは流罪にもなりかねない状況であったが、関白・九条忠栄の弁明、さらに自らも出仕停止処分を受けていた堀河康胤が久脩を庇った結果、出仕停止で済んだと記録されている。
  5. ^ 男系を辿ると藤原北家閑院流三条家に行き至る。
    藤原師輔-(閑院)公季-4代-三条実行-2代-正親町三条公氏-11代-滋野井季国-五辻為仲-之仲-綾小路高有-3代-倉橋有儀-土御門泰栄
  6. ^ よって、「安倍晴明の男系直系末裔」は、信憑性のある公的な系譜上、現存しない。
  7. ^ 萩原家:土御門久脩-倉橋泰吉-泰房-泰貞-泰章(母は土御門泰福の娘)-萩原員領室-員幹-員維-員光-員種-員振-兼武(-兼昭)
  8. ^ 男系を辿ると藤原北家日野流(真夏流)に行き至る。
    藤原真夏-12代-日野資実-3代-柳原資明-1代-町資藤-2代-広橋守光-3代-油小路隆基-1代-萩原兼澄-1代-員領
  9. ^ 岩倉家:萩原員領-員幹-堀河康親-岩倉具視-具定-具張-具忠
  10. ^ 岩倉具視の子孫としては、芸能人の小桜葉子(池端具子)、加山雄三(池端直亮)も久脩の血筋を受け継いでいる。(岩倉具視-具定-具顕-池端具子-直亮)
  11. ^ 花山院家:萩原員領-員幹-堀河康親-康隆-花山院親家-親忠-弘匡
  12. ^ 太秦家:萩原員領-員幹-堀河康親-康隆-親賀-太秦供親-供康-康光-康紀(-康志)
  13. ^ 萩原員領-従言-錦織久雄-久隆-土御門晴榮

出典

参考文献

  • 木場明志(著)、北西弘先生還暦記念会編(編)「暦道賀茂家断絶の事―永禄~文禄期 宮廷陰陽道の動向」『中世社会と一向一揆』、吉川弘文館、1985年。 (村山修一他編『陰陽道叢書2中世』、名著出版、1993年所載)
  • 斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』角川学芸出版〈角川選書546〉、2014年。 
  • ネケト. “Reichsarchiv ~世界帝王事典~”. 2019年10月4日閲覧。

関連項目

外部リンク