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2022年10月6日 (木) 20:27時点における版
慶應義塾高等学校 | |
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北緯35度33分5.16秒 東経139度38分58.7秒 / 北緯35.5514333度 東経139.649639度座標: 北緯35度33分5.16秒 東経139度38分58.7秒 / 北緯35.5514333度 東経139.649639度 | |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 慶應義塾 |
設立年月日 | 1948年 |
創立者 | 福澤諭吉 |
共学・別学 | 男子校 |
中高一貫教育 |
併設型 (慶應義塾普通部との関係) 連携型 (慶應義塾中等部との関係) |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | D114310000222 |
高校コード | 14523J |
所在地 | 〒223-8524 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
慶應義塾高等学校(けいおうぎじゅくこうとうがっこう、英: Keio Senior High School)は、神奈川県横浜市港北区日吉四丁目に所在する私立男子高等学校。
略称は、内外で、塾高(じゅくこう)、慶應日吉高など。高校野球などでは、原則として新字体を用いることになっているため、校名表記は慶応である。
概要
1898年(明治31年)に設立された旧制の慶應義塾普通学科は、のちに慶應義塾普通部と改称し、旧制中学校5年制に相当した。戦後の1948年(昭和23年)の学制改革で、慶應義塾普通部は新制中学校に名を留め、新制高等学校は新たに「慶應義塾第一高等学校」「慶應義塾第二高等学校」が設置された[1]。翌1949年(昭和24年)に第一・第二両校が統合され「慶應義塾高等学校」として発足した[2]。
慶應義塾内では大学とともに独立した一組織という位置付けとなっている。実際には90%以上の卒業生が慶應義塾大学へ推薦入学しており、事実上は大学を中心とした附属校といえる。このように慶應義塾の一貫教育校として、卒業すればほぼ全員が慶大に進学できるが、学部ごとに定員が決まっているため、例えば医学部に入学するには上位20名程度の高い成績が必要となる(ただし、医学部側で成績の最低ラインが定められているわけではない。定員が22名であり、毎年のように希望者がこの人数を上回るため、事実上第一希望者のうち上位22位までに入る必要がある。この(事実上の最低)ラインが10段階評価で8.5~9.0辺りとなるのが通例)。
また2000年代以降、国会議員(現役)や一部上場企業社長(現役)等を務める卒業生の数が、全国の高等学校のうちで最多であるとマスメディアで取り上げられることが多い[3][4]。
同校では、慶應義塾普通部の大半からの入学者約240名、慶應義塾中等部男子の大半からの入学者約130名の内部進学者、外部の中学校からの外部入学者約370名から構成される。一学年のクラス数はA組 - R組の18クラス、内部進学者数は年ごとに多少変動がある。2017年時点の1学年の人数は約720人、全校生徒は約2200人であり、マンモス校と見なされることがある[4]。
使用されている現校舎は元々は旧制大学予科の校舎で、1934年(昭和9年)に竣工。新制慶應義塾高校発足直前までGHQにより接収されていたという経緯をもつ。「かながわの建築物100選」に指定されており、建て替えや改築が禁止されている。
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第一校舎概観
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第一校舎
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地下壕入り口
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グラウンド
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日吉会堂
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柔道場
沿革
- 1948年 - 旧制の慶應義塾普通部・商工学校を基に慶應義塾第一高等学校・第二高等学校が発足(三ノ橋仮校舎)。
- 1949年 - 第一高校・第二高校が統合[5]、慶應義塾高等学校となる。日吉校地に移転(10月)[6]。
- 1963年 - 日吉会堂完成。
- 1969年 - 『慶應義塾高等学校紀要』を創刊。
- 2003年 - 推薦入学試験を実施。文部科学省からスーパーサイエンスハイスクールに指定される。
- 2005年 - 3年生による卒業研究論文の提出が必修となる。
- 2009年 - 蝮谷体育館完成。
- 2018年 - 日吉協育棟完成。
1948年 | 「慶應義塾第一高等学校・第二高等学校」が発足。 前年に公布された学校教育法に基づき、新制高等学校として「慶應義塾第一高等学校・第二高等学校」が発足。 三ノ橋校舎(麻布新堀町、中央労働学園専門学校校舎)にて授業を開始。 |
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1949年 | 「第一高等学校・第二高等学校」の名称を廃止し、「慶應義塾高等学校」となる。 同時に三田山上(1・2年生使用)を本校舎、三ノ橋校舎(3年生使用)を分教場とした。 アメリカ軍より日吉返還される。 アメリカ軍より返還された日吉(現第1校舎)へ移転。 授業を開始。(鍵は、そのときにアメリカ軍からもらった記念のもの) |
1949年11月 | 自治会・文連・体連の三者共催で第1回日吉祭を開催 |
1951年3月 | 自治会がすべての任務を終了し、新たに生徒会して発足 |
1951年4月 | 生徒会が第1回学園評議会を開催 |
1952年4月 | 1・2年生が月島港より旅行に出発。 1年生は日帰りで千葉勝山から東京湾めぐり。 2年生は大島へ1泊旅行。 |
1952年5月 | 日吉の陸上競技場で第1回陸上運動会を開催。 |
1952年9月 | 全校で学校行事としての修学旅行に出発。 3年生は北海道、2年生は裏磐梯、1年生は草津の各方面へ。 |
1955年5月 | 「マムシ谷」にバスケットコート4面・バレーコート5面が完成。 |
1955年11月 | 第6回日吉祭が行われたが、初めて女子高と共同で開催。 |
1956年6月 | 9月の修学旅行を6月に移動。 3年生は北海道、2年生は北陸、1年生は東北の各方面へ。 |
1956年10月 | 第7回日吉祭開催。この年から後夜祭が行われるようになった。 |
1958年 | 完成した日吉記念館で慶應義塾創立百年記念式典開催。 日吉祭実行委員会主催で初の関東高校学生招待会議を開催。 |
1959年3月 | 第10回卒業式を初めて屋内(日吉記念館)で開催。 |
1959年4月 | 初めての生徒手帳を作製し、全員に交付。 |
1963年 | 日吉会堂が完成。名称は教職員・生徒からの公募で決定。(右は建設中の写真) |
1963年6月 | 夏季略装でシャツ左胸部分に徽章を付けることになった。 新聞会発行の「ザ・ハイスクール・ニュース」第139号が、高等学校新聞連盟第1回全国コンクールで最優秀紙に。 硬式庭球部古林隆夫君が全国少年カナダ選抜選手権大会で優勝。 |
1968年10月 | 慶應義塾高等学校創立20周年記念式典開催。 |
1970年5月 | 特別教育棟(現A棟)が完成。 |
1973年11月 | 特別教室棟にプラネタリウムを設置。 |
1984年3月 | 新棟(現B棟)・地下体育館完成。 |
1990年11月 | A棟にコンピュータ教室を新設 |
1994年4月 | 本年度から新カリキュラムが実施され、家庭科が設置された。 |
1994年8月 | 旧美術室棟を改修し、体育科視聴覚教室兼美術科鍛金教室が完成した。 |
1995年1月 | 阪神大震災により、本塾関係者にも被害が出た。 生徒会も義援金を募り、日本赤十字社を通じて送金。 |
1995年6月 | 中断していた招待会議が、本校・女子高ほか13校から94名が参加して開催された。 スクールカウンセラーが生徒の相談を受ける相談室が設置された。 |
1996年4月 | 従来の『生徒手帳』に代わり、本年度より本校での生活概要をまとめた『塾高ガイド』が新しく作られ、生徒全員に配布された。 これまで別々に発行されていた『永久機関』『丘の上』『若き血』が『新世紀』(1年生用クラブ紹介等)としてまとめられ、1年生に配布された。 |
1999年2月 | 従来各学年で行われていた修学旅行をやめ、選択旅行形式に改められた。 |
1999年5月 | 1年生の修学旅行が1泊2日の親睦旅行へと改められた。 |
2002年4月 | 1年生全員を対象としたBLS (Basic Life Support) 教育・普通救命講習が開始された。 |
2003年1月 | 新たに推薦入学試験(募集人員約40名)が制度化され実施された。 |
2003年4月 | 本年度から新カリキュラムが実施され、数学と英語の授業に習熟度別クラス編成が導入された。 |
2003年4月 | 文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール (SSH) に指定された。 |
2005年4月 | 本年度から新カリキュラムへの完全移行に伴い土曜を休みとする週5日制が採用された。 |
2005年4月 | 3年生による卒業研究論文の提出が必修化された。 |
2009年4月 | 南側グランドが人工芝化された。 |
2009年11月 | 蝮谷体育館が完成した。 |
2013年4月 | 本年度から新1年生を対象に新カリキュラムが開始された。 |
2018年8月 | 日吉協育棟が完成した。 |
制服・校則
- 制服は男子校の伝統でもある金ボタン5個仕様の黒詰襟学生服。学帽も制定されているが、現在は自由化されている。[要出典]
- 明文化された校則はほとんどない。しかし、トイレで同個室に複数人で入ると停学処罰される(喫煙防止が目的:通称「ワンボックス」)、カーディガン禁止(英国紳士は自宅でしかカーディガンを着ないという理由だとも言われるが、教員でさえ正確には分かっていない)など、ユニークな校則もある。[要出典]
施設
- 慶應義塾大学日吉キャンパス内において他の大学施設と一体化しており、高校独自の校門が存在しない。
- 広大な校地に、アメリカンフットボール場、体育館、バレーボールコート場、南側グラウンド、日吉会堂、柔道場を有している。
- 運動場の下には地下壕が現存しており、戦時中には連合艦隊司令部、海上護衛総司令部が置かれていた。現在月1回程度、地下壕見学会が行われ、学外者にも公開されている。
- 学食も設置されている。
- 高校の図書館だけで、10万冊の蔵書がある。
- 天体望遠鏡、プラネタリウム、フーコーの振り子といった設備もある。
- 慶應義塾高校の学生証で大学図書館(メディアセンター)に入館できる。また、大学生協や学生食堂といった大学の他の施設を利用することもできる。
データ
校長は慶應義塾大学高等学校教諭の古田幹。
教育
課業
授業は1日6時限(1時限50分)で週5日制。8:20から授業開始、終了は14:50である。HRは木曜日の7時間目にある。
教育課程
2年次より第二外国語、3年次より選択教科目が導入されている。3年次に「卒業研究」(大半の講座は論文形式)が卒業の要件として義務付けられている。
2003年から2008年まで文部科学省指定のスーパーサイエンスハイスクールに指定されていた。
慶應義塾では水泳が大学や小・中で重視されているが、高校では水泳の授業はない。プールは部活動施設として利用されている。
入試
高校入試には一般入試と推薦入試の2つがある。一般入試では募集定員が約330名、第1次試験は国語、数学、英語の3科目で、第2次試験は面接で合否判定される。推薦入試では募集定員が約40名、第1次試験が書類審査、第2次試験が作文と面接で合否判定される。
進路
卒業生のほとんどが、慶應義塾大学に推薦入学する[7]。
行事
慶早戦
六大学野球慶早戦が行われる時、慶早戦が1勝1敗で月曜日以後に持ち越しとなった際には決着が付くまで休講となる(現在はカリキュラム変更に伴い、優勝が懸かった場合のみ休講)など、独自の文化に根ざした運営を行っている。
校歌
「慶應義塾塾歌」とは別に、高等学校独自の校歌(「慶應義塾高等学校の歌」)が存在する。しかし、その校歌が実際に歌われることは一切なく、歌詞やメロディーはおろか、その存在すら知らない者もいるとされる。また、野球の試合(県大会や甲子園)で塾高が対戦校に勝利した際は、塾歌が「慶應義塾高校校歌」として歌われる。
日吉祭
日吉祭(文化祭)は、毎年11月に行われる。来場者数は2日間で1万人を超える。
選択旅行
全校的学外活動としては、一般の修学旅行に当たる選択旅行がある。選択旅行に参加しないと卒業できない。
部活動
部活動には文化系と体育系がある。参加する生徒が多く、とても盛んである。
- 慶應義塾高校では、野球部・端艇(ボート)部・ラグビー部・映画部といったクラブだけでなく、高校では珍しい馬術部やヨット部、ホッケー部、自動車部、航空部、慶應義塾ならではの福澤研究会といった、特色ある部が存在する。その反面、部員ゼロという状態が続く部も少数ながら存在する。
- 明大中野高校、暁星高校などと共に、一部の在学生が初期のチーマー文化を形成した。
文化系クラブ
ギター・アンサンブル、クイズ研究会、ディベート部、フォトフレンズ、マンドリンクラブ、ライブラリー・クラブ、ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ、仏教青年会、化学研究会、吹奏楽部、地学研究会、奇術部、情報科学研究会、放送研究会、数学研究会、文芸部、映画部、書道部、棋道部、楽友会、演劇部、漫画研究会、生物学研究会、福澤研究会、美術部、英語会 (E.S.S.)、茶道部、鉄道研究会、電子工学研究会、音楽鑑賞会。
- 演劇部、ESS、楽友会、ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ、マンドリンクラブ等の文化系部活動は、慶應女子高と協同で行っている。活動場所も、部活動によっては三田の慶應女子高校舎を利用している。
- 吹奏楽部が東関東大会金賞。
- マンドリンクラブが、2004年に第34回全国高等学校ギターマンドリンフェスティバルで朝日新聞社賞を受賞。
- 2007年に映画部のメンバーが中心となり、数名で制作されたコメディ作品『ワッショイ!』が、第2回高校生映画コンクール(映画甲子園)において、最優秀作品賞(グランプリ)・中央出版株式会社賞などの賞を獲得し、6冠に輝いた。
- またその翌年、別の生徒有志によって制作された『第三の眼』が、同大会において最優秀作品賞、最優秀美術賞を獲得した。
- クイズ研究会が2013年の第33回全国高等学校クイズ選手権優勝。全国高等学校野球選手権大会と全国高等学校クイズ選手権大会を制した学校は、静岡県立静岡高等学校、愛媛県立西条高等学校に次いで3校目となる(私立高校では初)。
- ディベート部が2017年第22回ディベート甲子園で優勝。また、2021年の第26回大会でも優勝し、東海高校、創価高校に次ぐ3校目の複数回優勝校となった。
体育系クラブ
アメリカンフットボール部、ゴルフ部、サイクリング部、スキー部、スケート部(スピード)、スケート部(フィギュア)、スケート部(ホッケー)、ソッカー部(サッカー)、ソフトテニス部、ハンドボール部、バスケットボール部、バスケットボール部B、バドミントン部、バレーボール部、バレーボール部B、フェンシング部、ホッケー部、ボクシング部、ヨット部、ラクロス部、レスリング部、剣道部、卓球部、合氣道部、器械体操部(トランポリン)、器械体操部(器械体操)、射撃部、少林寺拳法部、山岳部、庭球部、弓術部(和弓)、應援指導部、拳法部、柔道部、水泳部(水球)、水泳部(競泳)、水泳部(葉山)、水泳部(飛込)、洋弓部(アーチェリー)、相撲部、空手部、端艇部(ボート)、競走部(陸上競技)、自動車部、航空部、蹴球部(ラグビー)、軟式野球部、重量挙部、野球部、馬術部。
- ゴルフ部は同じ日吉内にある慶大の練習場を借りて行っている。
- アメリカンフットボール部が、2005年度全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会で22年ぶり3度目の優勝。
- バスケットボール部は1970年のインターハイで準優勝。
- ラクロス部は日本で初めてのラクロス部として1985年に発足。現在関東学生(大学生)3部リーグに所属している。
- 弓術部(弓道部)が、平成18年度国民体育大会・少年の部優勝。
- 端艇(ボート)部が2016年に第27回全国高等学校選抜ボート大会の男子ダブルスカルの部において優勝。
- フェンシング部が2018年度全国高等学校選抜フェンシング大会のフルーレ種目において団体優勝。
硬式野球部
1888年創部の三田ベースボール倶楽部を起源とする。1948年の高等学校開設とともに高等学校野球部となり、現在に至る。旧制時代は慶應義塾普通部と慶應義塾商工学校が別にあり、選手権大会ないし選抜大会にはいずれかの野球部が出場していたため、現在の高等学校野球部としては旧両校の出場回数を合算した上での出場回数となっている。また、高校野球の応援席で男子校としては珍しく、慶應義塾女子高等学校のチアガールも受け入れられている。
部訓は「エンジョイ・ベースボール」。自由かつ伸び伸びと野球を楽しむことを日頃から重視している。坊主頭でない部員も多い。
- 1916年の第2回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)では普通部が初出場、初優勝を果たしている。
- 1949年までは東京府または東京都、1950年以降は神奈川県から出場している。
- 2005年、45年ぶりに第77回選抜高等学校野球大会に出場。ベスト8へ進出した。主力はスポーツ推薦組である。
- 2008年には第80回選抜高等学校野球大会に3年ぶり7回目の出場。また、第90回全国高等学校野球選手権記念大会では神奈川大会が北神奈川大会と南神奈川大会とで分割されたため、北神奈川大会に出場した決勝戦で東海大相模を破り、46年ぶり17回目の出場。南神奈川代表の横浜高校と共に春夏連続出場を果たし、ベスト8に進出する成績を上げた。また、この大会には力道山の孫が投手として出場したことでも話題となった[8]。さらに、同年の秋季神奈川県大会で優勝、その後に続く関東大会でも千葉県の習志野高校を破り、優勝している。また、その後の第39回明治神宮大会・高校の部でも奈良の天理高校を破り優勝。
- 2009年、第81回選抜高等学校野球大会に出場(2年連続8回目)。
- 2018年、第90回記念選抜高等学校野球大会に出場(9年ぶり9回目)。開会式の入場行進で使用したプラカードには『応』の字の『心』の左側の点が欠けた状態で書かれていたため、大会本部が謝罪した[9]。揮毫時は正しく書かれていたが、業者がシール化したものを貼る際に誤りが生じたという。第100回全国高等学校野球選手権記念大会に北神奈川代表として出場(10年ぶり18回目)。春夏連続出場を果たした[10]。
塾高がモデルになった作品や自伝その他
- 石原慎太郎の小説『太陽の季節』 - 著者の弟・裕次郎の塾高における友人とその日常をモデルに書かれた作品。
- 加山雄三の自伝『湘南讃歌』 - 塾高時代はボクシングやバンドなどを始め、また冬の季節になると海から山に興味関心が湧き移りスキーを始めた。後の慶應大学時代には、スキーで念願の国体蔵王大会に出場した (pp.28-40)。
- 松本隆の小説『微熱少年』 - 東急東横線沿線にある「小高い丘の上」の大学の附属高校が舞台になっている (pp.79-80)。その一節より、「学生服のボタンを見ただけで、初対面の女の子たちの応対が変わるのが厭だった。彼女達の評価してるのは、自分の服で、中身でないような気がした」(p.80)。
高校関係者一覧
交通アクセス
- 東急東横線、東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン「日吉駅」から徒歩1分
脚注および参照
- ^ 2つの高校を設置したのは、1校あたりの定員数が制限されていたため(『慶應義塾百年史』 下巻、166頁)。
戦後の学制改革で廃止された慶應義塾商工学校の上級生が第二高校に編入扱いとなった。 - ^ “慶應義塾高等学校略史”. 慶應義塾. 2019年3月19日閲覧。
- ^ 『読売ウィークリー』2005年2月27日号
- ^ a b “「日本一の社長輩出」慶応義塾高 次は異端を創る”. 日本経済新聞社 (2017年8月30日). 2019年3月19日閲覧。
- ^ 一校あたりの定員数が緩和されたため(『慶應義塾百年史』下巻、166頁)
- ^ 『慶應義塾百年史』下巻、167頁
- ^ “慶應義塾大学への推薦と進路”. 慶應義塾. 2019年3月19日閲覧。
- ^ “【甲子園】慶応OB「目指せ優勝」 10年前のエース田村さん | 高校野球”. カナロコ|神奈川新聞ニュース 2019年3月10日閲覧。
- ^ “慶応プラカード「応」の字に誤り 大会本部が謝罪/センバツ”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2018年3月23日) 2019年3月10日閲覧。
- ^ “慶応春夏連続 夏は10年ぶり18度目/北神奈川 - 夏の地方大会 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com 2018年7月31日閲覧。