生島五三郎 (検事)
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生島 五三郎(いくしま ごさぶろう[1]、前名・敏治[2]、1896年〈明治29年〉11月27日[1] - 1973年〈昭和48年〉5月13日[3])は、日本の検事[4]、弁護士[1][3]。石川島播磨重工業顧問[1]。
経歴
[編集]1920年、東京帝国大学法学部仏法科を卒業[4]。1933年、家督を相続し、前名敏治を改め襲名する[2][4]。大阪、神戸各検事を経て1940年、京都地方裁判所検事[2]。神戸保護観察所長[5]。
1944年、高松地方検察庁検事正[1]。1945年、福岡地方検察庁検事正[1]。後に退官し弁護士となる[1]。
1973年、心臓弁膜症のため大阪府豊中市内の自宅で死去[3]。満76歳没[3]。
人物
[編集]生島五郎兵衛の養甥[4]。多額納税者である[5]。著書には『皇陵巡拝記』がある[1]。宗教は真宗本願寺派[1]、真宗[5]。趣味は野球[1]、運動、演芸、絵画[5]。兵庫県在籍で、住所は神戸市灘区岩屋北[2]、大阪府豊中市岡町北2丁目[1]。
家族・親族
[編集]- 生島家
生島家は神戸市草分けの旧家で代々「松屋」と称し、地家主である[2][4]。
- 父・五三郎(1868年 - 1933年、兵庫県多額納税者、地家主)[2]
- 母・きと(1875年 - ?、兵庫、安国幸左衛門の姉)[2][4]
- 妻・博子(1903年 - ?、愛知、伊藤由太郎の二女)[5][6]
- 長男[5]
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第25版 上』い151頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 上』イ104頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月11日閲覧。
- ^ a b c d 「訃報」『朝日新聞』1973年5月15日、東京朝刊、23面。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第13版 上』イ104 - 105頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』兵庫12頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月11日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第8版』イ70頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年8月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第25版 上』人事興信所、1969年。