田村秢
表示
(田村みのるから転送)
田村 秢[1](たむら みのる[2]、1894年(明治27年)10月3日[3] - 1991年(平成3年)11月19日[3])は、日本の弁護士[4][5]、政治家。衆議院議員(当選1回)[2]。ZTV代表取締役社長田村憲司、衆議院議長田村元の父[6]。自由民主党衆議院議員田村憲久の祖父[7]。TBSテレビアナウンサーの田村真子は曽孫にあたる。
経歴
[編集]現在の三重県松阪市に生まれた[8]。1917年、東京帝国大学に入学[9]。1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業[1][2][8]。松阪市で弁護士を開業した[1][8]。三重県会議員、同議長を経て[5]、1942年の第21回衆議院議員総選挙で三重2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する(いわゆる「翼賛候補」)。大政翼賛会三重県協力会議長、同中央協力会議員などを務めた[2][5][8]。
在職中は翼賛政治会[10]、大日本政治会[11]、日本進歩党[12]に所属した。戦後、公職追放となった[13][注 1]。1951年追放解除[14]。その後は弁護士を務め、三重弁護士会長となる[3]。
人物
[編集]戦前に田村は、「政府を引きずって行く程の議会をつくるのが戦争遂行裡の日本の切実な要求である。歴史的に機能を喪失した議会が退いて八紘一宇の大国是、即ち大東亜共栄圏を完遂するにふさわしい議会の設立が要求せられる秋、私は憂国の熱情に燃えて前進するのである。」と政見を述べていた[8]。住所は三重県松阪市垣鼻[4]。
家族・親族
[編集]- 田村家
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。同書には「田村稔」と表記されている。
出典
[編集]- ^ a b c 『衆議院要覧 昭和17年11月 乙』121頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月4日閲覧。
- ^ a b c d 『議会制度七十年史 第11』282頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月16日閲覧。
- ^ a b c 『現代物故者事典 1991~1993』384頁。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第14版 下』タ78頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月6日閲覧。
- ^ a b c 『翼賛選挙大観』94頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月6日閲覧。
- ^ 『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』337頁
- ^ 『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』336‐337頁
- ^ a b c d e 『翼賛議員銘鑑』237頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年12月16日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正9年 至大正10年』学生生徒姓名 法学部 法律学科16頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年3月30日閲覧。
- ^ 『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』469頁
- ^ 『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』497頁
- ^ 『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』507頁
- ^ 『公職追放に関する覚書該当者名簿』645頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月13日閲覧。
- ^ 「朝日新聞」1951年6月21日一面「第一次追放解除発表」「個人審査に回された人々 推薦議員の項」
参考文献
[編集]- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正9年 至大正10年』東京帝国大学、1913-1924年。
- 衆議院事務局編『衆議院要覧 昭和17年11月 乙』内閣印刷局、1942年。
- 『翼賛選挙大観』朝日新聞社、1942年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
- 衆議院、議院編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 『現代物故者事典 1991~1993』日外アソシエーツ、1994年。