瓜生良介
瓜生 良介(うりゅう りょうすけ、1935年3月3日 - 2012年9月5日)は、日本の演出家、鍼灸師。劇団「発見の会」主宰。「ウリウ治療室」を開設し「快医学」を提唱。発見の会は「最初のアングラ劇団」と言われる。青年劇場の瓜生正美は兄。
来歴
[編集]1935年(昭和10年)、福岡県若松市(現・北九州市)に生まれる。兄たちの影響で、小中学生のころより劇団や人形劇に携わる。15歳のとき父が死去。1951年、若松高校に入学、演劇部に入部。18歳のとき家が破産。
1954年、19歳で上京。黒雅舎で印刷工として働く。1956年、舞台芸術学院に入学。1958年、劇団「舞芸座」の演出部に所属(23歳)。演出家・土方与志に師事。シェイクスピアの『ベニスの商人』、花田清輝の『泥棒論語』で舞台監督助手を務める。1959年、土方が死去。
1961年、廣末保作「悪七兵衛景清」を武智鉄二が演出。助手を務める。8月、総会で「劇団内階層制の廃止」を提唱する。1962年、内田栄一の最初の戯曲『表具師幸吉』を上演。瓜生が初めて演出を担当(27歳)。1963年、共産党系のメンバーが脱退し、舞芸座は解体消滅する。
発見の会
[編集]1964年、2月、「発見の会」創立(29歳)。文学者たちの集団「鴉の会」と共同で新しい演劇運動を起こすという、花田清輝の構想で始まった。内田栄一も参加し、劇団名を発案する[1]。7月、廣末保作『新版四谷怪談』を上演するが、失敗。第一次「発見の会」は分裂解体する。
1965年、牧口元美、月まち子らと第二次「発見の会」を結成(30歳)。5月、信濃町駅前の千日谷会堂で定期的な演劇活動を開始。1966年、3月、竹内健が執筆した戯曲「ワクワク学説」を、瓜生の演出で上演[2]。7月、内田栄一作「ゴキブリの作りかた」を上演(美術・ワダエミ)[3]。9月、今野勉作「一宿一飯」上演(音楽・石井真木)。今野はTBSで内田が書いたドラマを演出していた(「七人の刑事」)。内田はつぎの「流れ者の美学」上演のあと、瓜生と衝突し、訣別。今野は、つぎに「エンツェンスベルガー“政治と犯罪”よりの幻想」を書く。佐藤重臣はこの時期の発見の会を「かなり突出していた」と評す[4]。
1967年、上杉清文など十数名の研究生が入団。上杉と内山豊三郎が共作した『此処か彼方処か、はたまた何処か?』を上演。「アングラの傑作」といわれ、再演を重ねた[5]。1968年、「演劇センター68」に参加、地方公演を行う。9月、芥正彦の劇団駒場と合同公演。12月、研究生が集団脱退。第二次「発見の会」消滅。1970年~71年、上杉作の「紅のアリス兇状旅」シリーズ[6]で全国を巡業したのち、演劇活動を休止する。第三次「発見の会」も終了。
鍼灸師
[編集]1972年10月、早稲田鍼灸専門学校に入学(37歳)。横井庄一の帰還を機に、逃亡兵たちの聞き書きを開始。このころから、印刷工場でアルバイト。登山に熱中する。1975年5月、鍼灸師の資格を取得(40歳)。映画「味覚革命論序説」を制作。第四次「発見の会」形成(「演劇集団発見の会」から「クリエイティブ・アクションズ発見の会」に改名)。豊田勇造をプロモートする活動を始める[7]。
1978年、7月、七年ぶりに演劇活動を再開[8]。10月、「ウリウ治療室」を開設(43歳)。それまで、鍼灸の仕事は往診でおこなっていた。1979年ごろ、仙台の医師・橋本敬三の「操体法」を知る。その後、多田政一の「綜統医学」を知り、操体法との組み合わせを考える。演劇活動は、1981年までに七回の公演を実施。
1983年、韓国ソウルで、シェイクスピアの「十二夜」(岩田宏訳)を上演。高評価を受ける[9]。1984年、「韓日フェスティバル(マダンの宴)」を開催。韓国の演劇と映画を招聘した。1985年、大村恵昭が考案したO-リングテストを知り、診断法として使用し始める。その他、尿療法、断食療法など、自然療法を組み合わせて、治療のシステムを確立していく。1988年、『話の特集』に「快医学講座」の連載開始。1990年、韓国映画「馬鹿宣言」を輸入公開。
1991年、「世界快医学ネットワーク」を設立(56歳)。以降、晩年まで「快医学」の普及に努めた。演劇活動も継続している。2004年、発見の会40周年記念公演『花田・アングラ・清輝』を演出。2012年、肺炎のため死去(77歳)[10]。
エピソード
[編集]- 俳優の斎藤晴彦は、一時期「発見の会」に在籍していた(1967年ごろ)。
- 牧口元美は『ひらけ!ポンキッキ』で、ガチャピンの着ぐるみに入っていた。ムック役も「発見の会」初期メンバーの坂口俊[11]。
- 俳優の田口トモロヲは、第四次「発見の会」に参加(1978-1983)[12]。
- 渋さ知らズは、「発見の会」の劇伴がきっかけで結成された(1989年)[13]。
- 転形劇場の太田省吾は、演出助手として第一次「発見の会」に参加していた(1964年)[14]。
著書
[編集]- 『小劇場運動全史:記録・発見の会』、造形社、1983年。
- 『証言記録 敵前逃亡:生きている陸軍刑法』、新人物往来社、1974年。
- 『〈証言〉日本のアングラ』、西堂行人編著、作品社、2015年(「瓜生良介と場の演劇」)
- 『快医学』、徳間書店、1991年。
- 『新・快医学』、徳間書店、1999年1月。
- 『快療法:いのちの法則』、ゼスト、1999年10月。
雑誌記事
[編集]- 「劇団舞芸座の場合・各劇団の主張」(『新劇』1963年11月号)
- 「演劇集団「発見の会」をつくって」(『新劇』1964年5月号)
- 「発見の会 ねっけつまるかじりぼうけんたん」(『同時代演劇』1970年第3号、演劇センター68/70出版委員会)
脚注
[編集]- ^ 「僕が“発見の会”って案を出して当選して千円ぐらい貰った」(「内田栄一インタビュー」、『シナリオ』1992年12月号、p9)。
- ^ 竹内の戯曲は発見の会に馴染まなかったが、内田、今野の創作劇へのきっかけとなった(『小劇場運動全史』p85-86、p96)。
- ^ 内田にとっても発見の会にとっても代表作となる(『別冊太陽・現代演劇60s-90s』、平凡社、1991)。
- ^ 「発見の会はある時期、かなり突出していた。『エンツェンスペルガー』などは一つのピークだった。」(『映画評論』1971年1月号、p69)。『此処か彼方処かはたまた何処か』、『ゴキブリの作りかた』も称賛している。
- ^ 『映画評論』1968年6月号グラビア、『別冊太陽・現代演劇60s-90s』p25。
- ^ 『怨霊血染めの十字架』『射風華吹雪緑姿絵』、竹中労が協力している。
- ^ 三枚のアルバムを制作。全国ツアーのマネジメントなど。1980年まで。
- ^ 上杉清文作「不純異星交遊」を上演。
- ^ 「日本帝国主義本国人がこんな〈親切〉をうけていいのだろうかという想いいっぱいで帰ってきた」(『小劇場運動全史』p279)
- ^ “演出家の瓜生良介さん死去(朝日新聞デジタル)”. 2024年2月1日閲覧。
- ^ 牧口元美「暑中お見舞申し上げます。」(『不純異星交遊』パンフレット、1978)。
- ^ “MASH profile 田口トモロヲ”. 2023年12月28日閲覧。
- ^ 副島輝人『日本フリージャズ史』青土社、2002。p391。
- ^ 『小劇場運動全史』、p71-76。
参考文献
[編集]- 「発見の会関連年譜」(『小劇場運動全史』巻末)
- 「内田栄一インタビュー」(『シナリオ』1992年12月号)
- 「今野勉 年譜」(『お前はただの現在にすぎない』田畑書店、1969年。)
- 平岡正明『スラップスティック快人伝』、白川書院、1976年。
- 西堂行人「最初のアングラ・発見の会」(『テアトロ』2022年9月号)
外部リンク
[編集]- 操体法を橋本敬三先生から学ぶ(快医学ネット)
- 「演劇上演記録データベース」( 早稲田大学文化資源データベース)