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盛明親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
盛明親王
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 延長6年(928年
薨去 寛和2年5月8日986年6月17日
改名 源盛明 → 盛明親王
官位 四品上野太守
(臣籍時)正四位下大蔵卿
父母 父:醍醐天皇、母:源周子
兄弟 勧子内親王宣子内親王恭子内親王克明親王保明親王慶子内親王代明親王勤子内親王婉子内親王都子内親王重明親王常明親王修子内親王敏子内親王式明親王雅子内親王有明親王普子内親王時明親王長明親王源高明兼明親王源兼子靖子内親王、源厳子、源自明韶子内親王源允明康子内親王英子内親王斉子内親王朱雀天皇章明親王村上天皇源為明盛明親王
菅原在躬
源則忠、斯忠王
養女:源明子
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盛明親王(もりあきらしんのう)は、平安時代前期から中期の皇族醍醐天皇の第十五皇子[1]臣籍降下時は源 盛明を名乗る。官位四品上野太守

経歴

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朱雀朝天慶5年(942年元服し、ほどなく従四位上直叙されたと想定される。村上朝では大蔵卿を務め、位階正四位下に至った。

康保4年(967年冷泉天皇践祚後まもなく、親王宣下されて四品上総太守に叙任される。円融朝初頭の安和2年(969年安和の変が発生し、同母兄の左大臣源高明が失脚するが、盛明親王は連座を逃れたと見られる。またこのころ、上野太守に任ぜられると、10年ほどに亘ってこれを務めた。

寛和2年(986年)4月28日に出家し、5月8日に薨去享年59。

勅撰歌人として、『後撰和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に6首の和歌作品が採録されている[2]

官歴

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系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e 日本紀略
  2. ^ 『勅撰作者部類』
  3. ^ 『九暦』
  4. ^ 『大日本史』
  5. ^ 『天祚礼祀職掌録』
  6. ^ 『本朝文粋』10
  7. ^ 『一代要紀』

参考文献

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