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雅子内親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
雅子内親王
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 延喜10年(910年
薨去 天暦8年8月29日954年9月28日
別名 西四条斎宮
位階 四品
父母 父:醍醐天皇、母:源周子
兄弟 勧子内親王宣子内親王恭子内親王克明親王保明親王慶子内親王代明親王勤子内親王婉子内親王都子内親王重明親王常明親王修子内親王敏子内親王式明親王雅子内親王有明親王普子内親王時明親王長明親王源高明兼明親王源兼子靖子内親王、源厳子、源自明韶子内親王源允明康子内親王英子内親王斉子内親王朱雀天皇章明親王村上天皇源為明盛明親王
藤原師輔
藤原高光藤原為光尋禅愛宮
斎宮 承平元年12月25日932年2月9日) - 承平6年3月7日936年4月6日
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雅子内親王(がしないしんのう)は、醍醐天皇第10皇女伊勢斎宮。別称:西四条斎宮(にししじょうさいくう)。のち藤原師輔室。母は更衣源周子。同母兄弟に源高明らがいる。子女は藤原高光藤原為光尋禅愛宮

略歴

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延喜11年(911年内親王宣下四品に叙される。延喜20年(920年)、源氏に賜姓されている。承平元年(932年)12月25日、斎宮に卜定される(賀茂斎院婉子内親王も同日卜定)。卜定以前に内親王に復されているようだが、史料には見られない。承平2年(933年)6月10日、宮内省初斎院入りし、9月28日に野宮に入る。承平3年(934年)9月26日、伊勢へ下向。承平6年(936年)3月7日、母・周子の死去により退下、5月3日に帰京。

天慶2年(939年)頃、藤原師輔と結婚した。3男1女をもうける。天暦8年(954年)8月29日死去。享年45。

斎宮卜定前に藤原敦忠と恋仲であったと言われ、『敦忠集』に2人の情熱的な贈答歌が多く残されている。しかし『大和物語』によれば結婚が決まった矢先に雅子内親王は斎宮に卜定され、2人の恋は実らなかったという。斎宮退下の後は敦忠の従兄弟で同母姉・勤子内親王の夫でもある師輔と結婚、前斎宮の内親王が降嫁した唯一の例となった。

子女

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