坂合部内親王
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坂合部内親王 | |
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時代 | 奈良時代 |
生誕 | 不詳 |
薨去 | 宝亀9年5月27日(778年6月27日) |
位階 | 三品 |
父母 | 父:志貴皇子 |
兄弟 | 春日王、湯原王、榎井王、光仁天皇、壱志王、海上女王、坂合部内親王、衣縫内親王、難波内親王 |
夫 | 文室大市? |
坂合部内親王(さかいべないしんのう)は、志貴皇子の王女。光仁天皇の異母姉。長親王の子・文室大市(大市王)の妻との説がある。
生涯
[編集]薨伝によると、
とあるため、光仁天皇よりも年上であったことは確実である。
聖武朝の天平11年(739年)、无位から従四位下を授けられる[2]。
光仁朝の宝亀元年(770年)11月、衣縫内親王・難波内親王・能登内親王・弥努摩内親王とともに内親王となり、四品を授けられる[3]。
宝亀5年(774年)11月、光仁天皇は坂合部内親王の邸宅に行幸し、文室大市が従二位から正二位に昇叙し、内親王も三品を授けられている[4]。このことから、文室大市が天皇に扈従し、坂合部内親王第へ出かけたのか、あるいは林睦朗の説によると、内親王が大市の妻であった可能性が問われている[5]。翌日、大市の妾も外従五位下を授けられているため、大市が内親王宅で、妾を伴ない、奉仕したことは間違いない。
宝亀9年(778年)5月、薨去。壱志濃王が喪事を監護した。喪礼に用いるものはみな官から支給され、天皇はこのために朝を廃(や)めること(政務を休むこと)が3日間続いた、という[1]。