体子内親王
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体子内親王 | |
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続柄 | 後堀河天皇第二皇女 |
全名 | 体子(たいし) |
称号 | 神仙門院 |
身位 | 内親王、准三宮 |
出生 |
寛喜3年(1231年) |
死去 |
正安3年旧12月17日(1302年1月16日)(享年71) |
配偶者 | 後嵯峨天皇 |
子女 | 皇女 |
父親 | 後堀河天皇 |
母親 | 持明院家行女 |
体子内親王(たいしないしんのう、寛喜3年(1231年) - 正安3年旧12月17日(1302年1月16日))は、鎌倉時代前期から後期にかけての皇族。後堀河天皇の第二皇女で、母は持明院家行の娘。女院号は神仙門院(しんせんもんいん)。正字体は體子內親王。
生涯
[編集]建長8年(1256年)2月6日、内親王宣下。2月7日には准后、即日女院となり、神仙門院と号した。弘長元年12月28日(1262年1月20日)に出家して妙智覚と号した。71歳で薨去。
『増鏡』第十「老いの波」には、後嵯峨天皇との間に生まれた皇女がおり、その皇女は弘安4年(1281年)夏に薨去したことが語られている。「後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり」とあり、皇女は後嵯峨天皇に鍾愛されていたと記されているが、『増鏡』以外の当時の諸記録にはこの皇女のことは記されていない。このため、体子内親王と後嵯峨天皇との関係は公的な入内ではなく、いわゆる私通だったと考えられる。なおこの皇女の死は乳母子との子を妊娠、流産したことによるものとあるので、弘安4年時点で皇女は成人に達していたとも考えられる。