相生高秀
大分航空隊時代(1940年 - 1941年)の相生 | |
生誕 |
1912年1月4日 大日本帝国 広島県 |
死没 | 1993年3月6日(81歳没) |
所属組織 |
大日本帝国海軍 警備隊 海上自衛隊 |
軍歴 |
帝国海軍1928年 - 1945年 警備隊1953年 - 1954年 海自1954年 - 1967年 |
最終階級 |
海軍中佐(帝国海軍) 海将(海自) |
相生 高秀(あいおい たかひで、1912年(明治45年)1月4日 - 1993年(平成5年)3月6日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵59期。最終階級は海軍中佐(日本海軍)、海将(海自)。第二次世界大戦期における撃墜王。公式撃墜記録は10機。
経歴
[編集]1912年(明治45年)、広島県で海軍兵学校剣道教員を務める父のもとに生まれる。父は教員になる前、海軍で兵学校運用科の下士官として勤務しており退役した。呉一中学を経て、1928年(昭和3年)4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年(昭和6年)11月7日、兵学校を卒業。装甲巡洋艦「浅間」乗組を経て[1]1933年(昭和8年)11月、第25期飛行学生を拝命。1934年(昭和9年)7月、飛行学生教程を修了、館山航空隊付(戦闘機分隊士、海軍中尉に昇任)。1935年(昭和10年)、空母「龍驤」乗組(戦闘機分隊士)。佐伯航空隊を経て、1937年(昭和12年)7月、第十二航空隊に着任。この頃、相生から戦闘機パイロットの教育を受けた原田要は「相生中尉は、天性の恵まれた体格を持ち、運動神経も素晴らしく優れており、その上、人一倍の努力家で、私は心から尊敬していました。」[2]「相生中尉は物凄い腕力の持ち主で、「急降下して上昇に移る時に、一旦ピタっと停止し、それから上昇に移っていました。実際には、停止することなど有り得ないことですが、まるで一瞬止まったかのように見えるほど、急激に上昇して行くのです。」と語っている[3]。
日中戦争
[編集]1937年(昭和12年)8月、第二次上海事変勃発に伴い公大飛行場に移動。12月、海軍大尉に昇進、本土に帰還し、霞ヶ浦航空隊分隊長兼教官に着任。
1938年(昭和13年)3月、第十二航空隊分隊長に着任[4]。中国に進出する。4月29日、相生の初陣となる漢口攻撃でI-15戦闘機を2機撃墜。6月26日、南昌攻撃では小隊3機を率い、主隊から分離した直後に20機に囲まれるが、単独2機、部隊で6機を撃墜して追撃を振り切り、安慶飛行場に着陸した[4]。
1938年(昭和13年)12月、空母「赤城」戦闘機隊分隊長に着任。1939年(昭和14年)10月、第十二航空隊付。1940年(昭和15年)1月、「赤城」に配属。同年末、大分航空隊分隊長兼教官、1941年(昭和16年)、横須賀航空隊分隊長兼テストパイロットを歴任。
太平洋戦争
[編集]1941年(昭和16年)11月、空母「龍驤」戦闘機隊飛行隊長に着任。12月8日太平洋戦争開戦時からフィリピン侵攻作戦に参加、艦攻隊を直衛しながらダバオを攻撃した[4]。
1942年(昭和17年)2月、第三航空隊飛行隊長に着任。南方作戦に従事した後、ガダルカナル島の戦い、ポートダーウィン航空作戦に参加。11月、海軍少佐に昇進、三空が第二〇二海軍航空隊に改名し、それに伴い202空飛行隊長に着任。
1943年(昭和18年)大分海軍航空隊飛行長に着任、1944年(昭和19年)3月15日、大分海軍航空隊が筑波に移転、筑波海軍航空隊飛行長。
あ号作戦で壊滅した母艦航空隊の再建が実施される中で、1944年8月、母艦航空隊である第六〇一海軍航空隊の飛行長に着任。1944年10月、レイテ沖海戦で空母「瑞鶴」に乗組。同海戦で「瑞鶴」は沈没し、相生は駆逐艦に救出された。その後は再建作業に従事していたが、1945年2月に中止になった。
1945年(昭和20年)4月第三四三海軍航空隊(通称剣部隊)の副長に着任。搭乗員の錬成を任された。
1945年8月、終戦。9月5日、海軍中佐に進級。
戦後
[編集]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放の仮指定を受ける。追放解除後の1953年(昭和28年)10月2日、保安庁警備隊入隊(2等警備正)。12月1日、初代鹿屋航空隊司令。1954年(昭和29年)8月1日、1等海佐昇任。1955年(昭和30年)7月15日、訓練飛行隊群司令。11月16日、海上自衛隊幹部学校付、1956年(昭和31年)8月16日、海上幕僚監部防衛部付、1959年(昭和34年)7月14日、徳島航空隊司令。1961年(昭和36年)7月1日、海将補昇任。9月1日、第2航空群司令。1962年(昭和37年)7月1日、自衛艦隊幕僚長。1964年(昭和39年)12月16日、第3代航空集団司令官。1965年(昭和40年)1月1日、海将昇任。12月16日、第11代自衛艦隊司令官。1967年(昭和42年)7月1日、退官。1982年(昭和57年)4月29日、勲三等旭日中綬章受章。
1993年(平成5年)3月6日、心不全のため死去(享年81)。叙・正四位[5]。
年譜
[編集]- 1928年(昭和 3年)4月:海軍兵学校入校
- 1931年(昭和 6年)11月7日:海軍兵学校卒業(第59期)
- 1933年(昭和 8年)11月:第25期飛行学生
- 1934年(昭和 9年)7月:飛行学生教程修了
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)10月24日:第十二航空隊分隊長[12]
- 1940年(昭和15年)1月20日:空母「赤城」分隊長[13]
- 1941年(昭和16年)4月26日:横須賀海軍航空隊分隊長兼教官[16]
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 1947年(昭和22年)11月18日:公職追放仮指定[31]
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)8月1日:1等海佐昇任[34]
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)8月16日:海上幕僚監部防衛部付[37]
- 1959年(昭和34年)7月14日:徳島航空隊司令[38]
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)7月1日:自衛艦隊幕僚長[41]
- 1964年(昭和39年)12月16日:第3代 航空集団司令官[42]
- 1965年(昭和40年)
- 1967年(昭和42年)7月1日:退官[45]
- 1982年(昭和57年)4月29日:勲三等旭日中綬章受章
- 1993年(平成 5年)3月6日:心不全のため死去(享年81)、叙・正四位
脚注
[編集]- ^ 現役海軍士官名簿. 昭和7年2月1日調 174ページ
- ^ 『わが誇りの零戦 祖国の為に命を懸けた男たちの物語』原田要著、桜の花出版、2013年 ISBN 978-4434184017 47ページ
- ^ 『わが誇りの零戦 祖国の為に命を懸けた男たちの物語』原田要著、桜の花出版、2013年 ISBN 978-4434184017 48ページ
- ^ a b c 秦,伊沢 2011, p. 162.
- ^ 『官報』本紙第1130号(平成5年4月6日)
- ^ 「昭和12年7月12日 海軍辞令公報(部内限)号外 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100
- ^ 「昭和12年10月1日 海軍辞令公報 号外第65号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072400
- ^ 「昭和12年11月15日 海軍辞令公報 号外 第91号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500
- ^ 「昭和12年12月1日 海軍辞令公報 号外 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ 「昭和13年3月1日 海軍辞令公報(部内限)号外 第153号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500
- ^ 「昭和13年12月15日 海軍辞令公報(部内限) 号外 第273号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 「昭和14年10月26日 海軍辞令公報(部内限) 第396号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076500
- ^ 「昭和15年1月20日 海軍辞令公報(部内限)第431号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077600
- ^ 「昭和15年10月15日 海軍辞令公報(部内限)第543号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079100
- ^ 「昭和15年11月15日 海軍辞令公報(部内限)第555号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500
- ^ 「昭和16年4月30日 海軍辞令公報(部内限)第630号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080900
- ^ 「昭和16年11月10日 海軍辞令公報(部内限)第743号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083000
- ^ 「昭和17年3月16日 海軍辞令公報(部内限)第828号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084600
- ^ 「昭和17年11月1日 海軍辞令公報(部内限)第974号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087700
- ^ 「昭和18年3月1日 海軍辞令公報(部内限)第1062号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089900
- ^ 「昭和18年4月1日 海軍辞令公報(部内限)第1086号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090400
- ^ 「昭和18年11月26日 海軍辞令公報(部内限)第1268号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094500
- ^ 「昭和19年5月11日 海軍辞令公報(部内限)第1468号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098100
- ^ 「昭和19年7月13日 海軍辞令公報 甲(部内限)第1534号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000
- ^ 「昭和19年8月8日 海軍辞令公報(部内限)甲 第1557号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100400
- ^ 「昭和19年11月25日 海軍辞令公報 甲 第1652号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000
- ^ 「昭和20年2月28日 海軍辞令公報 甲 第1734号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103600
- ^ 「昭和20年3月31日 海軍辞令公報 甲 第1760号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103900
- ^ 「昭和20年9月11日 海軍辞令公報 甲 第1908号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107300
- ^ 「昭和20年11月2日 海軍辞令公報 甲 第1971号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072143300
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、1頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『官報』本紙 第8078号(昭和28年12月7日)
- ^ 『官報』本紙 第8123号(昭和29年2月3日)
- ^ 『官報』本紙 第8353号(昭和29年11月4日)
- ^ 『官報』本紙 第8641号(昭和30年10月19日)
- ^ 『官報』本紙 第8687号(昭和30年12月14日)
- ^ 『官報』本紙 第8893号(昭和31年8月18日)
- ^ 『官報』本紙 第9768号(昭和34年7月16日)
- ^ 『官報』本紙 第10360号(昭和36年7月4日)
- ^ 『官報』本紙 第10413号(昭和36年9月4日)
- ^ 『官報』本紙 第10660号(昭和37年7月3日)
- ^ 『官報』本紙 第11406号(昭和39年12月18日)
- ^ 『官報』本紙 第11416号(昭和40年1月5日)
- ^ 『官報』本紙 第11706号(昭和40年12月17日)
- ^ 『官報』本紙 第12163号(昭和42年7月3日)
参考文献
[編集]- Hata, Ikuhiko; Yasuho Izawa, Don Cyril Gorham (translator) (1975 (original) 1989 (translation)). Japanese Naval Aces and Fighter Units in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-315-6
- 秦郁彦、伊沢保穂『日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝』大日本絵画、2011年。ISBN 978-4-499-23045-2。
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