矢部祐一
表示
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 福島県田村郡小野町 |
生年月日 | 1946年8月24日 |
没年月日 | 2011年4月3日(64歳没) |
身長 体重 |
177 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手 |
プロ入り | 1968年 ドラフト3位 |
初出場 | 1970年10月3日 |
最終出場 | 1972年5月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
矢部 祐一(やべ ゆういち、1946年8月24日 - 2011年4月3日)は、福島県出身の元プロ野球選手(内野手)。
来歴・人物
[編集]田村高校では投手で四番打者。1964年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東北大会準決勝に進出するが、加藤俊夫らがいた仙台育英に敗退。
高校卒業後はオール常磐(旧常磐炭鉱)に進み、バッティングを買われ三塁手に転向した。1966年の都市対抗で準々決勝に進出するが、日本石油の平松政次に抑えられ敗退[1]。1968年の都市対抗では、富士鉄釜石に補強されて出場した。ノンプロでの通算成績は37試合、144打数48安打、打率.333、10本塁打。チームメートに阿部良男がいた。
1967年のドラフト会議で南海ホークスから7位指名を受けるが拒否。翌1968年のドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名を受け入団。ジャイアンツでは1970年のジュニアオールスターにも選出されるが、在籍4年で一軍出場は5試合に終わる。
1972年オフに第3回選抜会議(トレード会議)の対象となり、大洋ホエールズに移籍。ここでは在籍2年で一軍出場はなく、1974年に引退した。その後は大洋でスコアラーも務めた。
2011年4月3日、食道がんのため東京都多摩市の病院で死去。満64歳没[2]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970 | 巨人 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
1972 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:2年 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
記録
[編集]- 初出場:1970年10月3日、対中日ドラゴンズ22回戦(中日球場)、9回表に森昌彦の代走として出場
- 初打席:1972年5月12日、対大洋ホエールズ6回戦(川崎球場)、坂井勝二の前に凡退
- 初先発出場:1972年5月14日、対大洋ホエールズ7回戦(川崎球場)、8番・三塁手で先発出場
背番号
[編集]- 2 (1969年)
- 57 (1970年 - 1974年)
脚注
[編集]- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ “元巨人内野手・矢部さん、食道がんで死去”. スポーツニッポン. (2011年4月6日)