石上家成
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時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
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生誕 | 養老6年(722年) |
死没 | 延暦23年6月20日(804年8月3日) |
官位 | 従三位宮内卿 |
主君 | 称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 石上氏 |
父母 | 父:石上東人 |
石上 家成(いそのかみ の いえなり)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。左大臣・石上麻呂の孫で、正六位上・石上東人の子[1]。官位は従三位・宮内卿。
経歴
[編集]天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)終結後に従五位下に叙爵。神護景雲2年(768年)に上総守次いで勅旨少輔に任じられた。
宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に伴い従五位上に叙せられ、翌宝亀2年(771年)皇太子・他戸親王の春宮員外亮を兼ねた。宝亀3年(772年)5月に他戸親王が皇太子を廃されたのち、同年9月に政情調査のために覆損使として南海道に[2]、宝亀7年(778年)検税使として東山道へ派遣されるなど[3]、地方行政の調査・監察にあたっている。同年正五位下、宝亀9年(780年)宮内大輔。
桓武天皇が即位した天応元年(781年)には従四位下・民部大輔に叙任される。またこの年、大納言・石上宅嗣(家成の従兄弟)が没したため[4]、家成は石上氏の事実上の氏上となる。その後、桓武朝前期に大宰少弐・衛門督・右衛士督・内蔵頭を務めた後、延暦8年(789年)宮内卿に任ぜられると10年以上に亘ってこれを務めた。この間、延暦10年(791年)従四位上、延暦18年(799年)迄に正四位下と累進し、叙位時期は不明ながら従三位に叙され公卿に列した。
延暦23年(804年)6月20日薨去。享年83。最終官位は散位従三位。
人物
[編集]取り上げるべき才芸はなかったが、公務を忠実に勤めた[1]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天平宝字8年(764年) 10月7日:従五位下
- 神護景雲2年(768年) 6月26日:上総守。11月13日:勅旨少輔
- 宝亀元年(770年) 10月1日:従五位上
- 宝亀2年(771年) 正月23日:兼春宮員外亮
- 宝亀3年(772年) 9月26日:南海道覆損使
- 宝亀7年(778年) 正月7日:正五位下。同19日:東山道検税使
- 宝亀9年(780年) 2月23日:宮内大輔
- 天応元年(781年) 5月25日:民部大輔。11月15日:従四位下
- 天応2年(782年) 閏正月17日:伊予守。6月20日:大宰少弐
- 延暦2年(783年) 5月15日:造東大寺長官
- 延暦3年(784年) 7月13日:内蔵頭
- 延暦4年(785年) 9月27日:兼衛門権督
- 延暦5年(786年) 2月17日:衛門督
- 延暦7年(788年) 3月21日:右衛士督
- 延暦8年(789年) 3月16日:宮内卿
- 延暦10年(791年) 正月7日:従四位上
- 延暦12年(793年) 6月1日:見兼因幡守[5]
- 時期不詳:正四位下
- 延暦18年(799年) 11月11日:見宮内卿[6]
- 時期不詳:従三位
- 延暦23年(804年) 6月20日:薨去(散位従三位)