石井長四郎
表示
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
いしい ちょうしろう 石井 長四郎 | |||||
---|---|---|---|---|---|
生年月日 | 1918年6月7日 | ||||
没年月日 | 1983年2月26日(64歳没) | ||||
出生地 | 日本 東京府東京市(現在の東京都) | ||||
職業 | 照明技師 | ||||
ジャンル | 映画 | ||||
活動期間 | 1935年 - 1980年 | ||||
活動内容 |
1935年 大都映画入社 1936年 PCL映画製作所に移籍 1947年 労使紛争に伴い新東宝に移籍 1952年 東宝スタジオに戻る 1978年 日本映画テレビ照明協会会長に就任 1980年 病状が悪化し、会長職を辞任 | ||||
|
石井 長四郎(いしい ちょうしろう、1918年6月7日[1] - 1983年2月26日[1])は、日本の照明技師である。元日本映画テレビ照明協会会長。
人物・来歴
[編集]1918年(大正7年)6月7日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。
旧制・王子高等小学校(現在の北区立王子小学校)を卒業し、満17歳になる1935年(昭和10年)、東京・巣鴨の大都映画に入社した。
翌1936年(昭和11年)には、東京・砧のピー・シー・エル映画製作所に移籍した。同社は、さらに翌年の1937年(昭和12年)9月10日、他社と合併して東宝映画を設立、同製作所は東宝映画東京撮影所となり、1943年(昭和18年)には同社が合併して現在の東宝となり、同撮影所は東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)と改称するが、この間、同撮影所に在籍し続けた。
第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、東宝撮影所は東宝争議で製作を中止、東宝第二撮影所に設立された新東宝に移籍した。1952年(昭和27年)には、東宝撮影所に戻っている。
1978年(昭和52年)、照明技師の職能団体である日本映画テレビ照明協会の会長に就任した。しかし体調が優れず、1980年(昭和55年)、病状が悪化し、会長職を辞任した。
代表作
[編集]- 1943年 - 虎彦龍彦
- 1945年 - 續姿三四郎
- 1946年 - わが青春に悔なし
- 1949年 - 野良犬
- 1953年 - 夫婦
- 1953年 - 青色革命
- 1954年 - 山の音
- 1954年 - 芸者小夏
- 1954年 - 晩菊
- 1954年 - ゴジラ[1]
- 1955年 - 浮雲
- 1956年 - 驟雨
- 1956年 - 妻の心
- 1956年 - 流れる
- 1958年 - リオの若大将
- 1959年 - コタンの口笛
- 1960年 - 女が階段を上る時
- 1961年 - 名もなく貧しく美しく
- 1961年 - 用心棒
- 1961年 - 小早川家の秋
- 1962年 - 放浪記
- 1963年 - 太平洋の翼
- 1964年 - 乱れる
- 1966年 - 女の中にいる他人
- 1967年 - 乱れ雲
- 1969年 - 死ぬにはまだ早い
- 1970年 - 激動の昭和史 軍閥
- 1973年 - 忍ぶ糸
- 1976年 - 続・人間革命
受賞歴
[編集]- 1973年 - 日本映画テレビ照明協会技術賞。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『映像メディア作家人名事典』日外アソシエーツ、1991年。ISBN 4816911111。
- 井上英之『検証・ゴジラ誕生―昭和29年・東宝撮影所』朝日ソノラマ、1994年。ISBN 4257033940。
外部リンク
[編集]- 石井長四郎 - 日本映画データベース
- 石井長四郎 - allcinema
- 石井長四郎 - KINENOTE
- Choshiro Ishii - IMDb
- 石井長四郎 - MOVIE WALKER PRESS
- 石井長四郎 - 東宝WEB SITE アーカイブ 2016年3月4日 - ウェイバックマシン
- 石井長四郎 - 幕末・明治の写真師総覧