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磯矢伍郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
磯矢 伍郎
いそや ごろう
生誕 (1896-01-02) 1896年1月2日
日本の旗 日本 三重県
死没 (1993-08-22) 1993年8月22日(97歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1917年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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磯矢 伍郎(いそや ごろう、1896年明治29年)1月2日[1][2] - 1993年平成5年)8月22日[1])は、日本陸軍軍人。最終階級は中将

経歴

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三重県出身[1][2][3]。売薬業・磯矢馬佐右衛門の五男として生まれる[1]。三重第三中学校(現三重県立上野高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1917年大正6年)5月、陸軍士官学校29期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊附となる[1][4]1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した[1][2][3]

1926年(大正15年)8月、歩兵大尉に進み歩兵第48連隊中隊長に就任[1]参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官兼参謀本部員、関東軍参謀、参謀本部員を務め、1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し第2軍参謀に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。参謀本部員、関東軍参謀、陸軍兵器学校幹事、朝鮮軍参謀、第2軍参謀長を務め、 1942年(昭和17年)8月、陸軍少将に昇進[1][2][3]

1943年(昭和18年)4月、マライ軍政監に発令され日本軍占領地の軍政を担った[1][2][3]。同年8月、船舶参謀長に転じ、1945年(昭和20年)2月、参謀本部第3部長・運輸通信長官兼大本営陸軍参謀・航空通信保安長官に異動し[5]、同年4月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。同年5月、海運総監部参謀長を兼務し終戦を迎えた[1][2][3]。同年12月、予備役に編入[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]1948年(昭和23年)7月、南方から捕虜を輸送した際の虐待(いわゆる地獄船)に関与した容疑で逮捕、B級戦犯として裁判にかけられた[7]。裁判では懲役刑の判決を受け、1949年(昭和24年)10月まで巣鴨プリズンに拘留された[1]。出所後間もない11月15日の消し印で、磯矢からまだ拘留中の同期生である額田坦稲田正純あてに、ほかの同期生(清水盛明柴野為亥知丸山房安有末精三)が商売をはじめた近況や有末機関(「例の処」と表現)などを伝える珍しい葉書が残っている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、20頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』77-78頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』406頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』403、406頁。
  5. ^ 第24号 昭和20年2月1日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120932700 
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
  7. ^ 「地獄船でB級公判」『朝日新聞』昭和28年7月28日.2面

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 磯矢伍郎葉書『東京都豊島区巣鴨拘置所 額田坦様、稲田正純様』1949年11月15消印。