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日向大神宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福土神社から転送)
日向大神宮

外宮
所在地 京都府京都市山科区日ノ岡一切経谷町29
位置 北緯35度00分24秒 東経135度47分43秒 / 北緯35.00667度 東経135.79528度 / 35.00667; 135.79528座標: 北緯35度00分24秒 東経135度47分43秒 / 北緯35.00667度 東経135.79528度 / 35.00667; 135.79528
主祭神 内宮:天照大御神多紀理毘賣命市寸島比賣命多岐都比賣命
外宮:天津彦火瓊々杵尊天之御中主神
社格 式内社(小)
村社
創建 顕宗天皇の治世
別名 京の伊勢
例祭 外宮:10月16日
内宮:10月17日
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鳥居
外宮拝殿

日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)は、京都市山科区にある神社式内社(小)で、旧社格村社東海道三条通沿いの神明山にあり、「京の伊勢」とも称される。

祭神

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歴史

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社伝によれば、第23代顕宗天皇の治世に勅願により筑紫の日向国にある高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建されたという[1]。その後、天智天皇が神田を寄進して神域の山を日御山(ひのみやま)と名付けたという[1]

平安時代には、日向宮、日向神宮、粟田口神明宮、日岡神明宮とも称した。

「宇治郡名勝誌」、「京都府山科町誌」には、延喜式神名帳小社に列する「山城国宇治郡 日向神社」とするが、「山城名勝誌」、「山城志」、伴信友の「神名帳考証」では別のものとしている。

清和天皇より「日向宮」の勅額を賜ったほか、醍醐天皇により延喜の制で官幣社に列せられている[1]

応仁の乱で社殿等を焼失して祭祀が一旦途絶えたが、江戸時代初期に篤志家・松坂村の松井藤左衛門によって旧社地に再建され、後陽成天皇により「内宮」と「外宮」の御宸筆の勅額を賜っている[1]

慶長19年(1614年)には徳川家康により失われた社領も戻され、新たに神領が加増され社殿の改造が行われている[1]

後水尾天皇中宮東福門院より修理料や御神宝を賜い、中御門天皇より享保14年(1729年)4月に両本宮の修理に際して神祇官吉田兼敬が奉幣の儀に派遣されている[1]

後桃園天皇よりたびたび御代拝を遣わされ、毎年御紋付提灯を賜っている[1]

寛政4年(1792年)12月女院御所より初穂奉献、寛政6年(1794年)9月奉礼門院及び女院御所中宮より同年11月には内侍所よりそれぞれの翠簾の寄進があり、文化6年(1809年)11月外宮遷宮、文化7年(1810年)5月内宮遷宮に際しては光格天皇より神宝を寄進されている[1]

その他、仙洞御所青蓮院宮、聖護院宮、梶井宮、桂宮の参拝、御初穂の奉献・宝物の寄進があった[1]

交通の要所・東海道の横にあることからか、交通祈願の神社として有名になった。

明治時代の近代社格制度で村社となる。

1929年昭和4年)10月には皇室より御大礼調度品が下付され、1936年(昭和11年)10月久邇宮より参拝・初穂が奉献され、1937年(昭和12年)2月には御献木を賜っている[1]

太平洋戦争後は、村社を始めとする京都市内の一部の社とともに神社本庁ではなく神社本教に包括された。

境内

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本殿は、内宮(ないく)と外宮(げく)の二つある。

  • 内宮(上ノ本宮)
    • 本殿
    • 幣殿
    • 神門
    • 拝殿
  • 影向岩
  • 天岩戸
  • 勾玉
  • 外宮(下ノ本宮)
    • 本殿
    • 神門
    • 拝殿
  • 神馬舎
  • 神饌所
  • 社務所
  • 菅公胞衣所 - 菅原道真の胞衣を埋めた所という。
  • 成宮御胞衣所 - 仁孝天皇第二皇女・成宮の御胞衣を埋めた所という。
  • 天龍龍神の塚
  • 地龍龍神の塚
  • 伊勢大神宮遥拝所

境内社

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摂・末社

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アクセス

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鉄道

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自動車

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脚注

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注釈

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  1. ^ 境内に現存。飲料不適。平安時代の疫病流行をおさめたと伝わる。正月三日のみ解放される。
    小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年、p.206 – 207、ISBN 9784569616186

出典

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関連項目

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外部リンク

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