稲垣生起
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生誕 |
1890年(明治23年)2月20日 日本、和歌山県 |
死没 | 1942年(昭和33年)9月15日 |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1910年(明治43年) - 1942年(昭和17年) |
最終階級 | 海軍中将 |
墓所 | 多磨霊園 |
稲垣 生起(いながき あやお、1890年(明治23年)2月20日 - 1942年(昭和17年)9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
略歴
[編集]和歌山県和歌山市出身。旧制和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第89位、卒業時成績順位は149名中第53位。
人物像
[編集]人物評価に対して中島親孝同様、辛辣な点数を付与する高木惣吉は、稲垣を自著『自伝的日本海軍始末記』に於いて「誠に重点をつかんで統御にすぐれた人」と称し絶賛していた。
年譜
[編集]- 1890年(明治23年)2月20日- 和歌山県和歌山市生
- 1902年(明治35年)4月1日- 和歌山県立和歌山中学校入学
- 1907年(明治40年)3月31日- 和歌山県立和歌山中学校卒業
- 9月21日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位150名中第89位
- 1910年(明治43年)7月18日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位149名中第53位・任 海軍少尉候補生・2等巡洋艦「笠置」乗組
- 10月16日- 練習艦隊遠洋航海出発 ホノルル~サンフランシスコ~サンペドロ(San Pedro, California)~マンサニーリョ(Manzanillo)~アカプルコ~パナマ~アカプルコ~ホノルル方面巡航
- 1911年(明治44年)3月6日- 帰着
- 1912年(明治45年)7月5日- 戦艦「三笠」乗組
- 1913年(大正2年)12月1日- 任 海軍中尉・海軍水雷学校普通科学生
- 1914年(大正3年)5月27日- 海軍砲術学校普通科学生
- 1915年(大正4年)4月3日- 帰着
- 1916年(大正5年)12月1日- 任 海軍大尉・海軍大学校乙種学生
- 1917年(大正6年)5月1日- 海軍砲術学校高等科第16期学生
- 1918年(大正7年)5月1日- 第2特務艦隊司令部附
- 1919年(大正8年)9月15日- 戦艦「安芸」分隊長
- 12月1日- 戦艦「敷島」副砲長兼分隊長
- 1920年(大正9年)12月1日- 軽巡洋艦「龍田」砲術長
- 1921年(大正10年)12月1日- 海軍大学校甲種21期学生
- 1922年(大正11年)12月1日- 任 海軍少佐
- 1923年(大正12年)10月15日- 海軍大学校甲種卒業 卒業成績順位22名中第16位
- 1926年(大正15年)11月1日- 巡洋戦艦「金剛」砲術長
- 1927年(昭和2年)12月1日- 任 海軍中佐・第1艦隊参謀兼聯合艦隊参謀
- 1928年(昭和3年)12月10日- 第5戦隊砲術参謀
- 1929年(昭和4年)11月5日- 横須賀鎮守府附 欧米各国出張
- 1930年(昭和5年)12月1日- 海軍大学校教官
- 1931年(昭和6年)12月1日- 任 海軍大佐・兼 陸軍大学校兵学教官
- 1932年(昭和7年)11月15日- 聯合艦隊先任参謀 兼第1艦隊先任参謀
- 1933年(昭和8年)11月15日- 海軍軍令部第1部第2課長
- 1935年(昭和10年)10月30日- 海軍軍令部 兼海軍省出仕
- 1936年(昭和11年)2月28日- 帰朝
- 1937年(昭和12年)12月1日- 任 海軍少将・海軍航空本部総務部長
- 1939年(昭和14年)12月1日- 海軍軍令部出仕
- 1941年(昭和16年)4月1日- 病気に依り待命
- 12月30日- 海軍軍令部出仕
- 1942年(昭和17年)6月1日- 海軍大学校長 兼高等技術会議議員
- 9月15日- 死去 享年52 海軍中将に特別進級
参考文献
[編集]- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井 篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
- 高木惣吉日記と情報・上下巻(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 自伝的日本海軍始末記(高木惣吉著・光人社) ISBN 4-7698-0027-4 C0095
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野崎 誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)