恒徳王妃光子
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(竹田宮妃光子から転送)
竹田 光子 (恒徳王妃 光子) | |
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竹田宮妃 | |
続柄 | 三条公輝第2女子 |
全名 | 竹田 光子(たけだ みつこ) |
身位 | 王妃 →(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 →(皇籍離脱) |
出生 |
1915年11月6日 日本・東京府東京市麻布区 (現:東京都港区六本木)三条公爵邸 |
死去 |
2013年8月11日(97歳没) |
配偶者 | 竹田宮恒徳王 |
子女 |
恒正王 佐藤素子(素子女王) 渡辺紀子(紀子女王) 恒治王 竹田恒和 |
父親 | 三条公輝 |
母親 | 正親町静子 |
恒徳王妃 光子(つねよしおうひ みつこ、1915年〈大正4年〉11月6日 - 2013年〈平成25年〉8月11日)は、日本の旧皇族。竹田宮恒徳王の妃[1]。公爵・三条公輝の次女[1]。 母は、伯爵・正親町実正の長女・静子。旧名は、三条 光子(さんじょう みつこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、竹田 光子(たけだ みつこ)。
人物・来歴
[編集]1934年(昭和9年)、竹田宮恒徳王と結婚。その後、恒正王、素子女王、紀子女王、恒治王、竹田恒和の3男2女をもうける。1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により、夫や子女と共に家族で皇籍離脱。以後は、「竹田 光子(たけだ みつこ)」と名乗る。2013年(平成25年)8月11日、老衰のため、逝去。97歳没。
親族
[編集]栄典
[編集]- 1934年(昭和9年)5月12日 - 勲二等宝冠章[4]
- 1934年(昭和9年)9月13日 - 日本赤十字社名誉社員章・日本赤十字社金色有功章[5]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]
- 1944年(昭和19年)5月16日 - 勲一等宝冠章[7]
脚注
[編集]注釈・出典
[編集]- ^ a b 『人事興信録 第14版 上』サ149頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月17日閲覧。
- ^ 「FRIDAY」1989年1月26日増刊号p36-37
- ^ “竹田家(竹田恒正・竹田恒治・竹田恒貴の家系図)”. 閨閥学 (2019年5月2日). 2023年1月1日閲覧。
- ^ 『官報』第2207号「叙任及辞令」1934年5月14日、p.350。
- ^ 『官報』第2312号「日本赤十字社録事」日本赤十字社名誉社員推崇、有功章奏呈 1934年9月13日、p.319。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第5200号「叙任及辞令」1944年5月18日、p.283。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
関連項目
[編集]外部リンク
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