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筧正重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
筧 正重
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永3年(1523年[1]
死没 文禄3年2月13日1594年4月3日[1][2]
別名 平四郎、助大夫[2]
戒名 如水[2]
主君 松平清康広忠徳川家康
氏族 藤原姓筧氏[2]
父母 筧正治[3]
兄弟 重忠正重正則[3]
正長
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筧 正重(かけい まさしげ)は、戦国時代から安土桃山時代武将徳川氏の家臣。

経歴

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松平氏に仕えた筧正治の子で、正重も兄の筧重忠とともに岡崎城松平清康広忠に仕える[3]天文16年(1547年)兄正重に上和田城松平忠倫暗殺の命が下ると、兄とともに上和田に出向いて偽って降り、正重が忠倫を暗殺すると兄の上和田撤収を助けて共に岡崎へ帰還した[1][4]

広忠没後はその子の元康(徳川家康)仕える。弘治2年(1556年尾張国織田氏酒井忠次の守る福谷城を攻めると、援将の一人として守城を助けた[5][2]永禄3年(1560年桶狭間の戦いでは兄重忠や弟正則らとともに丸根砦攻撃に加わる[2]永禄6年(1563年三河一向一揆では勝鬘寺に与して家康に背き、同年の小豆坂の戦いでは平岩親吉と矛を交えて手傷を負わせている。翌年の上和田の戦いにも出陣して松平勢と交戦。また勝鬘寺に斥候が送り込まれた際にはこれを撃破し、正重も渡辺守綱とともに斥候の布施吉次を討ち取っている[6][7]

一揆平定後に帰参した正重は大須賀康高麾下に属し、永禄12年(1569年)今川氏真の籠もる掛川城の戦いでは掛塚で敵増援と戦う。天正4年(1576年)康高が横須賀城に入ると正重はその副将となって武田氏と戦い、以後も康高の武者奉行を務めた。天正18年(1590年小田原征伐では康高の嗣子忠政の隊に属している。子の正長水戸藩士となった[2]

脚注

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  1. ^ a b c 上田 et al. 2001, § 筧正重.
  2. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』, p. 24.
  3. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』, pp. 23–24.
  4. ^ 左右田 1982, pp. 303–304.
  5. ^ 『岡崎市史』, pp. 266–267.
  6. ^ 『岡崎市史』, pp. 387–398.
  7. ^ 林 1981, § 針崎古戦場.

参考文献

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  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3 
  • 林英夫 編『愛知県の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1981年。ISBN 978-4-582-91038-4 
  • 左右田才次郎 編『豊坂村誌』国書刊行会、1982年。ISBN 978-4-336-01214-2 
  • 岡崎市役所 編『岡崎市史』 別巻上巻、名著出版、1972年。 
  • 『新訂寛政重修諸家譜』 17巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0221-5