篠塚重広
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篠塚伊賀守を描いた錦絵 (歌川国芳画) | |
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代初期 |
生誕 | 延慶2年(1309年) |
死没 | 興国3年/康永元年(1342年) |
別名 | 篠塚伊賀守 |
戒名 | 法名:大信寺殿智證大禅定門 |
墓所 | 愛媛県越智郡上島町魚島亀居八幡神社内 宝篋印塔 |
主君 | 新田義貞→脇屋義助 |
氏族 | 桓武平氏良文流畠山氏庶流篠塚氏 |
父母 | 父:篠塚重徳 |
兄弟 | 重広 |
子 | 伊賀局(楠木正儀室) |
篠塚 重広(しのづか しげひろ)は、南北朝時代の南朝方の武将。重廣とも。篠塚伊賀守としても名を知られている。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。
生涯
[編集]延慶2年(1309年)、上野国篠塚で誕生。家督を継いだ重広は篠塚城(現群馬県邑楽郡邑楽町)の第5代城主となり、新田義貞の側近となった。 元弘3年(1333年)、義貞の鎌倉攻略に参陣している。建武の新政後の建武3年(1336年)、細川定禅の籠る近江三井寺攻略に従軍した。
延元3年/建武5年(1338年)、藤島の戦いで義貞が没すると重広は義貞の弟脇屋義助に従う。興国3年/暦応元年(1340年)には吉野へ向かい後村上天皇へ拝謁した。興国3年/康永元年(1342年)、北朝方の細川頼春と戦い、伊予の世田城に篭城したが、敗戦となり自ら「隠岐島」に落ち延びて[1]同年に没したといわれている。
『太平記』には重広の武勇が描かれている。娘の伊賀局も怪力勇敢で知られた[2]。
史跡
[編集]- 茨城県神栖市波崎に、1345年頃篠塚伊賀守が瀬戸内海の沖ノ島(魚島)から波崎に上陸した際に置いた船の碇石と伝わるものがある。
- 群馬県邑楽町篠塚に伊賀守公御廟がある。横の大信寺境内には碇石の複製がある。
- 群馬県藤岡市篠塚に伊賀守を奉る神社がある。
脚注
[編集]参考文献
[編集]外部リンク
[編集]- 菩提寺大信寺-篠塚伊賀守・伊賀局詳細解説あり
- 篠塚伊賀守重廣『畠山重忠 : 少年武士の鑑』荻窪留吉 著 (大同館書店, 1930)