コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

篠田利英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
篠田 利英
誕生 (1857-02-09) 1857年2月9日安政4年1月15日
信濃国筑摩郡松本(現・長野県松本市
別名 安己
死没 (1944-02-14) 1944年2月14日(87歳没)
職業 教育者官吏
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京師範学校中学師範学科
代表作 『小学校生徒用物理書』(1885年)
『物理学初歩』(1898年)
配偶者 サタ
子供 英一(長男)、利(長女・増井峰次郎妻)、てる(次女)、次郎(次男)、せつ(三女)
テンプレートを表示

篠田 利英(しのだ としひで、安政4年1月15日1857年2月9日) - 昭和19年(1944年2月14日[1])は、日本教育者

経歴

[編集]

信濃国松本城下松本藩士・篠田正汎の次男として生まれる[2]同人社慶應義塾を経て、1877年明治10年)に東京師範学校(後の東京高等師範学校)に入学。1882年(明治15年)に卒業した後は、群馬県師範学校二等教諭、同教頭を務めた。1886年(明治19年)、高等師範学校附属小学校訓導となった。その後、3年間アメリカ合衆国に留学し、ジョンズ・ホプキンズ大学クラーク大学スタンレー・ホールのもと実験心理学を学んだ。帰国後の1890年(明治23年)、東京女子高等師範学校教授となり、1892年(明治25年)から同校附属小学校主事を兼ねた。1893年(明治26年)から文部省視学官・東京女子高等師範学校教授となり、その後視学官を辞して東京高等師範学校教授を兼ねた。1898年(明治31年)、東京女子高等師範学校附属女学校主事を兼ねた。

1910年(明治43年)から第六臨時教員養成所教授を兼任[3]。その後、関東都督府高等女学校校長を務めた[4]

著作

[編集]
篠田利英
  • 「山川校長の諸逸話」(『国民教育』第3巻第3号、大日本国民中学会、1912年3月)
  • 「高嶺先生を追懐して」(高嶺秀夫先生記念事業会著 『高嶺秀夫先生伝』 培風館、1921年12月 / 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1980年11月 / 大空社〈伝記叢書〉、1987年9月)
  • 「故後藤牧太先生」(『Romaji』第25巻第6号、ローマ字ひろめ会、1930年6月)
  • 思ひ出草」(那須良利編輯 『創立五十年』 東京女子高等師範学校附属高等女学校、1932年11月)
  • 「山川浩将軍の逸話」(『会津会雑誌』第46号、1935年5月)
  • 思ひ出」(日本聾唖教育会ほか編輯 『盲唖教育の師父 小西信八先生』 日本聾唖教育会ほか、1938年10月)
著書

脚注

[編集]
  1. ^ 『茗渓会七十年史』茗渓会、1952年、93頁。 
  2. ^ 『信濃人物略誌』197頁。
  3. ^ 『官報』第8179号、明治43年9月23日。
  4. ^ 『官報』第563号、大正3年6月17日。

参考文献

[編集]
  • 『現今日本名家列伝』日本力行会出版部、1903年。 
  • 小出広編『信濃人物略誌 : 附・在京県人一覧表』信濃青年会、1919年。

関連文献

[編集]
  • 「女子高等師範学校教授 篠田利英君小伝」(『日本之小学教師』第1巻第4号、1899年7月)
  • 栗原古城 「東京女子高等師範学校附属高等女学校主事 篠田利英君」(『教育界』第9巻第9号、金港堂書籍、1910年7月)
  • 篠田利英」(内尾直二編輯 『第三版 人事興信録』 人事興信所、1911年4月)
  • 「小寺利英」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月)

外部リンク

[編集]
公職
先代
勝浦鞆雄
日本の旗 旅順高等女学校長
1914年 - 1920年
次代
藤井専随
先代
女子高等師範学校附属学校主事
篠田利英
日本の旗 東京女子高等師範学校附属高等女学校主事
1908年 - 1913年
女子高等師範学校附属高等女学校主事
1893年 - 1908年
次代
槙山栄次
先代
岡五郎
日本の旗 女子高等師範学校附属学校主事
1891年 - 1893年
次代
女子高等師範学校附属高等女学校主事
篠田利英
女子高等師範学校附属小学校主事
田中敬一
その他の役職
先代
校長事務取扱
石橋蔵五郎
上野高等女学校
1923年 - 1927年
次代
石橋蔵五郎