結城直光
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
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生誕 | 元徳2年(1330年) |
死没 | 応永2年1月17日(1395年2月7日) |
戒名 | 華蔵寺殿天海聖朝居士 |
墓所 | 慈眼院(結城市) |
官位 | 中務大輔 |
幕府 | 室町幕府 安房国守護 |
主君 | 足利尊氏・直義、義詮、義満 |
氏族 | 結城氏 |
父母 | 父:結城朝祐 |
兄弟 | 直朝、直光 |
子 | 基光 |
結城 直光(ゆうき なおみつ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。下総結城氏第8代当主。安房国守護。
生涯
[編集]元徳2年(1330年)[1]、6代当主・結城朝祐の子として誕生。兄・直朝と同様、足利直義より偏諱を受けて直光と名乗る[注 1]。はじめ、小塙八郎太郎と称した(「結城系図」)[2]。
興国4年/康永2年(1343年)、兄で7代当主・直朝が関城での戦いで討死した後、家督を継いだ[3]。兄同様、足利尊氏(及び直義)に臣従したが、やがて尊氏・直義兄弟が対立すると(観応の擾乱)、尊氏派に属した。正平7年/観応3年(1352年)に新田義興・義宗らが上野国で挙兵したときも尊氏方に与するなど、直義派・南朝方武将との合戦で功を挙げた。
文和2年(1353年)、武蔵国の千台・平方荘を与えられた(「源威集」)[4][3]。
延文3年(1358年)5月、29歳のとき、復庵宗己のもとで出家した[5]。
正平23年/応安元年(1368年)にも上杉憲顕[注 2]の軍に従って、武蔵平一揆に乗じて挙兵した義宗を討伐している。これらの経緯から尊氏・義詮・足利義満の3代の将軍からの信任は厚く、直光はその信任を背景として常陸国に勢力を拡張し、官位も中務大輔に叙せられるなど、再び結城氏の全盛期を築き上げた。
また、少なくとも、応安2年(1369年)から至徳2年(1385年)までの間、安房国の守護職を務めたことが確認できる[6][3]。下総国千葉氏への牽制のためという[3]。
応永2年(1395年)、死去。67歳[1]。法名は華蔵寺殿天海聖朝居士[7]。子・基光が継いだ。
直光は文筆にも優れ、『源威集』の作者と言われている[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 結城市史編さん委員会 編『結城市史』結城市〈第四巻 古代中世通史編〉、1980年10月30日。NDLJP:9642041。(要登録)
- 荒川善夫 編著『下総結城氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉、2012年10月10日。ISBN 978-4-86403-069-4。
外部リンク
[編集]- 『結城直光』 - コトバンク
- 健田須賀神社文書(「結城直光田地安堵状」) - 結城市
- 連載 結城家物語(令和4年5月号~) - 結城市