コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

結城貞広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
結城 貞広
時代 鎌倉時代後期
生誕 正応2年(1289年
死没 延慶2年11月13日1309年12月15日
改名 犬次郎丸、貞広
別名 七郎
戒名 正仲寺殿眼叟英清居士
官位 左衛門尉
幕府 鎌倉幕府
氏族 結城氏
父母 父:結城時広、母:小山時村の娘
朝祐
テンプレートを表示

結城 貞広(ゆうき さだひろ)は、鎌倉時代後期の武士御家人下総結城氏第5代当主[1]幼名は犬次郎丸[1]通称は七郎、官職左衛門尉[2]

生涯

[編集]

正応2年(1289年)、第4代当主・結城時広の子として誕生[1]。母は、小山時村[注 1]の娘[4][1]

誕生の翌年、父・時広が24歳で亡くなり、1歳たらずで当主となった[1]。長ずるまで母が事実上当主を代行していたようである。結城一門・山川氏末裔の山川修二所蔵の文書の中に、かつて「結城貞広公御母公御制止一通」があったと記されていることから、貞広の母の果たしていた役割は大きかったものと考えられている[5]

結城氏は、貞広のとき、これまで信仰していた浄土真宗を改め、禅宗帰依するようになった[2]

延慶2年(1309年)、11月13日、21歳で死去した[2][6]法名は正仲寺殿眼叟英清居士(ただし、「結城系図」には、「院号焼失」したので後におくりなしたとある)[7]

家督は、子の犬鶴丸(朝祐)が1歳で継いだ[2][6]

一字付与について

[編集]

の「貞」の字は、元服当時の鎌倉幕府第9代執権北条貞時から偏諱を受けたものである[8]。「結城系図」[注 2]の貞広の付記には、「鎌倉執権北条貞時一字を授く。故に貞広と名す」と記されている[8]

子どもについて

[編集]

系図上、子は朝祐のみである。『尊卑分脈』・『系図纂要』・『続群書類従』所収「結城系図」など、いずれの系図でも一致している。鎌倉時代末期に作成されたとみられる『結城小峯文書』内の「結城系図」では、貞広の子が犬鶴丸、追筆で「使 左衛門尉 朝高 結城七郎」となっている[9]が、結城氏家督継承者の通称である「結城七郎」を称していること、左衛門尉及び検非違使に任官していることのいずれもが朝祐に合致しているため、この朝高も朝祐と同一人物と考えられている[10]。よって、貞広の男子は朝祐(初め朝高)ただ一人であったことがわかる。

白河結城氏との関係

[編集]

当主が相次いで他界した下総結城氏は一時、衰退し、代わって分家筋の白河結城氏当主の結城宗広の力が増大することになり、鎌倉時代から南北朝時代にかけて白河結城氏が隆盛することになる。宗広は下総結城氏から見ればあくまで庶流としての地位を占めていたに過ぎず、惣領家にとって代わるということはなかったが、得宗家に接近する等して自立性を強め、鎌倉時代末期には惣領の結城朝祐に対し、実際の力関係という点では凌いでいた[11]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 小山長村の子[3]
  2. ^ 東京大学史料編纂所架蔵謄写本(原本は松平基則所蔵)

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e 結城市史 第四巻 1980, p. 271.
  2. ^ a b c d 結城市史 第四巻 1980, p. 272.
  3. ^ 荒川 2012, p. 101.
  4. ^ 荒川 2012, p. 113.
  5. ^ 結城市史 第四巻 1980, pp. 271–272.
  6. ^ a b 荒川 2012, p. 11.
  7. ^ 結城市史 第四巻 1980, p. 465.
  8. ^ a b 結城市史 第四巻 1980, p. 297.
  9. ^ 結城市史 第四巻 1980, p. 933.
  10. ^ 結城市史 第四巻 1980, pp. 275–277, 「結城朝高」.
  11. ^ 結城市史 第四巻 1980, pp. 273–275, 「下総・白河両結城氏の立場」.

参考文献

[編集]
  • 『結城市史 第一巻 古代中世史料編』結城市、1977年。 
  • 結城市史編さん委員会 編『結城市史』 第四巻《古代中世通史編》、結城市、1980年10月30日。NDLJP:9642041 (要登録)
  • 市村高男 著「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察-系図研究の視点と方法の探求-」、峰岸純夫; 入間田宣夫; 白根靖大 編『中世武家系図の史料論』 上、高志書院、2007年。 
  • 荒川善夫 編著『下総結城氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉、2012年10月10日。ISBN 978-4-86403-069-4 

外部リンク

[編集]