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大野屋惣八

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
胡月堂から転送)

大野屋 惣八(おおのや そうはち)は、江戸時代後期から明治時代にかけて名古屋長島町(現在の二丁目[1])に存在した貸本屋出版業、またその主人。通称、大惣もしくは大総(だいそう)[2]

概要

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「大野屋惣八」創業地(2014年9月)

貸本屋としての創業は1765年明和2年)とする説と[1]1767年(明和4年)とするものがある[3][2]。屋号の大野屋は創業者が知多郡大野村(現常滑市)出身であることに由来する[2]。最初から貸本屋専業だったわけではなく、1830年天保元年)頃までは酒屋1754年宝暦4年)からは薬屋を併せた[2]。薬屋は1879年明治12年)頃まで営業していた[4]。酒屋としての二代目にあたる江口新六が趣味で蒐集したものを、惣八が貸本屋として整えた[5]。初代惣八は元々個人的に蒐集していた書籍を人に見せているだけだったが、2代目が料金を定めたという[1]。見料を定めたのは1845年(弘化2年)のことであり、それまでは無料で貸し出していたことになる[4]。3代目に全盛を迎えたものの、4代目で終焉を迎えた[1]。初代以来の蔵書は一切売却しないという方針が堅持され、廃業時には2万冊の蔵書を誇ったという[3]。蔵書は小説だけでなく、漢籍から娯楽書の類まで幅広く取りそろえ、利用客も武士から町人まで各階層に及んだという[1]。また、曲亭馬琴も訪れており、「胡月堂」の扁額を揮毫したという[1]。明治に至って坪内逍遙水谷不倒なども利用した[1]。特に坪内は自ら「大惣は私の芸術心作用の唯一の本地、すなわち〈心の故郷〉であった」(「少年期に観た歌舞伎の追憶」)とまで述べている[6]。廃業時期ははっきりしない[7]。膨大な蔵書は帝国図書館(現国立国会図書館、約3500部)・東京帝国大学京都帝国大学(現京都大学、約3700部)・東京高等師範学校(現筑波大学、約500部)・東京専門学校(現早稲田大学)などに吉川弘文館を仲介して分譲され、震災等により一部が失われたものの現在まで伝わっている[1][8]

所在地の変遷

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歴代主人

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現在の法応寺(2014年9月)

初代惣八

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享保13年(1728年)生まれ[10]。初めは新六を称する[10]。幼名は富太郎、胡月堂と号した[10]。樽屋町(現名古屋市西区城西・花の木・浅間の各一部[11])において、薬屋の三代目として商売をしていたが、本重町に移転の後、破産[10]岐阜の兄紙屋喜兵衛の援助などにより、数百冊の本を購入した上で貸本屋を伝馬町長島町角に創業した[10]文化8年(1811年)11月4日没[10]。石切町(現名古屋市中区大須の各一部[12])法応寺(のち移転し、名古屋市千種区青柳町)に葬られる[10]。法名は心光浄覚信士[10]

二代惣八

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明和3年(1766年)10月26日生まれ[10]。初代惣八の四男にあたる人物[10]。名は清次郎だったが、後に惣八を襲名する[10]文政7年11月12日、支店を鉄砲町蒲焼町西北角に出店する。弘化4年(1847年)7月11日没[13]。同じく法応寺に葬られる[13]。法名は鶴翁齢忝信士[13]

三代惣八

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享和2年11月4日(1802年)生まれ[13]。二代惣八の二男にあたる[13]。幼名は銕次郎[13]。初めは惣八を名乗るが、後に清兵衛に改名[13]1873年(明治6年)6月29日[13]。法名は清山[13]

四代目

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文久元年(1861年)9月26日生まれ[13]。三代目の二女の息子[13]。惣太郎を名乗る[13]1897年(明治30年)9月24日[13]

四代目の妻ゑい

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夫惣太郎が1897年(明治30年)に亡くなったあと、店を継ぐが、1899年(明治32年)に廃業を決意した[14]。常連客でもあった坪内・水谷らが蔵書の処分に携わり、1917年(大正6年)に完全に残務処理を終えた[14]

現存する大惣旧蔵書

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  • 東京大学文学部国語研究室大総文庫 - 歌舞伎台帳301部1218冊・浄瑠璃本639部冊・本132部275冊[15]。大総文庫は1923年の関東大震災で大半が目録とともに焼失した。ただし、文学部国語研究室に保存されていた文庫の一部が焼失を免れ、歌舞伎台帳(書名あ~す)、浄瑠璃本、噺本(咄本)等が現存する。目録が「大総文庫院本目録」「大総文庫歌舞伎台帳目録」「大総文庫噺本目録」として『東京大学文学部国語研究室所蔵古写本・古刊本目録』(1986年、177–214頁)に収録されている[16]。なお、焼失した歌舞伎台帳(書名せ~わ)の主要な書目については「国語研究室焼失主要書目録」として『国語と国文学』(1巻3号、1924年、100–102頁)に掲載されている。
  • 京都大学大惣本

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 安藤直太朗 1976, p. 462.
  2. ^ a b c d 有限会社平凡社地方資料センター 1981, p. 154.
  3. ^ a b 安永美恵.
  4. ^ a b 森井勝也 2010, p. 392.
  5. ^ a b 森井勝也 2010, p. 390.
  6. ^ 財団法人逍遙協会 1986, p. 221.
  7. ^ 『日本歴史地名大系』154頁および『中区誌』390頁は1899年(明治32年)、『尾張出版文化史』62頁は1912年(明治45年)、『坪内逍遙事典』221頁は明治中期から営業を縮小し、大正初年に廃業したとする。
  8. ^ 日野龍夫 1988, p. ⅱ.
  9. ^ a b c 太田正弘 1995, p. 62.
  10. ^ a b c d e f g h i j k 太田正弘 1995, p. 69.
  11. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1989, p. 242.
  12. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1989, p. 696.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m 太田正弘 1995, p. 70.
  14. ^ a b 森井勝也 2010, p. 397.
  15. ^ 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部図書室.
  16. ^ 東京大学文学部国語研究室 編『東京大学文学部国語研究室所蔵古写本・古刊本目録 昭和60年9月現在』東京大学文学部、1986年2月https://dl.ndl.go.jp/pid/12403897 

参考文献

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書籍

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WEBサイト

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