脇信男
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脇信男 わき のぶお | |
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生年月日 | 1919年9月1日 |
出生地 | 日本 香川県高松市 |
没年月日 | 1997年12月12日(78歳没) |
死没地 | 日本 香川県高松市 |
出身校 | 中央大学法学部卒業 |
前職 | 国会議員秘書 |
所属政党 |
(日本社会党→) 無所属 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1971年5月 - 1995年5月 |
脇 信男(わき のぶお、1919年(大正8年)9月1日[1] ‐ 1997年(平成9年)12月12日[1])は、日本の政治家。1971年から1995年までの6期24年にわたり高松市長を務めた。日本社会党県副委員長、全国革新市長会会長などを歴任。高松市名誉市民。
来歴
[編集]高松市出身。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)を経て中央大学法学部を卒業。戦後は帰郷し、同郷の成田知巳(後の日本社会党委員長)の秘書を16年間務める。
前市長・三宅徳三郎の1期限りでの引退表明を受け行われた1971年の高松市長選挙に、社会党と共産党の推薦を受け立候補。自身としては3回目の挑戦であったが、当時全国各地で革新自治体が誕生していたことや、保守陣営が分裂したことも手伝い初当選。第14代高松市長となる。
市長就任後は全国初の老人医療費助成制度(70歳以上が対象で所得制限なし)をはじめ、福祉を中心とした諸施策を実施。全国革新市長会の会長を1978年11月から1983年8月まで務める。
当初は社共共闘により市長に当選したが、のちに民社党や公明党の推薦も得て革新・中道の市長として活躍。また5選時には市議会・同志会(自民党系)の支持も取り付けており、「オール与党体制」のもとで6期の任期を全うする。
1997年12月12日、腎不全のため高松市内の病院で死去。78歳。
逸話
[編集]- 旧制高松中在籍時、第20回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に二塁手として出場。準々決勝まで勝ち進むも、後に巨人の監督となる川上哲治がいた熊本工に敗れる。
- 任期満了に伴う1995年の市長選では、脇のもとで助役を務めていた増田昌三が「市政継承」を訴え、全国初の自共共闘により当選し話題となる。
著書
[編集]- 『瀬戸の都』(1986年10月、讃文社)
- 『来時の道』(1995年5月、プリンティングオカダ)ISBN 4-87927-026-1 C0039 ¥2,500E
脚注
[編集]関連項目
[編集]- 成田知巳
- 前川忠夫
- 自共共闘
- 民共共闘
- 高松市立東部運動公園 - 脇市長時代の1994年に工事が始まり、2014年5月に全面オープンした。ただし、市の財政悪化に伴う事業内容の見直しにより、当初計画された大規模施設(サッカー場、野球場等)の設置を取りやめ、事業規模は縮小されている。
公職 | ||
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先代 三宅徳三郎 |
高松市長 第14代:1971年 - 1995年 |
次代 増田昌三 |