コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

舩橋求己

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
舩橋求己
ふなはし もとき
生年月日 1911年8月14日
出生地 岡山県岡山市
没年月日 (1984-02-04) 1984年2月4日(72歳没)
死没地 京都府京都市
出身校 京都帝国大学経済学部
前職 京都市役所職員
京都市助役
所属政党 無所属

第22代 京都市長
当選回数 3回
在任期間 1971年4月 - 1981年7月31日
テンプレートを表示

舩橋 求己(ふなはし もとき、1911年明治44年)8月14日[1] - 1984年昭和59年)2月4日[1])は、日本政治家。3期10年にわたり京都市長を務める。全国革新市長会副会長。

来歴

[編集]

岡山県岡山市出身[1]。旧制第二岡山中学校(現;岡山県立岡山操山中学校・高等学校)、1934年京都帝国大学経済学部を卒業後、京都市役所に入庁[1]。研修時代には交通局に所属し、市電の運転も行った。その後は住宅局、民生局、水道局(現:上下水道局)の各局長などを経て、1967年助役に就任[1]1971年の京都市長選に日本社会党日本共産党の推薦を得て出馬し、前民社党代議士永末英一らを破り初当選を果たす。

当選時は、同じく革新系の京都府知事蜷川虎三も「府市協調を歓迎する」と発言したものの、1975年の市長選では社会党の妨害によりこれまでの社共共闘が崩壊。社公民の推薦と共産党の支持のほか、「再び市政の担い手となることを希望する」として自民党も支援を打ち出したことから、保革5党相乗り体制により増田眞一高田がんをやぶり再選。この時の選挙は京都名物に擬えて五色豆選挙と呼ばれた。1979年の市長選でも従来の5党に新自クを加え、社民連以外の6党による支援を背景に、新顔の幡新守也を破り3選。

3期目途中の1981年5月、自宅においてクモ膜下出血で倒れ、同年7月引退を表明する[1]。1984年2月4日、肺炎のため京都市中京区京都市立病院で死去。72歳。

市長在任中は市電撤去と地下鉄建設を進めたほか、全国初の罰則つき空き缶条例の制定などを行った。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』541頁。

参考文献

[編集]
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。

関連項目

[編集]