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良岑衆樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
良岑衆樹
時代 平安時代前期
生誕 貞観4年(862年
死没 延喜20年9月24日920年11月7日
官位 従四位上参議
主君 陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族 良岑氏
父母 父:良岑晨直
母:丹波氏または丹治氏娘
兄弟 衆樹、善樹
義方
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良岑 衆樹(よしみね の もろき)は、平安時代前期の貴族良岑安世の孫で、左中弁良岑晨直[1](または農直[2])の次男。従四位上参議

官歴

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和暦 西暦 叙位任官など 年齢(数え年)
元慶3年1月17日 879年2月11日 馬寮左馬少允 18歳
元慶8年5月7日 884年6月3日 左馬権大允 23歳
寛平2年4月15日 890年5月7日 左近衛将監 29歳
寛平7年3月28日 895年4月26日 兼東宮主馬首 34歳
寛平8年1月26日 896年2月13日 播磨少掾 35歳
寛平9年2月14日 897年3月20日 越前大掾 36歳
寛平9年7月7日 897年8月8日 蔵人(六位蔵人) 36歳
寛平9年7月13日 897年8月14日 従五位下 36歳
寛平9年7月16日 897年8月17日 蔵人(五位蔵人) 36歳
寛平9年12月13日 898年1月9日 右兵衛佐 36歳
昌泰2年1月11日 899年2月24日 内蔵権助 38歳
昌泰2年4月2日 899年5月15日 右近衛少将 38歳
昌泰4年2月19日 901年3月12日 近江 40歳
昌泰4年3月15日 901年4月6日 内蔵頭 40歳
延喜2年1月7日 902年2月17日 従五位上 41歳
延喜5年1月11日 905年2月17日 伊予 44歳
延喜5年10月17日 905年11月16日 主殿頭 44歳
延喜7年1月7日 907年2月21日 正五位下 46歳
延喜8年2月23日 908年3月27日 備前 47歳
延喜9年4月23日 909年5月15日 左近衛少将 48歳
延喜10年1月7日 910年2月19日 従四位下 49歳
延喜10年1月21日 910年3月5日 昇殿 49歳
延喜11年1月13日 911年2月14日 右近衛権中将 50歳
延喜12年1月15日 912年2月5日 兼備前守 51歳
延喜15年1月7日 915年1月24日 従四位上 54歳
延喜15年1月15日 915年2月1日 兼近江権守 54歳
延喜15年8月19日 915年9月30日 蔵人頭 54歳
延喜16年3月28日 916年5月2日 右近衛中将 55歳
延喜17年1月29日 917年2月23日 参議 56歳
延喜17年5月20日 917年6月12日 兼伊予権守 56歳
延喜18年1月16日 918年3月1日 兼近江守 57歳
延喜19年6月3日 919年7月2日 治部卿 58歳
延喜20年9月24日 920年11月7日 卒去(参議宮内卿)[3] 59歳

逸話

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50歳になるまで微官に留まっていた衆樹は、ある時、雨の中苦労して坂を登って石清水八幡宮に参詣した。その際、神社の前にの老木が茂っていたの見つけ、この橘の木のように自ら(衆樹)も老いてしまった、との趣旨の和歌を詠んだ。これを聞いた八幡神が哀れんで、その情けにより、橘の木は茂り栄え、衆樹も栄職である蔵人頭に任官されたという(『大鏡』[4])。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 公卿補任』による。
  2. ^ a b 尊卑分脈』、『良峰氏系図』(『続群書類従』所収)による。
  3. ^ 『日本紀略』
  4. ^ 大鏡』第六巻10段。