芦田鹿之助
芦田 鹿之助(あしだ しかのすけ、1857年8月7日(安政4年6月18日[1])- 1928年(昭和3年)4月30日[1][2])は、明治期の地主・銀行家・政治家。衆議院議員、京都府天田郡初代中六人部村長。号・光月[1]。元首相の芦田均の父。
経歴
[編集]丹波国天田郡宮村[1](京都府[2]天田郡中六人部村[3]字宮[1]を経て現福知山市)で、大地主、大庄屋・芦田治左衛門の長男として生まれる[1]。綾部藩の近藤寡斎、沢井広重などに師事し、綾部藩郷学校・広畔堂で修学[1]。その後、京阪に遊学した[1]。
1875年(明治8年)3月、豊岡県の天田郡宮村用掛に就任し、さらに同県第十七大区四小区副戸長を務めた[1]。1876年(明治9年)天田郡が京都府に編入され、同年10月、天田郡第一区副区長兼学区取締となる[1]。その後、宮村戸長、田野村外四カ村戸長、所得税調査委員を務めた[1]。1889年(明治22年)5月、初代中六人部村長となった[1][2][3]。その他、福知山町外十一カ村組合長、京都府教育会天田郡部会長にも在任した[1]。政党は立憲改進党に加わり自由民権運動に参加[1]。再建後の自由党に入党した[1]。
1887年(明治20年)3月、京都府会議員に選出され、通算4期在任し、1903年(明治36年)9月に退任[1][2][3]。1899年(明治32年)9月、天田郡会が開設され同議員に選出され、1903年(明治36年)9月まで1期在任し、この間、同議長を務めた[1]。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(京都府郡部、甲辰倶楽部)で当選し[1][4]、その後、立憲政友会に所属して[1][2]、衆議院議員に1期在任[2]。1919年(大正8年)1月、政友会京都支部相談役に就任した[1]。
実業界では、1898年(明治31年)9月、京都府農工銀行設立委員となり、1899年(明治32年)3月、同行設立に伴い監査役に就任し[1][2][3]、その後、取締役となる[1]。また、1901年(明治34年)7月、福知山町(現福知山市)に丹波銀行を創立し取締役頭取に就任した[1][2][3]。1908年(明治41年)丹波銀行が破綻したため、一切の公職を辞職して残務の整理を行い、一時、京都に移って1913年(大正2年)に帰郷し、晩年は悠々自適の生活を送った[1]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1890年7月、自由党)次点落選[5]
- 第8回衆議院議員総選挙(京都府郡部、1903年3月、立憲政友会)次点落選[4]
- 第9回衆議院議員総選挙(京都府郡部、1904年3月、甲辰倶楽部)当選[4]
親族
[編集]- 二男 芦田均(内閣総理大臣)