荒木田裕子
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基本情報 | ||||||||||||
国籍 | 日本 | |||||||||||
生年月日 | 1954年2月14日 | |||||||||||
出身地 | 秋田県仙北郡田沢湖町(現仙北市) | |||||||||||
没年月日 | 2024年8月30日(70歳没) | |||||||||||
ラテン文字 | Yuko Arakida | |||||||||||
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荒木田 裕子(あらきだ ゆうこ、1954年2月14日 - 2024年8月30日)は、秋田県仙北郡田沢湖町(現仙北市)出身の元バレーボール日本代表、バレーボール指導者。2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会副会長を務めた。
経歴・人物
[編集]日本バレーボール協会強化事業本部長、女子強化委員会GM兼務[1]。日本オリンピック委員会理事、同アスリート専門部会長、アジア・オリンピック評議会理事[2]、国際オリンピック委員会プログラム委員などの要職を歴任。
2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事だった2021年、森喜朗の女性に関する発言でにわかに組織委内で女性登用を進める必要が高まったため、3月の理事会で急遽7人目の副会長に選出された[3]。副会長に就任した初の女性。「ジェンダー平等」や「多様性の尊重推進」を担当した。
スポーツ界に世界的な人脈を持っていたことで知られ、スポーツ新聞の報道で「国際バレーボール連盟(FIVB)、国際オリンピック委員会と交渉できる日本で数少ない人物」と評されたことがある[5]。
2024年8月30日に死去した[6][注 1]。死因は肺がんだが、白血病を長く患っていた[6]。70歳没。
来歴
[編集]- 角館南高卒業後の1972年、日立製作所に入社する。
- 1973年に全日本入りし、1974年メキシコ世界選手権、1976年モントリオールオリンピック、1977年ワールドカップで日本の優勝に貢献した。
- 1978年、現役を引退し、共立女子短期大学へ入学した。
- 1980年、アジア人女性では初の国際公認コーチとなり、スイス、旧西ドイツにて指導・研修を行った。
- 1986年より1年間、イギリスで語学研修を行う。
- 帰国後は解説、バレーボール教室、講演などで幅広く活動した。
主な受賞歴
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ "荒木田氏が強化事業本部長=バレー". 時事ドットコム. 時事通信社. 2014年1月29日. 2014年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月18日閲覧。
- ^ 『月刊バレーボール』2012年4月号 pp. 154-155。
- ^ 役員等 公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会
- ^ “荒木田裕子氏らが新理事に 全日本野球協会”. SANSPO.COM. (2021年6月15日) 2024年12月19日閲覧。
- ^ "【記者の目】地に落ちた日本バレーボール協会の信頼…診断書偽造問題で会長の嶋岡健治氏が解職". スポーツ報知. 報知新聞社. 2022年1月13日. 2024年12月19日閲覧。
- ^ a b “モントリオール五輪金メダリストらが荒木田裕子さんを偲ぶ会を開催。正確な病名なども判明”. バレーボールマガジン (2024年12月18日). 2024年12月18日閲覧。
- ^ "荒木田裕子さん死去 五輪金メダル、70歳―バレーボール女子". 時事ドットコム. 時事通信社. 2024年9月18日. 2024年12月19日閲覧。