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荒谷桂吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

荒谷 桂吉(あらや けいきち、1853年6月12日(嘉永6年5月6日[1][注釈 1])- 1934年昭和9年)2月14日[1][2][3][4])は、幕末から明治期の実業家政治家衆議院議員、秋田県会議長、秋田県北秋田郡大葛村長。諱・富延、号・葛渓、檗堂[1]大葛鉱山支配人・荒谷家13代当主[1]

経歴

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出羽国秋田郡大葛村[1]秋田県[3]北秋田郡大葛村[4]比内町大葛[1]を経て現大館市比内町大葛)で、大葛鉱山支配人の荒谷家12代当主・荒谷忠一郎の二男として生まれた[1]。10歳で父を失い家督を相続して大葛鉱山支配人を継承したが[1]、1870年(明治3年)大葛鉱山は久保田藩有となった[1][2]

その後、大館の儒者・中田錦江に師事し漢学を修めた[1]。さらに上京して1875年(明治8年)慶應義塾を卒業した[1][3][4]。帰郷して、発盛(山本郡)・花輪(鹿角郡)の各鉱山の経営[1][2]、山林、養蚕、畜産などに投資を行い[1]、実業家として活躍[1]。農業も営んだ[3]

1880年(明治13年)10月、秋田県会議員に選出されたが6ヵ月で辞任[1]。1882年(明治15年)2月、県会議員に再選され1892年(明治25年)2月まで在任し、この間、県会副議長を務めた[1]。同年2月、第2回衆議院議員総選挙(秋田県第2区)で当選した[2][5]。1895年(明治28年)9月、県会議員に再選され1899年(明治32年)9月まで2期在任し[1]、この間、県会議長を務めた[1]。また1901年(明治34年)大葛村長に選出されたが3日間だけの在任で辞任した[1][3]

1904年(明治37年)3月、第9回総選挙(秋田県郡部、憲政本党)で再選され[1][6]、次の第10回総選挙でも当選し[1][7]、衆議院議員に通算3期在任した[2][3][4]。この間、犬養毅と行動を共にした[1]

その後、町田忠治に地盤を譲って政界を引退し[1][2]、乗馬、伝書鳩飼育、盆栽などで余生を楽しんだ[1][2]

国政選挙歴

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親族

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  • 長男 荒谷夷一(大葛村長)[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『秋田人名大事典(第二版)』24頁では嘉永5年。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『秋田代議士物語』43-48頁。
  2. ^ a b c d e f g 『秋田人名大事典(第二版)』24頁。
  3. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』27頁。
  4. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』20頁。
  5. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』41頁。
  6. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』24頁。
  7. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』64頁。
  8. ^ 『秋田代議士物語』48頁。

参考文献

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  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 杉渕廣『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』秋田魁新報社、1989年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『秋田人名大事典(第二版)』秋田魁新報社、2000年。