片野重脩
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片野 重脩 かたの しげなが | |
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1932年頃の片野重脩 | |
生年月日 | 1891年1月21日 |
出生地 | 日本 秋田県横手町 |
没年月日 | 1978年3月27日(87歳没) |
出身校 | 東京帝国大学中退 |
前職 | 農業団体役員 |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 |
藍綬褒章(1956年) 勲四等旭日小綬章(1965年) 勲三等瑞宝章(1971年) 秋田県文化功労者(1969年) 従五位(1978年) |
配偶者 | 片野ソノ |
子女 | 片野饗一 |
片野 重脩(かたの しげなが、1891年(明治24年)1月21日 - 1978年(昭和53年)3月27日)は、日本の政治家。実業家。衆議院議員(2期)立憲政友会所属。秋田相互銀行、秋田銘醸、羽後交通社長などを務めた。
人物・来歴
[編集]江戸時代は佐竹一族の戸村家の家臣であり、士族。秋田県横手町(現・横手市)出身。東京帝国大学法学部に進むも、病気のため中退し帰郷する[1]。
1922年(大正11年)に、横手町長に就任する。翌年には、秋田県会議員選挙に出馬し当選。その後には県会議長も務めた。 1930年(昭和5年)には、衆議院選挙に出馬し当選。議員を2期にわたって務めた。その一方、秋田県の農業団体の役員も務め、農業界の実力者としても君臨した[2][3]。
第二次世界大戦後には、公職追放となるが[4]、実業界において活躍。秋田無尽(現・北都銀行)の社長を長年にわたって務めたほか、秋田銘醸第四代社長、横手織物社長、羽後交通社長、秋田放送取締役なども歴任した[2]。
妻ソノは那波亥之助の長女で、子には秋田あけぼの銀行頭取を務めた片野饗一がいる。
経歴
[編集]- 第一高等学校卒業。
- 東京帝国大学法学部中退。
- 1922年(大正11年) - 秋田銘醸取締役、横手町町長。
- 1923年(大正12年) - 秋田県会議員。
- 1928年(昭和3年) - 秋田県会議長。
- 1930年(昭和5年) - 衆議院議員。
- 1935年(昭和10年) - 秋田県農会(後、農業会)会長。
- 1942年(昭和17年) - 秋田県森林組合連合会会長。
- 1947年(昭和22年) - 羽後交通社長。
- 1949年(昭和24年) - 秋田無尽社長。
- 1952年(昭和27年) - 秋田銘醸会長。
- 1955年(昭和30年) - 秋田銘醸社長。
- 1973年(昭和48年) - 秋田相互銀行会長。
- 1976年(昭和51年) - 秋田相互銀行顧問。
衆議院議員選挙歴
[編集]- 1930年(昭和5年)2月20日 - 第17回衆議院議員総選挙(旧秋田県第2区・立憲政友会・19533票獲得)初当選
- 1932年(昭和7年)2月20日 - 第18回衆議院議員総選挙(旧秋田県第2区・立憲政友会・26365票獲得)2期目当選
家族・親族
[編集]- 叔父・祐吉(妻のソノは奈良右左衛門の三女)
- 叔母・ヒサ
- 弟・復次郎(妻のリンは鎌田圓治の孫)
- 妹・ヒデ(夫の忠吉は婿養子で、須藤敬四郎の次男)
- 妹・タカは叔父・祐吉の養子となる
- 親戚
- 那波三郎右衛門(幼名は慎治。那波商店。秋田県多額納税者)
- 加賀谷富太郎 (母方の遠縁)
- 高久多吉(多吉の長男・修一郎の妻は那波亥之助の三女・リカ。リカはソノの妹)
- 板谷五郎左衛門(幼名は孝之助で、妻は寺田隆造の二女・勝)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録8版』人事興信所、1928年。