菅原佐平
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菅原佐平 すがわら さへい | |
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生年月日 | 1885年3月17日 |
出生地 |
日本 岩手県西磐井郡真滝村 (現・岩手県一関市) |
没年月日 | 1969年7月17日(84歳没) |
出身校 | 東京帝国大学医科卒業 |
前職 | 海軍軍医中将 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 正七位 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1955年1月31日 - 1963年1月24日 |
菅原 佐平(すがわら さへい、1885年〈明治18年〉3月17日[1][2] - 1969年〈昭和44年〉7月17日[2])は、日本の海軍軍人(海軍軍医)、政治家。最終階級は海軍軍医中将。一関市長。正七位。
来歴
[編集]岩手県西磐井郡真滝村(現・一関市)出身[3]。滝沢小学校、一関中学校を経て、第二高等学校、1911年(明治44年)東京帝国大学医科卒[1][2]。同年海軍軍医となる。1928年(昭和3年)海軍軍医大佐となり、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議の随員として加わる。帰国後は第二艦隊軍医長などを務めた。1933年(昭和8年)に湊海軍病院長に就任し、翌1934年(昭和9年)に海軍軍医少将に昇進するとともに呉海軍病院長に就任、1935年(昭和10年)に佐世保海軍病院長に就任した。1938年(昭和13年)に海軍軍医中将に昇進し、間もなく予備役となった。
海軍を去った後は郷里に戻った。戦時中は地元の翼賛壮年団で活動したため、戦後、公職追放となる[4]。
1955年一関市長選挙
[編集]追放解除後の1955年(昭和30年)に一関市が近隣の4村を合併し新一関市が発足した[5]。それに伴う一関市長選挙に立候補して、自由党所属で合併前の市長松川昌藏[注釈 1]と共産党の新人を破って初当選を果たした[5]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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菅原佐平 | 69 | 無所属 | 新 | 15,483票 | 61.7% | - |
松川昌藏 | 62 | 自由党 | 新[注釈 1] | 9,082票 | 36.2% | - |
三浦惣平 | 51 | 日本共産党 | 新 | 542票 | 2.2% | - |
1月31日に市長に就任した[1]。
1959年一関市長選挙
[編集]無所属の新人との一騎打ちとなったが、これを破って再選を果たした[5]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
菅原佐平 | 73 | 無所属 | 現 | 17,947票 | 71.5% | - |
橋本元 | 66 | 無所属 | 新 | 7,149票 | 28.5% | - |
1963年の市長選挙には立候補しなかった[5]。同年1月24日に退任した[1]。1969年死去。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考資料
[編集]- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長 第1巻』歴代知事編纂会、1983年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 真滝村志史復刻刊行委員会『復刻真瀧村志』一関プリント社出版部、2003年6月10日