薛極
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薛 極(せつ ごく、隆興元年(1163年)- 端平元年5月7日[1][2](1234年6月5日))は、中国南宋の官僚・政治家。字は会之。常州武進県の人。
経歴
[編集]蔭位により上元県主簿に任官した後、博学宏詞科に合格。大理寺評事・温州通判・知広徳軍を務めた。嘉定元年(1208年)以後は楼鑰の推薦により大理寺正・刑部郎官・司封郎中・権右司郎中・刑部侍郎・中書門下省検正諸房公事などを歴任し、司農寺卿・権兵部侍郎を拝命された。当時、朝廷の実権者であった丞相史弥遠に迎合し彼の腹心となり、胡榘・聶子述・趙汝述などと共に史弥遠の専横を支える「四木」[3]の一員と呼ばれた。嘉定8年(1215年)、寧宗に常に警戒する心で国政を見守るように奏請し、権刑部尚書・吏部尚書に昇進した。
嘉定15年(1222年)、進士出身と同様の待遇を受ける一方、僉書枢密院事に任ぜられた[4]。宝慶元年(1225年)、参知政事・端明殿学士となり[1]、紹定元年(1228年)には同知枢密院事を経て知枢密院事を兼ねた[1]。紹定4年(1231年)、京城の大火により太廟が焼失すると、宰執と共に官位が降格されてから翌年に復す[1]。紹定6年(1233年)10月、枢密使に就き毗陵郡公に封ぜられたが、その直後に史弥遠が病死し後援者を失い、同年12月には観文殿大学士・紹興府知府・浙東安撫使に左遷されている[1][5]。
端平元年(1234年)、少保が加わり、和国公に封ぜられたが、致仕してすぐに死去。少師が追贈された[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『宋史』巻214, 表第5 宰輔五による。
- ^ 『宋史』巻41, 理宗紀一 端平元年条によれば5月2日(庚子)とされている。
- ^ 薛極を含めた4人の名前にすべて「木」の字が入っていたことを風刺する別称である。
- ^ 『宋史』巻213, 表第4 宰輔四による。
- ^ 『宋史』巻41, 理宗紀一 紹定六年十二月庚辰条による。
参考文献
[編集]- 『宋史』巻419, 列伝第178