藁谷勇三郎
生誕 |
1877年4月24日 福島県若松町 |
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死没 | 1966年7月30日(89歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1899 - 1922 |
最終階級 | 陸軍大佐 |
除隊後 |
会津松平家執事 稚松会理事 |
墓所 | 青山霊園 |
藁谷 勇三郎(わらがや[1][* 1] ゆうさぶろう、1877年(明治10年)4月24日 - 1966年(昭和41年)7月30日[2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。
生涯
[編集]福島県士族の三男である。会津中学[* 2]を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(第10期)を卒業し[3]、翌年6月27日、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となった[4]。戸山学校教官、将校生徒試験常置委員[5]、歩兵第15連隊大隊長[6]、歩兵第59連隊附[7]、松本連隊区司令官等を歴任し、1922年(大正11年)予備役編入となる。日露戦争、シベリア出兵に従軍し、功五級に叙せられた[8]。教官を務めた戸山学校は陸軍歩兵戦術の研究、教育に当たる機関で、藁谷は剣術、水泳、体操に関係する下記の著作を刊行した。『剣術用具ノ手入保存法』には当時の校長大庭二郎が序文を寄せている。予備役後は会津松平家執事を務める[9]。会津松平家分家の松平一郎に嫁いだ松平豊子(徳川家正長女)によれば、藁谷は「極く人のいい」人物であった[10]。
- 著作
- 『新旧剣術教範之研究』 軍事教育会、1907年
- 『各種教練と体操』 東京兵事雑誌社、1909年
- 『遊泳教育』 東京兵事雑誌社、1910年 (相良広一との共著)
- 『剣術用具ノ手入保存法』 陸軍戸山学校将校集会所、1912年
- 稚松会設立
1912年(明治45年)1月3日、会津出身陸海軍将校が会津松平家を年賀に訪問する。その場で稚松会の設立発起がなされ、藁谷(大尉)は他の一人(機関少佐)と案内状を発送する。4日後には松平保男、山田英夫、野口坤之、秋月胤逸(のち少将)、横山勇、下平英太郎、樋口修一郎そして藁谷らが集い、会設立が決議された[5]。藁谷はのちに理事を務め[11]、また賛助員[12]として同郷後進の育成に尽力した。
子女
[編集]長男の武は北海道帝国大学[8]出身の三菱重工業技術者で、高速魚雷艇の技術導入のため第五次遣独潜水艦作戦で「伊52潜水艦」(宇野亀雄艦長)に便乗してドイツを目指したが、北大西洋で撃沈されて戦死した[13]。末子は1939年(昭和14年)時点で陸軍幼年学校に在籍、長女は塩沢清宣(のち陸軍中将)に嫁ぐ[8]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- 注釈
- ^ 陸軍実役停年名簿では「わらや」。
- ^ 藁谷は会津中学2回生で、同級生に名越士朗海軍大佐がいる。名越は海軍兵学校27期で、松平保男とともに「鎮遠」分隊長として日本海海戦を戦った。名越も稚松会設立決議に加わっている。
- 出典
- ^ 『春は昔』153頁
- ^ 近藤豊「十期」『偕行』第183号、偕行社、1966年9月、26頁、NDLJP:11435294、2023年11月8日閲覧。
- ^ 『官報』第4625号、明治31年11月29日。
- ^ 『官報』第4796号、明治32年6月28日。
- ^ a b 『稚松会会誌』(1912年発行)
- ^ 『会津会会報第10号』
- ^ 『会津会会員名簿』
- ^ a b c 『大衆人事録 東京篇』「藁谷勇三郎」
- ^ 『会津会雑誌第51号』
- ^ 松平豊子『春は昔 徳川宗家に生まれて』文春文庫、2012年。ISBN 978-4-16-783834-8。153頁
- ^ 『稚松会会員名簿』1937年12月
- ^ 『稚松会会誌第19号』
- ^ 新延明 ,佐藤仁志『消えた潜水艦イ52』NHK出版、1997年。ISBN 4-14-080307-X。「5パーセントの生還率」
- ^ 『官報』第5587号「叙任及辞令」1902年2月21日。
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版、1939年)