藤原季綱
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時代 | 平安時代中期-後期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従四位上、越後守 |
主君 | 白河天皇 |
氏族 | 藤原南家貞嗣流 |
父母 | 父:藤原実範、母:高階業敏の娘 |
兄弟 | 成季、季重、季兼、季綱、行綱、興義、実慶 |
妻 | 藤原親経の娘、藤原通宗の娘 |
子 | 友実、尹通、実兼、範貞、慶祐、陽仁、尋秀、悦子 |
藤原 季綱(ふじわら の すえつな)は、平安時代中期から後期にかけての廷臣・漢詩人。藤原南家貞嗣流、文章博士・藤原実範の四男。官位は従四位上・越後守。
経歴
[編集]父・実範の後を継いで紀伝道の研鑽に励み、文章生から対策に及第。
後冷泉天皇に蔵人右衛門尉として仕えたのち、後三条朝から白河朝初頭にかけて右衛門権佐(検非違使佐)を務める。承保2年(1075年)備中権介に転じると、肥前権守・三河守・備前守・越後守と20年以上の長きに亘って地方官を歴任した。
一方で、白河院に近臣として仕え、鳥羽の別邸を院に献上。これを拡張し構築されたのが鳥羽殿であり、院政期には政治の中心機構となっている。
人物
[編集]漢学者・漢詩人であり、文章生時代の天喜4年(1056年)の殿上詩合に参加している。また、詩作が『本朝無題詩』『本朝続文粋』『朝野群載』『中右記部類紙背漢詩集』などに採録されている。
官歴
[編集]- 時期不詳:文章生。対策[1]
- 天喜5年(1057年) 日付不詳:蔵人右衛門尉[2]
- 時期不詳:大学頭[1]
- 治暦5年(1069年) 正月27日:右衛門権佐、見従五位上[3]
- 承保2年(1075年) 正月28日:備中権介[4]、止権佐?[5]
- 承暦元年(1077年) 10月20日:見肥前権守[6]
- 承暦4年(1080年) 6月5日:見三河前司[6]
- 応徳3年(1086年) 10月20日:備前守(重任)[7]
- 寛治7年(1094年) 7月16日:越後守、元備前守[8]
- 永長元年(1096年) 12月29日:越後守(重任)[9]
- 康和元年(1099年) 正月21日:見越後守従四位上[10]
- 康和4年(1102年) 9月14日:見故越後守[9]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。